nagajisの日不定記。
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今日小耳に挟んだ表現の話である。パートさんの義理のお父さんの言。
あそこの歯医者は勝負が早いから(気に入っているのだ云々)
などと使うそうである。今は大阪にお住いだが出自はチャキチャキの江戸っ子だと伺っているのである種の方言であるのかも知れない。しかし何とも妙を突く言葉だ。医者にかかるとか歯医者に診てもらうというと(そしてその行為自体も)受け身な行為という印象になってしまうが、「医者と勝負する」と書くと、その途端に人対人の対等なやりとりになって頼もしい。診察=一対一の真剣なやりとりなのである。
「結果」に焦点が向いているのもよい。治るのか、治らないのか。薬をくれるのかくれないのか。それが勝ち負けのメタファーによって明確にされる。いま抱えている身体の不具合を治してほしいから医者に行くのであって、その不具合の原因を即座に見抜いて適切な処置を施してくれたとしたら、まさしく医者の勝ちであろう。そういう勝負のはやさを望むだろう。患者自身が勝つことは期待されていない。なるほどそうか、この勝負は医者と病との勝負と見てもいいのだな。
どだい対人コミュニケーションはなんでも本来そうあるべきなんじゃないかと思う。 お客様は神様とばかりに妙に高圧的になる輩、その場を取り繕うだけの言辞でものを買わせようとする家電量販店店員、と「勝負」すべきである。コンビニに行って買い物をすることも「コンビニと勝負する」。王将で天津飯弁当を贖うのも「天飯弁当を勝負する」。注文した牛丼がなかなか出てこなれば「勝負にならん」。
というような用法を考えてはみたけれどもいまいちすっきりとしない。人対人の対面応接でなければこの語の感触は嵌らないようだ。コンビニなんか対人のナニカとは思えないしな。こちらの言葉を都合よく聞いて対応してくれるシステムにモノを買いに行っているようなものだからだろうか。言っても暖簾に腕押しで杓子定規な答えしか帰ってこないのであればそれこそ勝負にならぬ。刺すか刺されるかの真剣勝負であってみてもいいのでないか>コンビニ。
そろそろ目次を作らないとと思ってファイル名を拾っていたら表紙の誤字とかナンバリング間違いとか出てきて恥ずかしいのなんの。生れてすみません。