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2018-04-18 [長年日記]

[きたく][煉瓦刻印][煉瓦工場] 大津膳所瀬田ッタ

今日はTさんのお誘いで大津で見つかった中川煉瓦の刻印と思われるものを拝見しに行った。これについては後日詳報するとして、その後単独行動で歩いた時にもなかなかな収穫があったから、そちらのことを書き残しておくことにする。

画像の説明まず、大津市街の廃町家の一角で初見の煉瓦刻印に遭遇した。大ぶりの○に「甲二」「甲六」とあるもので---写真は後者、「甲」の字に粘土が被って読みにくくなっている---、地理的に蹴上の○印を彷彿とさせた。厚75mmを超える分厚さも特徴的で、随分古いもののように思われる。とりあえず確保したというばかりで工場のアテ等はついていないのだが、記録に残っていない初期の工場か、滋賀村にM42前後のわずかな期間だけ存在した楠江煉瓦工場のものかも知れない(あ、これもクなんだな)。

画像の説明 画像の説明 画像の説明 そこから京阪浜大津駅まで歩き、膳所本町へ。あわよくば膳所監獄の煉瓦をと思って訪れたのだけれども、ここでも初見の刻印に出会ったばかりか、焼損煉瓦を使った壁に遭遇したりした。長屋門的なものまで煉瓦で作ってあるという本格的なものである(この門のところと壁の天辺だけ機械成形の製品煉瓦を用い、それ以外は「超」のつく焼損煉瓦が積まれている。どれも相当にゆがんでいるうえ目地の仕上げも雑なのでお世辞にもきれいとは言い難いが、ここまで徹底的に焼損煉瓦を利用しているのはまあ珍しいかも知れない。近江八幡のヴォーリズの壁はどうだったろう?門柱だけとか壁に埋め込みとかだったような気もするな。いや大きな壁も見たっけか)。

この門は南大手門跡より浜側にあって、当初はこれが膳所監獄の?と思っていたのだけれども、そこから南へ進むほどに同類の焼損煉瓦壁の民家を見、思い直して工場表を再確認すれば、なんの事はない江州煉瓦の膳所工場があったのだった。最初に見つけた一壁は天辺に○Gがあったりしたし。この○Gには「18」らしい添え印があったりもして興味深かった。江州煉瓦で添え印があるのは初めて見た。

画像の説明初見の刻印は小判型の中に「ク二」とあって、おそらく膳所江州の前身の黒川煉瓦工場のものだろうと思う。ひょっとしたら楠江かもしれないが、黒川氏の工場は先に山田村(現草津市)にでき、その後膳所にもできているので、第二工場の意味の「二」なんじゃないかと思った。そこはまあ楠江の内部識別符丁二でもありえるのだけれども。何しろ統計で一度しか出てこなかったし大津では見なかったしな-。山田村の黒川工場は大阪窯業時代を経て江州煉瓦山田工場となった(S4)。膳所の黒川工場はT9頃。いずれも長くは続かなかったがその痕跡はこの通り残っているのだった。

画像の説明

焼損煉瓦を使った壁の中でも横田眼科のそれが上手い。ふくれた平を表に見えるように積んである&似たような膨れ具合のものを揃えてあるのでそこそこ見栄えがする。

そこからさらに東へ。瀬田には大萱田中煉瓦工場があった。明治17年創業とされる工場で(ただし17-42の間ずっとやっていたとは思えず。後述参照)住所も瀬田村大字南大萱とわかっている。

いま現在の地図で「南大萱」を検索すると随分山手のほうを示されてしまうけれども、種々観点から考えてそれはないだろうと思い、探索範囲を駅北方に絞った。その勘は結果的には大正解であった。いまの大字大萱は草津の大萱と区別するために明治7年に南大萱と改名されていたと、大萱会館の前に建っていた標柱が教えてくれた。

細路地が自由闊達に伸び廻る大萱二丁目の一帯から、丘陵の裾の五丁目字浜口まで、かなり仔細に歩き回った。しかしこれといって煉瓦が目立って多かったわけではなく、あっても○Gか無刻印の手整形ばかりだった。17年からずっと作り続けていたらもっと見つかってしかるべきだろう。もう一度原本から見直さなければならないかもしれない。

とはいいながら、日が落ちる寸前のところでようやく刻印煉瓦に遭遇した。しかもこれも未見の一個だ。

画像の説明画像の説明一見ただの貝塚煉瓦。しかし井桁の中に「カ」と入っている。貝塚井桁菱に添え印が入っているのは見たことがない。井桁菱にKはあるけど(しかもKもカでありえるのだけれども)。実は逆さまで4なのかも知れないと思ったりもし、讃岐煉瓦を連想しもしたが、違う違う、あれは松葉菱だ。

この煉瓦も厚77~78mm≒2.5寸に達するデカブツ。今日は規格外にばかり縁があるようだ。手整形で質感は古め、似たサイズの煉瓦をそこから駅まで向かう間に2個見たけれども、そちらには刻印は無かったし、同サイズのは結局その3個だけだった。このエリアで優勢なサイズというわけでもないらしい。全く謎である。

総じて、滋賀はまことに江州煉瓦一強という印象。大阪窯業や岸和田煉瓦さえ見ない。いや窯業は一個あったっけ、それと何故かACID PROOFが1つ。大津でも見る煉瓦見る煉瓦機械整形の○Gで見飽きるほどだった。比較的遅くまで操業していたというのが最大要因だろうけれども堺系の煉瓦がここまで侵食し得なかったとは思っていず意外な感じを受けたことだった。逆に言えばこれだけ大量にあることが即ち強力な浸透圧となって京都奈良大阪吹田くんだりまで溢れ出てきていたのだと理解される。堺亡き後の京阪神奈の需要を満たしたのは江州だとか印南郡だとか広島だとか讃岐だとかいった周縁部の煉瓦なのだ。


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