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2018-04-24 [長年日記]

[古レール] 大津~馬場間20鎖 in 1909

明治42年の鉄道統計図表にはこの当時官設鉄道に敷設されていた軌条が重量ごと・規格ごとに分類されて載っている。この中で「大津~馬場」間に双頭軌条が20余鎖残っていることになっている。あれ、なんでこんなところに? と思ったら、ここでいう大津駅は開業当初の大津駅、現在の京阪浜大津駅の辺りにあったやつのことで、馬場駅は現膳所駅なのだった。逢坂山隧道から大津に直接降りることができなかったので馬場駅=膳所駅でスイッチバックして湖畔の大津駅に達していた。そこから長浜まで湖上舟運というやつだ。んで件の資料のはその区間のこと(明治22年に米原まで繋がったあと貨物支線として残っていた。いちど旅客扱いが復活したみたいだけどややこしいのでパス。んで1960年代に完全廃止)。

京都~大津間建設の時は大阪~京都間で採用した平底レールから再び双頭軌条に戻った。この区間は明治11年(1878)着工、明治13年(1880)に開業。日本鉄道史上編なんかを読むと確かに鋼製双頭軌条を使ったとある(重さは61ポンド半。先に採用していた双頭レールは錬鉄製の60ポンド軌条:Darlington Iron製で、断面形状はそれと同じだが、密度の違いからちょっとだけ重かった)。故に1878銘のCAMMELLの双頭レールはここで使われた説が根強くある。

でもDarlingtonだって1872にベッセマー炉作ったっていうしなー。73以降のDrarlingtonの双頭レールだって鋼製である可能性が全くないわけじゃないんじゃね、と軽く考えてみたりしている。77とかあてはまりそうだし。切って密度測ったらなんかわかるんかな。厳密に1cm3切り出して重さ測るだけでわかるやろー。

問題はそこじゃなかった。なぜその頃の古レールが1910年代・20年代の古レールと一緒に柵になってるかってことだ。レールの寿命は大体20年くらいなのだそうだ。傷みやすいところはそれよりもっと短命だった(確か神戸大阪間だったか大阪~京都間だったかでも数ヶ月で数本ダメになったとどっかに書いてなかったか→雇外国人年報M12に)。1920年代のが古レールになっているということはそっからさらに20年以上は経過してのちに該柵が作られたってことなので、双頭レールはさらに20年も30年も古いことになる。例えて云うならじーちゃんととーちゃんが子のために柵になってる。そんなに残されてあるものだったんだろうか>双頭レールも初期の平底レールも。まあ同じレールの区間にしか使えなかったのだからその区間の補修用として残しておけば長い間持ったのかも知れないし、新しいやつだって極端に傷みやすい場所で使われていた新古品だったのかも知れないし。そのへんを考えるのは無駄なことなのかも知れぬ。大半は1880年代のものなんだから新しいものと古いものは特異的なブツとみなすほうが合理的だろう。

そういや野田尾のレール柵は横材に双頭レールを使っていながら途中で平底レールに変わっていた。あの柵を作る頃に双頭古レールの在庫が尽きちゃったので平底で代替した、とかだったら面白い。

以前ぶつくさこいていた資料は未だ見つからないのだけれど、このM42の統計を見ると九州鉄道の複数の線に56ポンドレールが使われていることがわかる。とりあえずこれで満足しとこう。でも考えてみたら56ポンドなんてPS&Coばかりじゃないのか。うーん。

[] 京阪神間鉄道建設年表

おもに「日本鉄道史 上編」より。*はTさんからいただいた資料(岡崎睦「我が国の鉄道黎明期に敷設された鍛鉄製レール」「鉄の歴史-その技術と文化-」フォーラム 第4回公開研究発表会講演論文集(日本鉄鋼協会 社会鉄鋼工学部会)(2002.7.27))より。

なんでこんな瑣末なことを書いてるかというと、どの時点でレールを発注したことになるのかを確認したかったがため。

神戸~大阪~京都間

M3(1870)大阪神戸間建築の令
M3.7.(1870)大阪・神戸に出張所設置(関西鉄道局)
M3.7.30(1870)大阪・神戸間測量開始
M3.10.24(1870)石屋川隧道の開削に着手
M3.11.(1870)全線の工を起こす
M3.12(1870)〔新橋横浜間:横浜英国東洋銀行に一般用途を委託、諸器械買上げ品の検査を担当させる。これより先、ホレシオ・ネルソン・レーの例の先走りによる公債募集と資材購入の事件あり M2.11.に全権委任、M3.6.に75万ポンド分済、M3.12付で罷免 枕木は狭軌で購入済み〕
M4.3.(1871)京都敦賀間測量の令
M4.4.(1871)京都大阪間測量開始
M4.6.16(1871)京都大阪間測量開始
M5.2.(1872)京都出張所設置(M5.3.15.開設)
M5.1.23.(1872)京都大阪間線路測量・経費予算の上申by井上勝
M5.2.5(1872)京都大阪間ルート決定
M5.3.(1872)東鉄道寮設置 京都大阪間の建築を営せしむ 関西鉄道局は西鉄道寮
M5.7(1872)〔新橋横浜間:合円柱植立および鉄条敷設を完了 9.29新橋横浜間工事完工(p.52)〕
M5.9.(1872)建築師(Engineer in chief)ボイル着任
M6.3.(1873)建築費増額 +249,669弗(物価上昇&ボイルの再査による)
M6.5.20.(1873)神戸停車場より芦屋川隧道まで約8マイル間に建築列車の運転を試みる
M6(1873)〔新橋横浜間:複線化用資材としてCAMMELL社の同断面の鋼鉄レールを発注・敷設(M14 1881 竣工))*
M6.12.26.(1873)京都大阪間起工
M7.5.(1874)大阪神戸間工事落成、11日より運輸開始
 60ポンド両双頭鉄条を敷設し鋳鉄製「ポットスリーパル」を用い神戸三ノ宮間は複線(「日本鉄道史 上巻」p.98)
桂川~大阪間には鍛鉄製の平底レール(60lb/yd)、桂川~京都間には鋼鉄平底レール(61.5lb/yd)を敷設。*
M8.5.(1875)安治川枝線工事竣工 大阪~安治川北岸 1マイル60チェーン 大阪造幣寮の旧馬車道敷地約2哩、鉄条、機関車1両を受領し該枝線の工を補った
M9.7.(1876)大阪~向日町22マイル57チェーン竣工 28日より開業
M10.2.5(1877)京都神戸間鉄道開業式、翌6日京都停車場開業  木製枕木、平底60ポンドの鉄条
「桂川~大阪間の鍛鉄の平底レールは、摩耗が早く、同12年の「雇外国人年報」には、
「軌条の摩耗は、依然として早過ぎるきらいがある。この12ヶ月間に、延長26mileの線路で、摩耗のため取外した軌条(3年間使用)は、84本に達した。」
と記録されている。このため鍛鉄レールは、翌13年頃から鋼鉄の61.51b/yd平底レール長さ30 ftと更換を始め、同19(1886)年頃、ほぼ全区問の取替えが終了したという。」*
M10.11.16(1877)大阪駅曽根崎川水路竣工
M10.12.1.(1877)安治川枝線廃止 翌年敷地売却

京都大津間

M2.11.(1869)東京~京都間に鉄道敷設を議決 枝線は東京~横浜、琵琶湖辺から敦賀、京都~神戸
M3.秋(1870)京都府、越前~京都間鉄道建設を建言
M4.1.(1871)東海道・中山道の踏査結果復命 中山道を推す&敦賀線の重要性を説く
M4.3.9(1871)京都~敦賀間測量の令
M5(1872)京都大津間測量終了
M6秋(1873)京都敦賀間測量着手
M7.12(1874)さらに美濃路より名古屋に至る線路ロの測量着手
M9.2(1876)井上勝キレる 着工催促
M9.4.(1876)ボイル、測量結果とそれに基づく計画をを上申  長浜南方にある粘土を塩津に運び製造する瓦壺土樋は良質 煉化石を製造すれば堅硬なるものを産すべし故に此の近傍に於いて製造し陰渠等を造築する石に代用したらその費用を減少すべき(※他の地域は良質の石が採れるので特段の必要がない限り石を使うべきといっている http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960214/171 /米原名古屋間は鵜沼駅の東南凡そ25マイルを隔てた久尻村にあるが垂井加納の間に良質の粘土充分存在)
M9.12.26(1876)工部卿、京都大津間鉄道建築費889280円を提示、本年度省費中より若干を流用し工事に着手せんことを稟議、
M10.2.1(1877)政府↑を許可
M10.2.(1877)西南の役勃発、建設停滞
M11.4.(1878)起業公債1250万円の6分利つき内国債発行、うち1333914円を京都大津間鉄道建築費にあてる
M11.3.8(1878)工部卿(伊藤博文)京都大津間鉄道建設に関して伺書提出、工費1333914円を目処として着工したい
M11.4.11.(1878)聞き届け
M11.5.21(1878)工部卿→鉄道局長 工費再査を命じる
M11.6.(1878)↑答申 ボイル計算は88万9284円だったが、そこからM8地租改正に伴う土地買い上げ代の増加、隧道穿通器械費廉増、外国注文品輸入税廉増、外国工師属員費用の減などで結局852410円になる(京都大津間建設)
M11.8.21(1878)京都大津間建築着工
M11.9.(1878)鴨川橋梁着工
M11.10.5.(1878)逢坂山隧道東口着工
M11.12.5.(1878)西口着工
M12.3.19(1879)大津湖濱に沿う枝線(大津~馬場間)の土工着工
M12.5.14(1879)鴨川以東東勧修寺村間4マイルに土砂運搬の機関車を往復
M12.9.12(1879)逢坂山隧道導坑貫通
M12.8.18(1879)京都~大谷間8マイル11チェーン竣工 仮運転開始
M12.8.27(1879)鉄道局長の意見により大津枝線建築方法変換を指令 もとは1/4マイルだったが3/4マイル延伸して湖辺に築出し停車場内船入場を拡張
M13.6.28(1879)逢坂山隧道竣工 これをもって京都大津間落成 軌条は61ポンド半の双頭鋼製 鋳鉄「ポット・スリーパル」を敷設 全線に用いた煉瓦は堺煉瓦工場(M6民有=原口煉瓦工場)の供給

「鉄道黎明期の~」の大阪京都間のレールの使い分けは何を出典にしたものだろう? 「日本鉄道史」には記述がない。もっと一次に近い資料かな。


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