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2018-07-14 [長年日記]

[独言] 「情報の共有」

昔は「情報の共有」なんていう表現はなかったし、ましてや情報を共有することに今ほどの重みというか好評価というかが付随していたわけじゃなかったことを思い出した。インターネットが隆盛しだして以降急に言われ始めたのではなかったか。その端緒期に違和感を覚えたのではなかったか。

WWWに情報を載せることを「情報の共有」と言い出して、それは単に外国語の和訳でしかなかったはずだけれども、それ以降急に「情報の共有」なくては世界は成り立たない社会は回らないみたいな言われ方をするようになった。本当に、そうだろうか。「情報の共有」は絶対善なのか。

WWWの最初のころってもっと単純な動機で成り立ってた気がする。せいぜい「情報提供」か「供出」とかいうべきもの。それがだんだん自己顕示欲ドリブンな世界になっていって、人を出し抜くことだとか唯一さだとか見栄えだとかを競うようになった。自己顕示欲が「情報の共有」と命名されて、まるで至上命題のごとくに祭り上げられた感がある。それってなんだか嫌らしい気がする。自分の欲望を臆せずさらけ出すことにつき尤もそうな言葉でもって祭り上げて肯定している。そうすることがさも当然のことというように。無限大か無限小に発散するだけの正のフィードバックなんじゃなかろうか。

「共有」という言葉にはどこか強制的なニュアンスを感じずにはいられない。他人を巻き込まなければ気が済まない、教化して取り込まなければならない、というような。知りたくもない情報はいくらでもある。知らせたくないこともある。知らせたいことも知らせたくないことも一緒くたに投げ込んで、必要な人が必要なときに拾っていけばいい。そんな態度が過去にあった 記憶。そうして私は今もその態度でこの世界を生きている。自分の人生を充実したものにするために書いたり読んだり収集したり整理したりしている。それ以上は望まない。

このクソ忙しい時に「1984」を手にしてしまい、慌ただしく読み通して、上記のようなことを思ったことだった。なぜだろう? ある意味ビッグブラザーに監視されているこの世界、それが即死に繋がらないことはまあ確かなので、そのことに安堵し自らを祝福してみたくなっただけなのかも知れない。


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