nagajisの日不定記。
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●煉化石 府下西成郡炭屋新田なる大阪煉化石製造会社にては益々其業務を盛ならしむるため今回株主の衆議を経て従前の製造窯の南側へ東に高さ十二間南北五間焚口十三口烟突直径五十尺を増築致度旨昨日頭取岡島嘉平治より府知事へ出願せし由
大阪煉化石。大阪北部ではかなり大きな工場だったはずだが詳しい業態がわからない。岡島嘉平治(岡島嘉平次)って新田の開墾に功績のあったあの岡島氏なんだろうかと思ったりするが微妙に歳が合わない気もする。平尾新田は宝暦7年(1757)に開墾許可。明治23年は1890年。うん、同一人物なわけないか。代々継承の名前ならともかく。→恩加島新田は文政12年(1829)に検地。これは2・3代目の岡島嘉平次の業績。
「南側へ東に」という文言にハテナマークが浮かんだが、たぶん登り窯なのだろう。焚口十三口というのは側面の6×2+最下面の1か。しかし煙突直径「50尺」ってでかすぎやしないか。15mもあるわけがない。
●堺著名の工場 府下泉州堺に於て著名なる工場は第一煉化石製造場にして之れに次ぐものは土樋製造場、紡績、綿実絞油業、精米業の四種なるが内蒸気機械を用ゆるものは五工場にして公称馬力は総計一百二十七馬力なりとぞ又煉化石製造所八十ヶ所にして三十竈を備え一ヶ月平均三百万個の煉化石を製出し又精米所は三ヶ所にて搗き臼一千百七十九、摩擦機十三を備え一昼夜に平均三百五十石を精げ之れに使用する松木は大概四国、中国より輸入し一ヶ年の焚料は四百六十万九千八百貫目此の代価五万五千三百十七円六十銭の多きに至るより四国、中国等に於ても追々松木の欠乏を来し従うて年々価格を騰貴し各製出品の価格にも自から影響を及ぼすを以て今般本府農商課加藤属が同地へ出張し各事業家に就きて速やかに竈其他の改良をなし成るべく石炭を用ゆる様にすべき旨を説示せられたりと云う
第一煉化石、で区切ってはいけない。第一に煉化石製造場、だ。木材の消費量はたぶん他業との合算と思うけれども、4609800貫=17286.75トンと計算してみてもあまりピンと来ないが、1日あたり10トン積みのトラック5台分の松を燃やしてた計算になる。うーん、あり得そうではあるけれどもやっぱりもったいないな。「煉化石製造所八十ヶ所」というのは素地製造所も含んでいるのだろうか?それとも八ヶ所の間違い?後者なら一所あたり3窯強でまあわからないでもない。数もだいたいそんな感じだと思う。
●大阪窯業会社 西成郡木屋新田なる大阪窯業会社は従来一万円の資本にて硫酸を盛る瓶の製造を専業なし居りしが昨年中四万円を増株して都合五万円とし更らに煉瓦の製造に着手するの都合にて本月一日より先づ其新築の釜を焼き試み居たる処昨今は完全の結果を見るに至りしと云えり尤も右新築の釜は日本在来の焼揚仕懸にあらずして焼き廻わる仕懸けとなし十六個を据え付け其第一号より順を逐い段々と焼き廻わり行く手筈にて同会社十六の釜を以て一昼夜に焼揚げる高は一万五千個なりとぞ
ホフマン窯の特徴をよく端的に言い表している。ただ一房を一窯と数えている節があり(そういわれればそうかも知れぬが)この頃の釜数計算のことを眉唾して考えなければならぬかも知れぬ。
社史では硫酸瓶製造時代にもパン瓦と称して煉瓦のようなものを製造していたと書いてある。製品煉瓦は上記記事の通りホフマン窯を作ってから本格的に作り始めたのだろう。実際この頃から大阪窯業の煉瓦販売の広告が掲載され始める。わずか数行の小さな広告で、これが後の「西の横綱」になると思うとちょっと胸熱だ。
http://bdb.kyudou.org/
昨今の知見を反映。工場所在地ごとにグループ分けしつつある。親カテゴリ設定したほうがよかったかも知れぬがこの数になるとなかなか面倒だ。欲を言えばエリアの配置が非常に雑。京都と滋賀をもう少し前に持っていきたい。
改めて眺め渡してみて、よくまあここまで収拾したなと思う。情報や煉瓦を拾い集めたという意味もあるけれど、雲のように漠然として散り散りばらばらになっていたあれこれをここまで収束させ得たという所に我ながら感心してしまう。ものを見つけるのはたやすい。情報も根気さえあれば机上で済む。その二つをちゃんと結びつけて整理して、さらにそれらの重層を解きほぐし結び直してやってきたところに、なんとまあご苦労様なこったと言ってやりたくなる。