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2018-12-24 [長年日記]

[] 長谷敏司『あなたのための物語』

久しぶりに気骨に沁みる一冊に出会った。どうとかこうとか語るのさえ惜しいくらいの。死ぬまでに何度思い出すかわからない。

[煉瓦工場] 整理4日目

どうも日にちの勘定が合わない気がするが作業回数としては確かに4度目なんだ。24時をまたいでここを書くとそういう齟齬が発生する。

今日は(今回は)S11〜16とS25を半分ほど。通算でM35からS25半まで。関より東は戦前戦後に興る工場の数が半端ない。石川県なんかイソライトブームで3倍くらいの数になる。新潟の明治後期の石油業、同じ頃の長野の紡績業みたいなもん。それが定着したりしなかったりして突き合わせが非常に大変だ。旧地名と現行市町村との照合も数の分だけしなければならん。大変だ。

[独言] 宗教と信仰を考えるクリスマス・イブ

決して信心深いとは言えない私が『あなたのための物語』を読んで、宗教や信仰というものへの態度が少し変わりそうな気がしている。人が、社会が、宗教というものを作り、信仰することによって心の安寧を得ようとすることについて、頭ごなしに否定する気になれなくなっている。むしろ社会に身を置いている限り、積み上げられてきたさまざまな知識なり歴史なりに興味を持っている限り、関わることを避けられないというべきか、もちっと敬意を持たなきゃいけねえなぁというか、そんなことを思う。 別にこれまで全否定してきたつもりはないんだけどな、クリスマスの晩くらい協会に行って、人々が信仰するものを真似て信仰して見るべきなんじゃと思ったりした。それによって救われたいと思うからではない。それが社会のなりたちを理解し他人を理解することにつながりそうな気がするから。

神という絶対存在を仮定すると自分の立ち位置は明確になる。一人では何もできない迷える子羊ということになる。救ってもらいたいとは思わない、だとやっぱり救われないんだろうと思う。どうあがいたって自分一人ではどうにもならない、と諦めた時に信仰は始まるのだろう。動物のようにあがいてもがいて死ぬことを、最後の最後まで心の底から納得したまま死ねるだろうかと思った時に、どうにも判断しきれない自分であることに気付かされ、根っこが揺らぐ。普段から常にそういう覚悟をしとかないと無理だなあ。

別に今から基督教徒になろうってわけじゃない。キリスト教も仏教も、それ以外の種々宗教も、人間がものを考える生き物である限りは自然発生的必然的に生まれるものなんだろうなあと思ったというだけで。それに与しない生き方はそれだけで反社会的存在になるんかも知らんねと。うん、全然まとまらね。

とりあえず今は、わたしを取り巻く様々な人に感謝したい。対人関係の構図の中に否応なくでも仮にでも組み込まれていることに幸せを感じなければならない。だからといって他人になにかをできるかどうかは、まことおぼつかないのだが。

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_ しゃちお (2019-01-22 20:18)

あなたのための物語、私も読みましたよ。ご報告まで。


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