nagajisの日不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad
すでに書いた気もするけれど、煉瓦のサイズがいくつもある理由について。特に並型の厚さが1寸7分5厘などという中途半端なサイズなのは何故か。
その大きさに作ることが前提としてあったわけではないのかも知れない、と思う。出来た煉瓦の平均的なサイズがそれだったから、結果的にそれが規格になったという可能性もあるのではないかと。例えば第一回内国博覧会の福島県の製造者の出品解説には「8寸4寸2寸の木枠」で作ると書いてある。生煉瓦は焼くと収縮するので、それが結果的に東京型とか並型とかのサイズになるのではないか。この8x4x2というのは大阪の煉瓦製造を報じた新聞記事にも出てくる。ただし出品解説のやつほど明瞭な書き方ではない(だいたいの形がそれ、という感じ)。しかし本当に8×4x2寸の型枠だったとしたらどうだろう? 7寸4分x3寸5分x1寸7分5厘くらいにはなりそげ。東京型は56の2寸。
関東と関西では使う土の質が違っていた。関東では関東ローム層を砂を加えずに使っていたかんじ。関西では素焼きに使うような赤土に砂を混ぜてるのが基本。土が違うと収縮のしかたが違うはずなので同じ大きさの型で作っても違うサイズになりそう。しかし東京型は厚2寸なんだよな。2寸厚木枠で2寸ができるものだろうか。
型枠に強く詰め込むか否かでも収縮率は違いそう。兵庫バンレンは型崩れしない程度に限りなく柔い土を叩き込んで、そのあとあまりバンバンしなかったようだ。何かで叩くっていうこともしなかった。日本煉瓦製造(煉瓦要説)ではかなりしつこく叩いて詰めたって書いてなかったっけか。>のー、記憶違い。そも、しっぺいはくえた角を均す道具よ。
並型と作業局型が違うのはなんでなんだぜ? 鉄道寮で作り始めたのは堺が最初だったはず。その流れでいくと同じものになりそうな気がする。そもそもそっか、作業局型がいつできたかもわかってないんだな。大高が言い出した頃にあったというだけで。
最初のころはキリのいいサイズの型枠からキリの悪いサイズの煉瓦が作られていた。やがて煉瓦サイズのほうが主となって「このサイズで作らないといけない」となり、例えば関西から関東に売り込もうとした時にはそのサイズが要求されて、あるいは鉄道省納入の規定ができて、慣れないことをせにゃならんくなった。そんな感じだったりしないだろうか。山陽型は特殊。はじめにサイズありきで規格ができた節がある。
あるいは、インチの中途半端なサイズ(2・1/4とか)を寸で再現しようとしたのかも知れぬ。建築はどの方面からだっけ?イギリス?ドイツ?その標準的なサイズで西洋館が設計されたので煉瓦もそれに合わせる必要があったとか。だとすると縮小を見込んで大きめの枠で作らなければならない(それはサイズが前提で在ったとすればどれにもあてはまることだけれど)ので大層面倒だったろう。以前メモった各国サイズをもう一度チェックのこと。
銀座煉瓦街の建設に使う煉瓦、大阪にも打診がきて、実際に見本をいくつか送った、てな話がどっかになかったっけ……。その時にも寸法が決まってたはずなんだ。銀座煉瓦街の煉瓦規格は小野田さんの「鉄道と煉瓦」にあったと思うけど。違ったかな。
あと何だったかの煉瓦製造の教科書では約一割収縮するのでそれを見越して大きな型枠を作るとあった。[資]か[近デジ]タグつけて放ったやつ。それは規格が定まってからの話だと思う。あの手の製造法はM後半にならないと出て来ない。最初期には8x4x2寸型枠で作ってそれになるという時代があったんじゃないか。
しかしあれだな、壁体に積む場合は適当でも大丈夫だろうけど、アーチに巻くとか円型橋脚作るとかいう場合にはかなり厳密でないといかんかったと思う。逢坂山とかどうしたんだろうね。
例によってまとまりのない思いつきを並べた。要はそういうサイズの議論が常にサイズありきで考えられてるのは見直す余地があるまいかということ。
以上ちゃんと確認のこと。青森県は大正時代の統計書にも工場記載あり。煉瓦要説は手成形のをがっつり省略しとった。記憶違い。だとしたらどこで読んだんだろうと「煉瓦 製造」で検索しているのが以上。最近物覚えが悪くなってそこまで書かないといけなくなった。
もりもりうんこが出たので採取し放題である。しかし意外と難しかった。うまい具合いに採取棒に付着してくれぬ。ついたらついたで多すぎるし。
採取した検体は冷蔵庫に入れて保存せよという。いくらケースに入っているとはいえ喰うものとうんことを同じ庫内で保管するのはためらわれる。同じ悩みを悩んだ人は結構いるんじゃないだろうか。しかし考えてみれば6時間前までは体内にあって我が身同様に取り扱っていたうんこなのだから、体外に出た途端に汚物扱いするのもちょっと可哀想ではある。
佳境前に手に入れておいたコピーを片付ける。米沢煉瓦はS51から復活するのな。それまでしばらくサブマリンだったのに。丸二北海煉瓦もS40代は耐火煉瓦製造を前面に押し出していてS50代から普通煉瓦になる。以降今日まで続いているのだから偉いものだ。
日本煉瓦製造の潮止工場はS49くらいから消える。上敷免の本社も資本金18,000千円・従業員Gになってしまって寂しい限りだ。これからどのくらい続いたんだろね(って検索すりゃわかるか)。帝国煉瓦も姿を消して独り石黒煉瓦工業が頑張っているのみ。あ、あと岩手の製瓦工場もあったか。
この頃には関西の煉瓦工場は軒並み姿を消している。岸和田と大阪窯業くらい。大阪窯業も赤煉瓦はやめていたはず。印南郡にも残っていない。
うーんこのくどさはちょっと読みにくい。さらさら読み流すことができないタイプ。慣れるまで少しかかるな。あと登場人物が仮名なのはちょっとアレだな、解読するのがたいへんだ。そもそもどこまで史実でどこからフィクションなのかわからんちんなのな。館林工場を買い取って拡大というのは多分事実なんだろうけど、伯父が信越線の煉瓦を焼いている最中とか、碓氷線のアプトの煉瓦も仁志組(≒久保組)だとか、イリヤマに大とか、どこまで信用してよいやら。あ、でも熊太郎は新潟に工場があったっけ。あれが要するに信越線なのだろ。