nagajisの日不定記。
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統計書を掘りくり返したら結構な期間工場が掲載されているのを発見。工場全体は最初期から、煉瓦工場は増子煉瓦工場が明治32年から現れる。んで大正13年版まで掲載が続く。この丁寧さは福島県統計書以上かも知れぬ。お陰でまたまる一晩潰れた。
従業員数は常に5人~10人。基本的に雇用は少なく日雇で半分以上を賄っている工場が多い。また15才以下の子どもの就業も目につく。そういう厳しい経営ながら少なくともM30からT13まで続いていたのは偉いと思った。煉瓦専業ではなく瓦や土管との兼業だったからだろうか。なんしか東日本の工場は瓦・土管兼業が多い。西の方は煉瓦専業らしい工場が多い。でも多分記録に出て来ないだけでどの工場も基本的には瓦や土管との兼業だったんじゃないだろうか。
えー、岩手県もあるの…この調子じゃ山形にもありそうだな。一回調べたはずだけど。
岩手県もM20台から掲載がある。煉瓦工場が出てくるのは日露戦争後。製糸場がめっさ増えるのと、和賀郡あたりに製鉄所ができて耐火煉瓦も作られ始め。上閉伊郡の生産高が初期から多いけれども実際に工場名が出てくるのはかなり後だ(釜石製鉄所での製造)。おそらく最初期から製造はやっていて、それを工場として申請するのが遅かったか、外部にも販売するようになって変わってきたんではないか。
岩手県の統計書は同じフォーマットで長くやってくれているので追いやすい。製造戸数・生産数も通年あるが戸数については煉瓦・瓦・土管がいっしょくたになっているので厳密には分けられない模様(そもそも工場の形態がそうだったんだろう。煉瓦も作るし瓦も作るし。これは盛岡の木村瓦工場→木村窯業(有)が適例。ただそこに純粋な瓦生産者も入っているはずで、それを切り分けることはできない。しなくてもいいのかも知らんが)。
煉瓦製造が統計に載る頃には年間20,000本とかいった数だが日露戦争後は一郡で数十万単位になる。大正前半には40〜30戸で推移している。どの府県にもそれくらいの煉瓦工場はあったんだと思う。