nagajisの日不定記。
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また、変なものを採取してしまった。
刻印分布マップの空白を埋めるべく赴いた枚方市で、京街道の解説看板に「鋳物工場跡」とあるのを見つけ、近代の工場跡だろうかと思って行ってみれば、奈良時代から鋳物造りを営んでいたと伝わる田中家鋳物工場の跡であった。江戸時代には北河内で唯一官許を得て鋳物師をしていたとか。してその工場はすでに別所に移築され、駐車場と田中さん家があるだけだったのだが、その田中さんちの裏っかわ、大阪府指定の文化財・天然記念物にもなっているムクノキの根元にこれが転がっていたのだった。はじめは敷瓦かと思ったのだが、にしては丸っこい形をしている。幅高さともに25cmほど、厚さは6cmほどだろうか。質はまったく煉瓦そのもの。
片側にヘラ書きがあり、真ん中に大きく「田中」と刻まれている。その下にも続きがあったようだが欠けて読めず。右側の草書はたぶん「丗弐年」云々と書かれてある。
反対側には格子状の刻みがあり、その上に黒っぽいモルタルのようなものが塗られている。この塗りはツメでカリカリすると削れてしまう。はじめただのモルタルかと思って剥がすところだった。
「田中」とあるからには田中鋳物工場と関係するものと思われたのだが元用途がさっぱりわからなかった。それでわざわざ移転先(旧田中家鋳物民俗資料館)に行って学芸員さん?市職員さん?に尋ねてみたりもしたのだが、そのものずばりという答えは得られず。ただ時間を無駄遣いさせ迷惑をかけただけであった。なんともはや。
とはいうものの、この資料館で見せていただいたものものと、モノそのものから察するに、鋳物の鋳型として使われた何かであるようだった。資料館に展示されている犁の鋳型は、犁の形に土器を彫り凹め、それに真土(ここでは「まな」というそうだ。肌理の細かな粘土である)を塗って犁の形を作り、鋳込むものであった。その鋳型の表面が該土器に張り付いている黒い部分の色目と質感に似ている。鈍い尖頭形---おむすび形とでも呼んどくか---も犁型に似ていなくもない。んで田中家から寄贈された犁型の写真集?には土器の裏面に型の製造年や製造者?を記したと思われるヘラ書きがあるものがいくつか載っていた。明治十何年とか「大福神」だったかな?そのような商品名らしきもの?を刻んだものもあった。(はじめはこの文字の面を鋳型の型にして製品に文字を鋳込むものかと思っていた。ホウ砂にこれで型を取り、そのホウ砂の側に鋳込めばこの土器と同じ形状の鋳物ができる。しかし田中家鋳物工場の聞き取りでは真土で型を作るほかにはなかったようだ)。
私は専門家でないので適当を言うが、この土器は鋳型の土台「シン」であるように思われる。汎用性をもたせた土台。鋳込みたいものの形はこの土台の上に盛った真土の形で変える。この大きさからするとちょうどシャベルくらいの大きさの鋳物が作れそうである。ただ黒い部分にはモノの型がつけられていない(若干反っているだけの平面)なので、例えばシャベルの背側、犁の裏側のような平らな面を形成する側の型なのかも知れぬ。
話の流れ上、資料館に預けるのを諦めて持ち帰ってきてみたが、うーん、どうしたものか。はじめは11/9の赤れんがネットワーク総会で展示すりゃいいかと思ってみたけれども、想像通りであれば建築用煉瓦じゃなく産業遺産的土器であって、もしくは茶碗や花瓶と同じ扱いをせねばらなないものである。枚方市が要らなかったら他に必要とするところもあるまい。
なんだかんだで尻すぼみになりそうだった一日だったが本来目的を達成できなかったわけではない。播煉が大阪府の北東端まで進出していたことを確認。この調子だとたぶん京都まで行っているだろう。逆に滋賀から京都を経て入ってきた江州煉瓦も確認。淀川以南では初なんだが奈良でいくつか見つけているから大和路方面の流れ者として有り得そう。
浪花煉瓦を探すため再訪した稲田上町で、浪花煉瓦のかわりに桜刻印を検出した。しかも機械成形だ。妙に、タイムリーである。
京文博では側面を確認し忘れていた。この煉瓦の側面は確かに機械成形の肌をしている。そのうえ粉炭が付着して燃えた跡があり、焼けムラすらある。妙にアレ臭いのである。
久しぶりにMacを立ち上げるとファンの音が凄まじいことに驚かされる。まるで掃除機だ。んで薬水橋梁のPをほじくり返して眺めてみたが表の機械成形は大阪窯業の匂いがする。思い過ごしだな。