nagajisの日不定記。
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雄琴の工場跡を見に行って、まだ時間があるとわかったときに取った行動は「安土に行く」だった。安土城跡の百々橋のたもとに初めて見る煉瓦刻印があると聞いていて、その写真もいただいていたのだが、まだ確認ができていなかった。それを思い出したんだ。
それで安土駅に降り立ったのは17時前。百々橋に着いたのが17:25。確認したけれども記憶のものが見つからなくて、せっかくここまで来たのだからと滋賀県道元標を撮りに行くことを思いついた。超行き当たりばったりである。確認できていたやつの最寄りは能登川福堂町の県道192号の起点のもの。そこまで何キロあるかなど考えず、歩き出した。
琵琶湖岸の水田地帯をゆくのはとても寂しい。見渡す限りの水田の中をぽっくりぽっくり歩いて行かなければならぬ。寺田先生などはこんな水田地帯が嫌いだったそうで、自分も子供の頃は興味の対象外であったし、今でも歩けば無聊感にさいなまれる。けれどもこの歳になってようやく無心に歩いてゆくことに耐性ができたようである。
大同川のほとりに出て、目的地の福堂が見えた時、昔からほとんど変わっていない眺めなのだろうなと直感的に思った。果てしなく広がる耕作地の中にオアシスのようにして所在する在所。ひときわ目立つ大きな入母屋屋根はお寺に違いなかった。その屋根が集落を圧して風景の重心になっている。茫漠とした水田地点の中だから、わざと目につくように、拠り所となるように、それを建てたのかも知れないと思った。
そんな寺院を取り囲むように家々が集まっている。現地では思わなかったが、集落遠景を思い出した時にかの入母屋大屋根が「合」の字のごとくに浮かんできて、なるほど人々はここに合しておるなあと思ったりした。集落の中心に抜きん出て高い合屋根が鎮座している光景は、どこだったか忘れてしまったが、同じ道行きの道すがらで見た気がする。この辺りでは普遍的な集落様式なのかもしれない。
そこから能登川駅まで行き、さらに何キロか歩いて202号、203号の元標も得てきた。能登川駅に着いたのは20時半過ぎだった。たっぷり三時間は歩いた計算。さっきコースを測ってみたら13kmと出た。よく歩けたものだと思い、歩けるまでに治った右足に感謝を覚える。しかし足裏のタコは未だ治らない。