nagajisの日不定記。
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七時十分より興亜奉公日行事あり。昨日より梅雨晴れ、両日共に三十度以上あり。体操の事なるが「サカ上リ」の上らざるは遺憾に思いいる。以上練習を要すと思う。
今日より日課時限及び授業時間の変更あり即ち
五時二十分起床
午前中教授部授業四十五分五時限
午睡十二時五十分より四十分間
十四時より術科開始
大略右の如し。
今日より町田生徒監殿週番勤務を服務されたり。午睡は時間不足にて起床後極めて眠し。雨の為教練考査取止め、剣術ありて第三教習試合なりき。
昭和十八年も半を過ぎ愈〃後半へ突入。しっかり互にやらん。期末考査始まる。地理・国漢甲・歴史なり。服装検査より以後は本に絶対にふれざることも三則の中にあり。戦に臨むには十分準備も出来たるものにして淡白なる点の養成なり。剣術考査。一に気魄と攻撃精神なり。誕生日会。雨にて元気の出す所なし。良好
そのくせ懐古は続く。いい加減動かないと苔が生えてしまいそうだ。ラジオの「昼から雨」を信じて午前中に八風、中峠を回る。
八風峠の峠道はあまり記憶に残っていない。retrospectに書いたルートも「そうだったけ?」という対象。ただ途中で猛烈な腹痛に襲われ、ここで事切れるかと思ったのは記憶にある。誰も助けには来ない場所・日時・天候。つくづく無駄な人生だったよな、と観念した。
けれども私の神は「もっと働け」と宣った。30分ほどで何とか動けるようになり、峠まで。真新しい風化花崗岩の白い谷。途中で道を誤って、峠でない鞍部に出てしまう。広場な峠。霧の中にいた。
田光軍人会による八風大明神の碑。簡素な鳥居が建っていた。東斜面から猛烈な勢いで霧が吹き上げてくる。オレハレイカイニキテシマッタ。
本当は東側に下るつもりだったが、腹のこともあって、大人しく縦走する。高低差の激しいアップダウン。霧。不思議と自転車の重さは記憶に無い。たどり着いた中峠の記憶もない。これで下るだけ・・・と思っていたがその下りこそが最大の難関だったのだ。
最初は2、3m幅の道がある。それを西に下れば、すぐに道が無くなって。道とも沢とも区別がつかない、まばらに広葉樹が生える、複雑な地形の谷に。斜面が小さな襞を形成して、どこを辿ればいいのか解らない。間違いの沢を辿れば確実に命が一つ減るだろうという斜面だ。そうして頼りの赤テープも途中で消える。
絶望的な状況になるほど「生」への固執は強くなる。そんな自分に現金ささえ感じるほど今は冷静だ。慎重に、慎重に下って行くnagajis。当然、自転車を引っかけて転倒したりするような愚もおかさない。
麓は今までの傾斜とは全然異なる平地であったと記憶する。綺麗に整列した杉林の中、一筋の道。抜ければ大きな川に出て。落書だらけの看板を見る(親切に所要時間やその訂正など書かれているが、地図にない地名ばかりで一切役に立たず。たぶん山高しか持って来ないのだろう。連中)
紫のテープを選んでゆく。地図にはない、小さな峠を越えていけば、さっき八風の麓まで登ってきた林道に出る。
淡々と下って、半分顔馴染みになりつつある杠葉尾のお店「ひろせや」で休。ああ、自販機あったな、あの角度で。
10.5kmの林道をゆく途中、再び腹痛。ひいひい言いながら、押し、休み、押し、乗り、休み、押し。帰ってきた茨川の、自分のテントの前には、自分が留守にしていた間にやってきたRV族が撒き散らしたゴミが待っていた。
人里離れた山の中で、人知れずブチギレたnagajis。記憶せよ諸氏。2002年6月30日、茨川にてゴミを放棄したRV族のありしことを。
お前等と同じニンゲンであることは、この日限りでやめてやった。
nagajis帰宅。みなさま、おつかれさまでした。ひとまず寝せてくれろ。
ここ数日痒みに魘されているせいか、例の自己矛盾が首をもたげてきて尚更つらい。書いて伝えることにいかほどの意味があるのか。
意外に思われるかも知れないが(そんなこともないか)、何も廃道教を布教するべくORJを書いているわけではない。時に廃道の価値云々を力説したりもするけれどもある意味タテマエである。真にやりたいことは「廃道を描くこと」、この一点に尽きる。要は書きたいから書くのだ。それで(社会の最底辺的であるけれども)生きていけるから書いているのだ。
ではなぜ書くのだろう。考えれば考えるほど不思議になる。人が知らない光景を見てきたことを自慢する段階はとうの昔に通過した。書いて自身の感性を試すためでもなければ廃道の価値を高めるためでもなく、ましてや自身の名声をあげるつもりもない。たかだか数百人の人々に知れ渡ったところでそれこれの価値が高まるわけでもないだろう。それが目的ならばタダで見られるネットで後悔公開すればいい。
書いて残すという行為はある種の業である。A・ビアスは悪魔の辞典で『辞書編纂者』の項目を設け、「言葉の無限の発展を妨げる者」とか何とか皮肉った。見事な寸鉄であり彼自身の内省でもある。書くという行為は多かれ少なかれそういう側面を持っている。その道に起こったであろうほとんど無限に近い出来事を、有限の興味と力とで書き表そうとすることは、ほんの一部分を切り出して己の言葉で記すことは、それ以外のことごとが後世に伝わる可能性の芽を摘み取る行為である。いっそのこと沈黙してしまえばいいのに、と思うことさえある。無限を描き尽すことはできないのだから仕方のないことなのか。そういう可能性に思い至っていながらかく手を止められないのは、この痒み同様仕方のないことなのだろうか。
自身が大切に思うものだから、その思いが書くことに反映されているのは確か。大切に思うものを守るため、表層だけを見てあげつらう愚に対抗したい。あなたが「コエー」「スゲー」で済ませている光景に無数の歴史が潜んでいることを伝えたい。しかしその思いも、裏を返せば自身の価値観を人に押し付けるものであって、ことこの国では忌避されがちな行為である。自分自身そういう押し付けに弱い(すぐ乗るという意味ではなく過敏過剰に反応するという意味で)というのもひどく矛盾している話である。
生きていくためにORJを作っているというのは、半ば当たりで半ば外れだ。むしろその逆、そうやってしか生きて行けないから書いているのであって、それはそれで一見書生気質で良さそうに見えるけれども、要は自己満足の自慰行為/示威行為でしかなく、それが社会全般の福祉に貢献するようなこともあるまい。同じ興味を抱いている人々の万分の一の参考になる可能性はあるにしてもだ。
生きた証? それも違うような気がする。むしろnagajisの痕跡は要らない。失われつつある何かが残りさえすればいい。nagajisが書いたものを足げにして正しい事実を見つけだしてくれる人を望んでいるのだ。参考文献をことさら列ねてみたりするのもそのためだ。そこから本当のことを見い出してくれる、まだ見ぬ適任者に宛てたメモ書きに他ならない。
そういう思い違い・韜晦じみた言説を振り回して、nagajisというものを爆破解体してみたくなる昨今。こういうテの文章がいちばん嫌われるからな。沈んだ気分の時は沈んだことを書いたほうが気が晴れる。あとで見直して独り赤面するのもいいだろう。
高校時分の友人に同じ読みで同じ苦労をしていた者がいて、何となくそうだろうと思い東大明朝で書き直して送ってみた。間違っていたら申し訳ない&決してストーカーではありません>神奈川の方。
(#108が2つあったのでこっそり直した)
単なる思いつきで書き連ねた、6/30付の「きじでかいたい」。その後いろいろ出てきたので別項立てすることにする。
生地で描いた胃。
危・字で懐胎。
貴寺で解体。
雉子刑事遺体。
Kiji-deca異体。
素地で買いたい。
忌事で欠いた猪。
キジデ科イタイ。
キジデ貝たい。
生地でかい帯。
キジデカイ帯。
「帰」「痔でか?」「痛い」。
喜字で書いた意。
企仕で戒体。
既時で海退。
生地de芥蔕。
機事で飼いたい。
危事で壊頽。
棋峙で懈怠。
後半はgoo辞書に頼った。そもそもの文章が日本語文法的にどうこうというのは棚にあげておく。なぜならばそういう役立たずなものを記事して追究するのが奇妙なポテンシャルだからである。えっへん。
(記事で、か…。イタい)
旧精華小学校の保存・活用を要望する署名が行われてますー.昭和4年に完成した小学校建築の粋.市街に残る唯一の戦前のRC造小学校建築です.詳細は精華小校舎愛好会のサイトを,署名はwebでも行えます.
web経由は7月3日(日)締切り〜。
関連記事の余りの脈絡のなさに笑った。半分くらいしか関係ねえ。(うちが悪いのは重々承知している)
結構小さな頃からキーボードに触っているのだがタッチタイピングができない。左手でリストを追いながら右手で入力してた頃の癖が抜けない。まずホームポジションというものがない。右手がGとかTとかまで出張する。使う指も右手は人差し指から薬指まで、左手は人差し指と中指、変換のために親指を使うくらい。Macだとコントロールとかオプションとか林檎とか使うときは薬指も使うな。ともかくめちゃくちゃだ。
特に不便は感じてなかったのだが、最近急に左右の連携がうまくいかなくて入力に失敗することが多くなったような気がする。「saikin」と打とうとすると「sakin」と一個飛ばしたり、「ajikawa」を「jaikawa」と先に右手が打ったり。「saikini」と余計に打ったりもする。ちょっとやな感じがする。老化か。反射神経の劣化なのは確か。
煉瓦隧道や煉瓦暗渠の内側に白い粉が吹いていることがある。適当に「白化」という言葉を使い、モルタルの石灰分が遊離したんだろう位にしか思っていなかったが、実際はもっと複雑な経緯でああなるらしい。
『大日本窯業協会雑誌』No.306(T7.6.)に「煉瓦の風化物に就て」という論説報文がある。その当時、煉瓦の表面に白色の無機物が析出し、構造物の景観を損なうことが問題となっていた。析出物は湿度の高い春夏に多く、積んだその年から現れて表面を汚し、またその析出物が原因とみられる表面剥離も発生した。そこでその析出物の成分や析出のタイミングを逐年で調べたものだ。(報文ではこの析出物を煉瓦の風化物と表現している)
煉瓦を積む前や、煉瓦積みをなした直後に析出するものは硫酸ソーダ(硫化ナトリウム:Na2SO4)が優勢。水に溶ける塩なので、施工時に吸収した水分や春夏の湿度を吸収して溶け、それが煉瓦表面から蒸発していくことで表面に析出するらしい。この時に出てくる硫酸塩は煉瓦自身に含まれる硫化物が出処という。煉瓦の素材である粘土は硫黄分を含むことはまずないが、焼成に石炭を使う以上、石炭に含まれる硫黄分が硫化物ガスとなって煉瓦に吸着されるのは免れない。それが最初の段階に硫酸ソーダとなって出てくるらしい。よく焼けたように見える煉瓦でも、窯出しのタイミングを誤って硫化ガスを多量に取り込んでいたため、風化物が多量に析出して一年も立たないうちに表面剥離を起こしたという実例も紹介されている。
施工後最初の秋には炭酸ソーダ(炭酸ナトリウム Na2CO3)がおもに析出。これも煉瓦由来のものという。
施工後一両年経過すると再び硫酸ソーダが析出しだす。このときの硫酸ソーダは最初のとは出処が違い、セメントモルタルに含まれていた硫化物が徐々に溶け出て煉瓦表面で析出したものとされている。セメントの影響というのは盲点というか意外というか。実際目地に石灰モルタルや粘土を使ったものは析出が少ないらしい。
さらに経年したものや、剥離によって生じた欠け・亀裂には炭酸石灰(炭酸カルシウム:CaCO3)が析出する。これもセメントが原因で、施工時にCa(OH)2として溶け込んでいたものとされている。先に易溶性のアルカリ塩を作って流出、 Na2SO4、Na2CO3を析出させ 、それが尽きるとCa塩が溶けて出てくるという仕組みらしい。最初に出てこないのは、施工前に煉瓦を水に浸して十分吸水させてから積んでいたからでもあるようだ(そのため急には浸透しない。春夏に湿潤、秋冬に乾燥というサイクルの過程で煉瓦に移っていく?)。Ca塩は難溶性なので表面に長く留まり蓄積する。
析出する塩類は多くは水分子を取り込んで水和物結晶をなす。水和物となることで結晶の体積も大きくなり、その膨張が内側から煉瓦表面を押して剥離を生じる。CaCO3、CaSO4なんかは特にその効果が覿面。
以上の理解が正しいかどうか確かめるため、ネットで調べてみたところ、最近は近代化遺産やトンネル保全の観点から煉瓦析出塩の研究が盛んになされているらしかった。そのなかで該報文が言及されているようなことはない。マイナー雑誌の論文だから目が行き届いていないのか、それとも現代化学から見ると間違った解釈なのか。
・・・という寒い冗談を言いたかっただけです.だけなんです...
先日偶々見つけた『ぱらいそ』.大川の沿岸にたった一箇所だけ残る干潟だ.干潟といってもヘドロと瓦礫くらいしかないのだが,そんな瓦礫に私は用がある.なぜか多量に煉瓦が混じっていて,刻印を探し放題なのだ.
なぜここに多数の煉瓦が転がっているのか,どこから持ち込まれたものなのかよくわからないのだが,ルートはいくつかあるらしい.ひとつはこの護岸.桜ノ宮公園の縁を形成しているもので,瓦礫やらゴミやらを一緒くたにして固めてある.その中に煉瓦が多量に混じっていて、それが大川に洗われた結果累々しているようだ(とはいえこの護岸― ― ― の材料となっている瓦礫 ― ― ― がいつ頃生じたものか謎.煉瓦塊に混じってプラ製のボールペンやらビニール紐やらも巻き込まれている).この護岸の際に落ちていた煉瓦には大正丹治や後述の「桜+ツ」,貝塚煉瓦さえあったから,もとは結構古いものだろうと思う.
他には環状線淀川橋梁の橋脚から来ているものもあるようだ.大阪鉄道の作ったものも関西鉄道のものも橋台だけが残っているが,、河川敷や川中に建てられていたはずの橋脚は取り壊されており、その煉瓦が幾分か混じっているようだ.現に芝山で見たのと全く同じ「R」刻印をここで採取した。大阪鉄道由来の煉瓦であることは間違いない(関西鉄道橋台に見られる「◯」は未発見).
市街地近を流れるということで,生活ゴミとして投げ捨てられていものが打ち上げられたというのもあるだろう.戦災,高潮,河川道備,さまざまな機会で沿岸が改変されている。その時の瓦礫が時大川に放り込まれ、を経て打ち寄せられた・・・のかも知れぬ.煉瓦を動かすくらいの流量があり得るかどうかはわからない。むしろ奥深くに沈んでいきそうではあるけれどもな.
ここで初めてお目にかかった刻印もある.例えばこれ. 水張りが未だなのでちょっとアレだが、山型に火の文字が添えられた,径1.5cmほどの小さな刻印だ.小口に押されているというのも(大阪では)なかなかお目にかからない.そうして心当たりもない。山は一山ではなく二山のようなのだが、若干欠けていることもあり再現できなかった。
真田山陸軍墓地の框に使われている「桜+四」に通じるものがある。堺で見た桜+クス+漢数字よりも近似度が高い(堺のは縁に切れ込みがないしなー)。
裏には×形のカキメが施されている.なぜかはわからないがこの干潟で見られる煉瓦にはカキメ入りが多い.陸上に転がっていた貝塚煉瓦の断片も,護岸の前の砂に埋もれていた大正丹治にもカキメがあった.ある時期にはそんな煉瓦が流行したのかも知れぬ.大正丹治にあるということはずいぶん時期が絞り込まれる。
送信者 関西地方煉瓦刻印 |
漢数字のみの刻印は市街地で数例目にしたことがあったけれども,このいそには何故か集中的に見られ,「五」「二九」「三十」「三六」「四六」を発見した.思っていた以上にバリエーション豊富だ.仮にこれが作業者の識別符丁だったとすると,煉瓦成形役だけでも46人はいたことになる.土練りとか窯焚きとか事務方とか合わせたら100人以上にはなっただろう.そこまで大きな会社は数えるほどしかない.そういう方向から突き詰めていくことも可能かも知れない.
なおこの刻印,線刻のようにも見えるけれども,全く同じ筆跡の「三六」を2個見つけたので,やはり字母による刻印であるようだ.奈良駅転車台で見つかった「四」も阪大中之島キャンパス跡瓦礫の「四」もここで見られた「四六」の「四」もみな同じ書体だ.
あ,四六除けとくの忘れてた…….そのうちまたヘドロまみれになって行方不明になるのだろうな……。
インストールできんくなってね? まいったなあ。。。
温泉寺の本堂を支える石垣がなかなか味わい深い。2つの曲面石の隙間にぴったり落とし込まれた尖石の安定感、笠石の天辺の安穏に対する底面の凸凹。水鳥のたゆたう姿とその脚の脈動の比に似ている。
天辺石の根のあたりを観察すると、切り込み接ぎの加工が面(つら)の部分だけであることがよくわかる。根の方はある意味適当でも構わなかった。表面さえきっちり噛ませてあれば十分なのだし経済的にも可能な範囲であった。而して律儀に根のほうまで加工したのが備前閑谷学校の外壁。現代石工がいくら金を積まれても同じものは作れないと宣った理由はその辺にある。
看板が置かれているのは閉鎖された駐車場の端だった。恐らくその辺に駐車場のOUTがあったのだろうが金網で塞がれていて用をなしていない。そこから出ることはできない。故にテープで目隠しをされたのだろうとは理解できるがその結果出来上がったこれには玄妙な味わい深さがある。矢印によって示された「方向」の存在感は健在でありしかしそのベクトルの「価値」、あるいは「ベクトルの絶対値」といってもよいかもしれない、は隠されている。純に方向を示すだけの矢印。
矢印にもテープを張るべきだったのではないかと思ったりもするが現状でも必要十分なようでもあるしどう張ったら適確な目隠しとなるかにわかには思いつかない。矢印の鏃の部分にだけ貼っても不足しそうだしかえって目立ってしまうかも知れぬ。
もう7月だ。ちゃっちゃか進めてしまわないと後で困るぞ。どっかで区切らないといけないぞ。その区切りをつけるために別子へ行ったはずなんだがやり残したことにばかり気を取られている。
総展示数、たぶん過去最大の120数点。数勝負ではいけないと思うけれどもこの機会を逃したら後がないとも思う。個々の解説は現時点で充分なはずで、むしろ各個の関連とか輸送の状況とかをうまく説明する必要がある。その説明の方法の最適解がないで困っている。bdbカテゴリーへのQRコードだけじゃ上手く行かない気がするぜ。
この時期高所へ行くと蝉が鳴いている。別子で聞いた蝉は大阪の平野では聞きなれないやつ。ジュクジュクジュクと鳴くやつが大量にいる中に、酒ヤケした小さなヒグラシ、てな感じのが混じっていた。総じて音量は小さく、故に体も小さいのだろうと想像する(本体は結局見ることがなかったのである)。
かわりにこんな小さな蝉の抜け殻があった。うん、きっとこんな大きさの成虫。
雄琴の工場跡を見に行って、まだ時間があるとわかったときに取った行動は「安土に行く」だった。安土城跡の百々橋のたもとに初めて見る煉瓦刻印があると聞いていて、その写真もいただいていたのだが、まだ確認ができていなかった。それを思い出したんだ。
それで安土駅に降り立ったのは17時前。百々橋に着いたのが17:25。確認したけれども記憶のものが見つからなくて、せっかくここまで来たのだからと滋賀県道元標を撮りに行くことを思いついた。超行き当たりばったりである。確認できていたやつの最寄りは能登川福堂町の県道192号の起点のもの。そこまで何キロあるかなど考えず、歩き出した。
琵琶湖岸の水田地帯をゆくのはとても寂しい。見渡す限りの水田の中をぽっくりぽっくり歩いて行かなければならぬ。寺田先生などはこんな水田地帯が嫌いだったそうで、自分も子供の頃は興味の対象外であったし、今でも歩けば無聊感にさいなまれる。けれどもこの歳になってようやく無心に歩いてゆくことに耐性ができたようである。
大同川のほとりに出て、目的地の福堂が見えた時、昔からほとんど変わっていない眺めなのだろうなと直感的に思った。果てしなく広がる耕作地の中にオアシスのようにして所在する在所。ひときわ目立つ大きな入母屋屋根はお寺に違いなかった。その屋根が集落を圧して風景の重心になっている。茫漠とした水田地点の中だから、わざと目につくように、拠り所となるように、それを建てたのかも知れないと思った。
そんな寺院を取り囲むように家々が集まっている。現地では思わなかったが、集落遠景を思い出した時にかの入母屋大屋根が「合」の字のごとくに浮かんできて、なるほど人々はここに合しておるなあと思ったりした。集落の中心に抜きん出て高い合屋根が鎮座している光景は、どこだったか忘れてしまったが、同じ道行きの道すがらで見た気がする。この辺りでは普遍的な集落様式なのかもしれない。
そこから能登川駅まで行き、さらに何キロか歩いて202号、203号の元標も得てきた。能登川駅に着いたのは20時半過ぎだった。たっぷり三時間は歩いた計算。さっきコースを測ってみたら13kmと出た。よく歩けたものだと思い、歩けるまでに治った右足に感謝を覚える。しかし足裏のタコは未だ治らない。
岡町図書館がようやく通常運行に近い状態になって参考室と国立国会図書館デジタルデータ送信が利用できるようになった。兵庫県の地名辞典と『地形図集』その他を取得。地図記号の変遷は『地図記号のうつりかわり』のほうが詳しい。『地形図集』は実際の図版が大判で多数収録されているのでその見比べには使えそうだ。
鉛筆で申請を書いたあとでボールペンで書き直しを求められた。よく見たら申請用紙の台にちゃんとその旨書いてあった。「わかるように書いとけよ!」などと文句を言うのは愚かなことだ。気づかないほうが悪い。しばらく利用してないとこの図書館の流儀を忘れてしまってていけない。
コインロッカーもそうだったな。上半分に張り紙がしてあって「コインロッカーは使えません」と書かれてあったが、下半分は普通に使える状態で、てっきり上半分だけ使用中止になっているのだと思った。入れようとしてごそごそしている時に「使えないんですよ~」と言われた。だったら全部張り紙しておいてほしい、などと思ってはいけない。自分の間違いを棚に上げて恥をかかされたと曲解してそんな文句を言う人がいるから画一的極端的に禁止中止廃止になって世の中が生きづらくなるのだ。
そういえば参考室にあがった正面にでかい「?」マークが掲げられていた。下に右向きの矢印があった。その方向はカウンターだったので、つまりは疑問質問のある方はこちらへという意味なのだろう。果たして「?」マークだけでそれが伝わるだろうか。「?」マークは老若男女あらゆる人に通用するか。世界共通のサインたり得るか。下から小突いてみるものと理解している人も一定数いそうな気がする。
注意書き、ポスター掲示、アイコン案内。送出側が意図した通りに機能することはない。その理由の何割かは受け手の無知蒙昧注意不足意識散漫に帰せられるべきものである。受け手がもうちょっと送り手のことを考え、その意図を汲む努力をしないといけない。世の中がどんどんおかしくなっているのも畢竟受け手の怠慢に因るところが大なのではないかと思っている。
『続三千里』、明治43年1月13日前後のを探すこと。筑摩の明治文学全集に収録されているのは抄なので多分載っていない。
月イチの捨てる機会を何ヶ月逃したかわからないくらいに逃して身動き取れなくなっていた。やっと捨てられそうだ。この調子で溜まったゴミを捨てていかないと本当にどうしようもなくなる。
ゴミペールが2つもあるのに有効活用できていない。どうにかならんかな……(捨てりゃいい)
あのまま破棄してしまうのがあまりに忍びなくて見ず知らずの人の日記を取得しココに取り込み始める。
陸軍幼年学校は士官学校のひとつ手前の教育機関で、13歳から15歳、いまでいう中学生くらいの子供が入学した。幹部養成のエリートコースで倍率も高かったそうなのだけども、軍人遺児は一定の成績があれば順位に関わりなく入ることができたそうだ。件の日記の主も父親を亡くしていて、それで特待生として入学した。昭和16年入学の日から卒業して終戦を迎える頃までの日記が手元にある。太平洋戦争突入から敗戦までを陸軍幹部候補生として過ごした人の青春が詰まっている(はず。まだ全部読めてない)。
個人の日記をテキスト化するのはちょっとどうかとも思ったが、歴史資料としてとても貴重なものと思えたので敢えて試みる。もともと日記は上官?教員?に提出してチェックを受けていたようなので(〔〕中はその添削)、本当にうちに秘めておきたいことは書かれていないだろう。夏季・冬季休暇の日記は故に入力しない。幼年学校でどういう教育が行われていたか、その教育を受けてどう成長していったか、追体験してみたく思う。
量が多いので一気にはできない。暇を見つけて少しずつ入力していくことにする。nagajis米は最小限に。
_ とと [記録撮影の道具一切持たずに“探索”というのはいかがでしょうか?目に焼き付けるだけ。想うだけの旅。時間の無駄。一切無意味、かも知れませんが、それが気分転換になるかも、と勝手無責任な事を言ってみたり…..]
_ nagajis [おお、その発想はありませんでした。示唆に富んだご指摘感謝です。]