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2022-09-25 [長年日記]

[煉瓦] 東海道線煉瓦構造物≦M25

画像の説明

なかなかしねる。

●わかったこと

新橋~横浜間は明治10年台に改修されてる。木桁を鉄桁に変える際に橋台も煉瓦にしたようだ。六郷川などはこの時に12ft円形ウエルが採用されている。

横浜以西の工事に煉瓦も使っているがそれほど多くない。うえに大半が再改修で失われている。茅ヶ崎駅の西、中島開渠でやっと旧橋台の残存を確認できたがこれもオリジナルか複線時のものかわからない。

江尻の工場が富士川周辺、洞隧道、石部隧道の方面に煉瓦を送ったことは『請負業史』にもあるのだけれど、最も煉瓦を要したと思われる箱根隧道群はどうしたのだろう。沼津や国府津に陸揚げして送ることはできたと思うがちょっと遠すぎる。御幸煉瓦も横浜煉瓦も三浦半島より東だし。国府津辺りに工場を設けたほうが効率が良さげ。

この区間で煉瓦サイズが確認できるといいのだが、ストビューで見えるのはすごく限られている。上記中島開渠とか、天神沢とか。後者はたぶん複線時のやつが見えている(もとはアーチだし)。

箱根隧道群を抜けて御殿場の方に来るとぎりぎり肉厚煉瓦使用がわかる。供養塚開渠は多分肉厚煉瓦微妙だな…3吋ならもっと目立って厚い。

冨士川までくると明らかに肉厚。近堀用水のこれなどはストビューでもわかる肉厚さ。

以降この厚さが中泉まで延々とみられる。スクエアな橋台橋脚はたいていそう。袋井から中泉にかけての開渠はたいていが肉厚ぽい。

ちょっと面白かったのが、富士川の右岸には「径10ft円形ウエル」の橋がいくつかある。12ftの間違いなんじゃねと思ったら中ノ郷用水橋梁にそれらしきものが残っていた。外周を石で巻いてあってなかなか見事である。富士川も専用設計の小判型ウエル(外縁は石)だった。全体的に煉瓦製の井筒の使用はM20前後の揖斐川木曽川、あるいは浜名湖第一~第三辺りで終わり、それ以降は外縁を石で囲う形になっていくようだ(煉瓦だと水流で削れてしまいそうだしな)。M29の井筒の定規は要は井筒の定規であって橋脚上部構造のことではない。こういう橋脚の内部はどうなっているのだろう。浜名湖第一の複線橋脚みたく中に煉瓦を充填してあるんだろうか。

スパン30ftの煉瓦拱橋・沢水加川橋も肉厚に見える。これくらいのアーチなら肉厚煉瓦でも行けそうである。

この西にある橋詰川暗渠のほうが参考になるかもだ。スパン10ftで肉厚煉瓦を使用。

さらにその隣の谷田部避溢橋。18ftスパンの開渠構造。複線の両方が肉厚煉瓦を使っている。向かって右の壁のぼこぼこした表面と土っぽい色が印象的。

高木用水橋梁の橋台に使われているのとよく似た質感。右は上り線(天竜川下流側)、左は下り線(同上流側)で、天竜川橋梁の改築順序からすると左がオリジナル、右が大正初めの複線化時橋台になる。高木用水は中泉の西、谷田部避溢も中泉~牧ノ原隧道の隧道寄り。抜ければ金谷に煉瓦工場があった。どっちから来ていてもよい。 画像の説明

クラスタ分析は便利なようでアレだからな……。あんまり信用しないほうがいいぞ>nagajis

東海道線の工場で肉厚煉瓦が作られたのは間違いないが、それより以前、中山道線の一部として建設された揖斐川橋梁、武豊線と中山道線の連絡にあたる木曽川橋梁ですでに肉厚煉瓦が使われていることを忘れてはいけない。揖斐川橋梁はM19.1.着工、同4年竣工@『財産目録』。『明細録』では12月。東海道線建設決定はM19.7.13.(『請負業史』)。

●解決すべきこと

とするとこれがどこまで遡れるか。深谷~関ヶ原間の初代の構造物では肉厚煉瓦は見られなかった。関ヶ原以東岐阜までのM17~18頃の構造物、あるいは武豊線の構造物を確認する必要がある。英比川橋梁の橋脚、北浜田暗渠なんかはふつうのが使われているようだが英比川はM24.1.に改築された結果。やっぱり勢陽組と西尾士族生産所なのか。あと斜井桁+三本線の。


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