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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1941-05-14 この日を編集

[陸幼日記]五月十四日 水曜日 晴

朝は摂氏六度なりき。寒しき事、いちぢるしかりき。幾何は何も解せざりき。幾何に今一そう力を入れねばならぬ事を悟る。十三時校門出発、西部第十六部隊付近にて休憩十五分、後は一気に上江津湖の南へ歩す。復りは藤崎宮まで誘導となりて行く。往復約十四粁。幼年校前駅より鈍剣を抜きて校門丘へつき進む。大いに面白かりき。夕食後直に自習なりき。


1942-05-14 この日を編集

[陸幼日記]五月十四日 木曜日 晴

真面目の一日。やゝ寒し。教練の際は体操服にて手榴弾投擲をなす。剣術―率先陣頭に立つ意気。随意運動時には、はぶ茶畑を耕して種をまく。久方にして大振り上る。鉄棒の上達・剣術施行を以後十分なさん。自習時間不足す。予定不可。事成る影〔蔭〕には十分な予定あるものなるぞ。


1943-05-14 この日を編集

[陸幼日記]五月十四日 金 晴

国漢乙考査ありてもっと勉強すべきを感じたり。教練にて小隊密集教練・射撃演習・地形地物の利用となりて教練が一段と面白くなれり。運動班運動にて輪てん試合に活躍す。一ヶ月振りにて剣術をなし溌剌たる気分になりたり。怠け心未だ多きなり。如何にすれば可なるや。我の求めんとする所なり。〔欄外朱:水でも被るべし〕良好なり。


2007-05-14 [ORJ]作業報告 この日を編集

 久しぶりに一日中作業していたような気がする。金がない暇がないと言っておきながら結構あちこち行っていたものな、4・5月は。お蔭で財布の中が大変なことになっているが忘れてしまおう。

 寄稿分の地図を購入・さしかえしてリンクを張って完了。いつもの場所にupしてますが最後のツメがまだなので明日改めて御連絡します。旧橋2本も地図描いてリンク貼って完了。大きな問題がなければこれでいきたい。こちらも例の場所にupしていますのでよろしく。その他こまごまとあれこれに手を出してみたものの、ものにならず。

 次週は週末までに明治隧道と喪われた〜を片付けたい。

[独言] 自分の文章

 書きかけの明治隧道の原稿を2、3日ぶりに見直して、やっぱり読みにくいやと思い知って凹む。いつものことだが。手元に置いてちまちま書き直すのが良くないのは解っているけれども、いつまでも抱え込んで手入れをしつづけたくなるのは、貧乏症みたいなものだと思う。そのくせ大幅な書き直しは恐くてできない。せいぜい段落の前半でこれ言って後半でこれまとめて、と前後数段をいじるくらい。どんどん読みにくくなってるんだろうなあ。いやだなあ。


2008-05-14 この日を編集

[ORJ] 泣きたくなる夜

泣き言を言っている暇も叫びを埋める穴を掘る暇もない。手首がイカれてきた。続きは明日晩だ。

前職は、生きるために仕事をしているのか、仕事をするために生きているのかが解らなくなって、嫌気がさした。趣味を仕事にするようになって何かが変わるだろうと期待していたが、そこに「趣味のために生きているのか」が加わって三つ巴になったただけで、実質的には何も変わっていない。吉住氏住川氏吉川氏による三角関係、みたようなものだ。

楽に生きたいんじゃ、ないんだ。徹夜なんかしたくないだけ。そして、やっつけ仕事をやっつけ量産したくないだけだ。

メールが遅延しているすべての方へ。申し訳ない、また遅れる。


2010-05-14 この日を編集

[ORJ] 了

しんどくてう丸こもらしそうだ。

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

_ とと [お疲れさまでした。]


2011-05-14 この日を編集

[] 安治川河底隧道概説書[4297/8454-]

安治川河底隧道

世界最初の河底隧道はテームス河を横断する「ブルネルトンネル」と称せられるものである、河底下六十尺延長一千二百尺で一七九八年計画以来四十五年間、幾度か落胆すべき事故を繰返して遂に一八四三年完成し「マルク・アイザンバード・ブルネル」氏の不屈の努力が酬いられた、即ち当時世をして

<傍点>規模の雄大設計の大胆構法</傍点>の困難比類なしと感嘆せしめたものである、惜しいことに位置の選定宜敷を得なかった故にか経済的の成功を見ず現在では地下鉄専用と変っている、大阪では地下鉄工事に伴って、大江橋淀屋橋の下に施工したのが初めであるが工法は普通の橋梁基礎工事と同様に仮堰の内で水を干して構築したものである、街路の連絡用としての、また沈埋式工法を採る河底隧道は、安治川源兵衛渡に於て最初の試みである一般計画は勿論

<傍点>その構成とその工法の</傍点>一つ一つに就てあらゆる関連条件を吟味して、凡そ考うべきを考え、較ぶべきを較べて最善を期された心算りのものであっても論議は動もすれば鼎沸する、もとより本隧道の実施詳細に就ては未だ今後の調査研究に俟つべき幾多の問題を残してはいるが、今日迄の計画の経過と本隧道の持つ特異性とに就いて理解する事は興味あることである、併し乍ら「何の故に」を懇切に伝えるためには与えられた字数が不足する、今回は先ず以て本隧道の概念を得る程度に輪郭を叙しておき度いと思う

◎連絡計画

本隧道の計画は大阪市第二次都市計画事業街路安治川市岡線の新設に伴って源兵衛渡の渡船連絡を廃止して新に河底横断隧道を築造しようとするものである、淀川の派川安治川、尻無川並に木津川が由来水運の便を以て

<傍点>本市産業の発展に資する所</傍点>の甚だ大きかったのは周知の通りであるが一方是等の河川によって分割せられている市西部の相関的交通連絡は今尚簡易な渡船を利用している状態で不都合極まるものである、昭和二年頃源兵衛渡地点に「トランスポーテーション・ブリッヂ」を計画した人もあり、越えて昭和三年と昭和五年とには大阪市会でも架橋意見書が出て居るし、市の土木部内でもその頃から松ヶ鼻地点、源兵衛渡地点の連絡計画を考案しつつあったのである、連絡方法に就て注意すべきことは安治川は船津橋下流、尻無川は臨港鉄道橋の下流木津川は都市計画街路難波泉尾線附属木津川新橋下流は何れも

<傍点>無橋区域として指定せ</傍点>られているため原則としては橋梁を架設することは許されぬということである
河川によって交通連絡を妨害せられている陸側から考えると橋梁連絡が最も簡単であるが河川を利用して大船巨船を運用しつつある水側から見ると橋梁は殆んど致命的妨害物と成る虞れがある、仍で昭和五年六月故関市長は淀川分派河川の内連絡設備の急施を要するものとしては安治川筋を第一とし「安治川連絡設備計画」に就て最も遺憾なき方法を以て善処すべく土木学会関西支部に之れが研究を依頼せられたものである、斯くて工学博士坂本助太郎氏を委員長として岩田成実、岡部三郎、高橋逸夫、瀧山與、直木倫太郎、近藤博夫、島重治、渋江武、平野正雄、内山新之助諸氏の専門的審議の結果出来上がった案が即ち今日具体化せんとしている設計の素を成したものである

同委員会に於ては恒久的連絡設備を為すべき地形的に適当な位置としては、松ヶ鼻附近を指摘し得るが、現在の交通量及両岸発展の状況より案じて源兵衛渡附近を以て最も緊急とし当面の問題として取扱うべき、安治川連絡設備は結局源兵衛渡地点に選定せられたものである、連絡施設に就ても改良渡船高架橋可動橋隧道等を経済的方面からも利用的方面からも夫々の利害得失を比較した結果沈埋式工法による河底隧道を最も適切なものと決定せられたのである要を云えば渡船は如何に改良しても川筋の船航を妨害し危険を免れ難く、高架橋は航行船舶の檣高に多少の制限を加えても少くともo・p以上三十米に保つを要し延長一千二百米に亘る取付高架道路が必要と成り不経済なばかりでなく、附近道路との連絡

<傍点>沿道町村との関係に</傍点>於て複雑な地形的困難を伴って殆ど不可能に近い、可動橋は建設費は安くても維持費は嵩むし、それに原則として水陸交通の双方共か又はその内の何れか一方が定時的で非常に閑散な場合でないと不適当である、本地点に於て跳上橋を用い一時間四回の開閉操作をなすものとすれば陸上交通は毎時二十四分間水上交通は毎時四十八分間遮断せられ到底水陸共交通上満足な結果を得難い、隧道連絡とせば地形的不都合を伴うことも比較的少ないし舟運上の障害は全然解消せられるし殊に工法に沈埋式を採用すれば工事中と雖も余程航行の妨害は減ぜられる、隧道の築造は先ず両岸昇降機室と河底隧道部とを施工し、取付勾配隧道は将来の交通情勢観測の結果その施工時期を計画する想定と成っている

◎隧道の構造

本隧道は河底部と両岸昇降機室と取付勾配隧道との三つの部分から成っている、河底部は延長八〇・六米で中央部四九・二米を所謂沈埋管として、この両側に長一五・七米宛の昇降室前の広場の部分が接続している、有効幅員は沈埋管部分では、二・四米の歩道を西側(下流)に一本と、その東に四・五米の車道を二本設け夫々の間には沈埋管の両端支台間を橋桁として取扱うために必要なトラスを置き歩道は往復利用とし、車道は何れも一方通行として利用する

<傍点>沈埋管内法は</傍点> 前記トラスを含んで一二・四米である、昇降機室前の広場は車の待避等のため有効幅員一二・四米乃至一五・三米としその間には、柱も、壁もないものとする、路面から天井迄の高さは車道では四・五米(但し照明設備等のため有効高は四・〇米に保つ)歩道では二・八七米以上とする

<傍点>沈埋管部分の</傍点> 車道路面はo・p以下一三・一米で縦断勾配は水平とし其の両端から三十分の一勾配で昇降機床に接続せしめ昇降機室前でo・p以下一二・七四米と成る、そうすると両岸地盤高を(昨年の風水害に省みて)o・p以下四・二米迄嵩上することとしたから車用昇降機の行程は一六・九四米(約五十六尺)と成る歩行者用昇降機はこれより一・六三米だけ少い

<傍点>両岸昇降機室</傍点>は二〇・四米×一〇・〇米の内法でその内に西側から順々に歩行者用昇降機二台と車輌用昇降機二台とを設備し得る様に前者の周囲には幅一・四米の階段を置く、尚中央部分(車輌用昇降機と歩行者用昇降機との中間)に幅三・一米の空室を設けておいて、将来取付勾配隧道の出来た時にはこの空室と上流側の車輌用昇降機一台を撤去した跡とを取付勾配隧道への連絡車道として利用する予定である

<傍点>取付勾配隧道</傍点>は有効幅員六・〇米として高速車専用の予定であるがそのルートは一案として北は朝日橋通(第二次都計野田西九条線)を経て市電西野田桜島線の朝日橋停留所付近に、南は市電安治川築港線を西に玉船橋停留所付近に出る計画もあるが、西成線の高架化問題もあり、地形、交通情勢の変移と、予算経理の都合とを併せ考え、施工の時期と 計画、内容の決定とは今後の研究に拠るべきものである

<傍点>基礎工は沈埋</傍点>管部は浚渫した河底を単に地均しをして沈設する関係上、管底の地盤には信頼せずに、管の両端に位する部分に支台を設けてこの上に管を据え付けて管自体を一つの河底橋梁として取扱うことにし、此の支台を昇降機室の基礎と一体の潜函工とする、沈埋管は高さ七・〇米幅一四・〇米長四九・二米で天端をop以下七・九米とし、その上に厚さ三十糎の砂を敷き更にその上に三十糎のコンクリート塊を敷き並べてこれを防護工とする

<傍点>防護工の上に</傍点>は一・三米の厚さに玉石又は土砂を以て川床を形成する即ち川床をo・p以下六・〇米とし平均満潮時に於ける水深約七・七米と成る、管は平常時の耐力は勿論であるが万一事故の場合この内に浸水する様な事があっても破懐[ママ]せられぬ程度に用意しておかねばならぬが、沈埋管の断面形状、歩車道の有効幅員とその位置、昇降機の大きさとその位置等取付勾配隧道への連絡方法等に就ては種々の案が比較せられたものである

◎付帯設備

付帯設備の主要なものは昇降機である、歩行者用昇降機は一・八米×二・三米の大いさで毎分一・六米の速度で定員を二〇人とする、輸送能力は乗込、閉扉、運転、開扉、外出の時間を加算して往復所要時間最小九六秒を見込み毎時三七・五回の往復をするから輸送人員を毎時一五〇〇人と予定し得るのである

現在渡船のラッシュアワーに於ける最大交通量は一時間一一五〇人で一日の内に一二四七〇人を数えているがこの割合で推定するとこの昇降機によれば毎時一五〇〇人一日一六三〇〇人の通交者を楽に輸送し得る、即ちラッシュアワー以外では昇降機は周期にも定員にも余裕あるものと予想される、万一ラッシュアワーに於て一五〇〇人を超えた場合には階段も利用せられるであろう、一丁目渡と三丁目渡とを利用する人々の一部がこの隧道に廻って来るとしても三割の余裕を持っているのだから、歩行者用昇降機は差し当り一台だけを据え付けておいても凌ぎ得るであろう、将来輸送能力に不足を来した場合は更に一台を増設するということにしても差支ないのである

<傍点>の車輌用昇降機</傍点>のは三・〇米×九・五米の大いさで毎分四五・五米の速度とし、乗用自動車二台を収容し得る、昇降機の往復所要時間を最小二〇〇秒と見込んで毎時一八回の往復をするから、一台の昇降機で毎時七二台の自動車を輸送する能力を持っている、故に二台の昇降機を全部自動車に利用せると毎時一四四台を輸送することが出来る、併し乍ら現在ラッシュ・アワーに於て一丁目源兵衛渡、二丁目で渡船を利用している自転車の数は合計三八〇台であり、これ等は殆ど総てがこの河底隧道を利用するであろうし其他の諸車は四〇台あるが、これも一・五倍即ち六〇台位には増えると推定すると二台の昇降機が輸送し得る最大交通量は毎時自動車三八〇台、諸車六〇台、自動車九〇台と云う様な状態を想定し得るであろう、勿論時刻によって夫々の交通種類に繁閑がありトラック等も通るから前記はラッシュ・アワーに於ける輸送能力の一状況を数示したものに過ぎぬ、この割で時刻的繁閑を現状に鑑みて一日の輸送量を自転車五二〇〇台、諸車七八〇台、自動車(之れは全く将来のものである)一三八〇台と数えることが出来る

<傍点>今日自動車が</傍点>対岸に渡るのに船津橋を迂回して□□、三六〇〇米を約一〇分を要するものが本隧道の完成後は昇降機を利用するとして距離八〇米で約五分間に短縮し得る、例えば自動車で千鳥橋−玉藻橋間を行く場合に就て考えると現在距離四四五〇米で約一三・五分間を要するものが昇降機を利用して本隧道を通れば距離二七〇〇米で約一二分と成る、取付隧道が出来た暁にはこの時間は更に短縮せられて七・三分位と成るであろう 又例えば千鳥橋−千舟橋間をドライヴすると境川を経て七九五〇米で二〇分かかるが、安治川築港線を経て本隧道を利用すると五〇六〇米と成り、昇降機で渡っても一六分若し玉船橋から取付勾配隧道でも出来れば更に一一・三分に短縮出来るだろう

茲で本計画の経済的考察が興味ある問題と成るが筆者の領域を出る嫌いもあるし今日では一切金額に触れることは差控え度い

<傍点>証明排水換気</傍点>等も適当に設備することに成っている、昇降室の入口路面の高さは昨年九月二十一日の高潮位がこの付近で三・八〇−三・九〇米であったので更に余裕を見て之れを四・二米とし現在地盤より約一・二〇米高上する、之以上高くするときは取付道路の関係上地形的困難があるから、同o・p以上五・〇〇米迄八〇糎の高さで適当な浸水遮断扉を設けて万一に備えることとした遮断扉の詳細並に其の運用方法に就ては考究中である

◎隧道の工法

工事は先ず南詰から初めて次いで北詰に移し後中央部の沈埋管を沈設する、南詰工事の着手以前に在来の渡船場を約九〇米下流に移転してから、北岸寄りを浚渫する、これは南詰工事のため

<傍点>の仮締切をして</傍点>川幅を縮小するから北岸よりに、航路を移すに当り船舶航行の不便を軽減する目的で施工するものである、この浚渫の結果は仮締切が出来てから四・五米以上の深吃水の船舶に対する航路幅は従来より多少広くなるが三・〇米程度の浅吃水の船舶に対しては約二七パーセントの縮小は免れぬのみならず、航路はこの

<傍点>前後で湾曲し</傍点>且つ流速は従来に比し約二七パーセントを増加するであろう、故に工事中航行上或程度の混雑は到底免れぬから適時適当の方法に依って航行の整理をする予定である、その方法に就ては昨年十一月末に関係監督官庁、安治川を利用する船舶業者、並市当局の間に座談会を開いて意見の交換せらるる処があったが結局工事着手後の状態を観測して具体的処置を採らねばならぬということに成っている、南詰工事は鋼矢板で

<傍点>仮締切をして<・傍点>o・p以下六・〇米程度に掘削地均しをしてから、潜函の沈下作業をなし漸次上部を構築するのである、南詰の工事が終ると今度は航路を南岸寄りに移すための浚渫を行って北詰を同様に施工する、沈埋管との継手の処は予め木造仮蓋をしておく、次に沈埋管沈設箇所の浚渫をする、この浚渫は自然に埋まって来ることを予想せねばならぬが

<傍点>流速と土質に</傍点>関して其の程度を推測することは甚だ困難であるので稍急勾配に施行して自然に崩落するものは時々取除く心算である、浚渫深は水深約七・〇米乃至一七米に達し土量約二〇〇〇〇立米に及ぶので能率のよいバケット式浚渫船を用い度いのであるが航行の妨害と成って悪いから已むを得ず掴揚式浚渫船に幾分の改造を加えて昼夜兼行で作業を進める予定である

<傍点>浚渫が終って</傍点>川床均しをすませた後愈よ沈埋管の沈設をするのであるが沈埋管は予め船渠内で製作したものを現場に曳航することに成っている、管の容積は約五〇〇〇立米、重量約四五〇〇噸である、沈埋管の沈設は、極めて敏速と確実を要し、本水道工事中最も慎重な準備と細心の注意を尽さねばならぬ難作業である沈設作業時間以外は成るべく航行を妨げぬ様に工夫した

<傍点>堅固な導材を</傍点>以て管を所定の位置に正しく導き管内に設けた室に平等に注水して管体を水平に保って徐々に沈下する沈下作業は流速の最小の時間を撰んで約四時間位の内に終了せしめる、この間は勿論船舶の航行は全然禁止しなければならぬ、沈埋管と既設両詰工事との継手の箇所並一時管体に設けた各種の孔等は総て適当な材料を以て内外から工作して完全な水止工を造る、継手は管の周囲外面に沿う重ね合せを考案し

<傍点>水密に施工す</傍点>るのであるが尚種々の方法に就て詳細に研究中である、引き継いで隧道内道路工、上屋の築造昇降機の取付附属工事一切を施工する、工事は昭和九年九月から護岸の保護、北岸寄り航路の浚渫、地質の再調査流速、流量、水位の観測等準備作業を行って来た、其間風水害による浚渫作業の支障や、高潮結果に鑑みての計画変更、取付勾配隧道に関する計画方針の

<傍点>審議等を経て</傍点>来たが最近愈よ本格的工事に着手するのであろう、竣功は昭和十三年の春と予定している、終りに本隧道の設計に関しては工学博士岡部三郎氏の御指導に拠る処甚だ多いことを付記して謝意を表するものである

2011.6.20.補完。表紙のノドに「昭和十年十一月」という書き込みがあるのを発見した。

この概説書からわかることは多い。

  • ・大阪市から土木学会関西支部へ検討依頼したのが昭和5年6月であること
  • ・検討委員会のメンバー名

いちばんの意外は瀧山與の参与。常磐書房の高等土木工学シリーズ・隧道工学でお世話に?なった人。

[] 昭和9年7月15日発行 土木部報第二十五号[4297/8565-8574]

あまりに切ないので土木部報のを書く。

第二次都計事業 天のかけはし 河底のとんねる

木津川を一跨ぎ… …木津川新橋

(略)

前代未聞の工法… …安治川河底隧道

川の底に長さ五十米余の橋が架かる……と云った方が判り易いのがこの河底道路である

第二次都市計画事業路線安治川市岡線の附属施設として現在の安治川源兵衛渡しの位置に新設せられんとする河底横断隧道工事の準備のために近く川底の浚渫がはじめられるが、これが了って航路の変更が実施されると河底道路の工事が着手せられる

その構造は、大体南北両岸に潜函工法による鉄骨鉄筋コンクリートの基礎が設けられ、此の上に昇降機室、沈埋管(河底を通るトンネル部分)取付用の車輌待避所部分が施工せられる、これが完成すると、両岸の此の基礎工の上に跨がる長さ四十九米二の鉄筋コンクリート既製管が曳航されて来て埋められるのである、本管に起る総ての荷重は両岸基礎工によって支持され、川底の土砂には伝達されず、河底土砂に移動があっても隧道には何等の影響も及ぼさぬ、丁度川底の土砂の中に橋が架かっているようなもので、この沈埋管の上にはコンクリート防護工が施され、その上に一米余の厚さで土砂が覆い河底を為しているわけである

此の既成管が本河底道路の主体でその延長四十九米二、総幅十四米、総高七米、内部には二支柱があって断面は四型を為している、外壁の厚さ約八十糎、内部の有効高は四米である、此の中に、東側に有効幅員三米の北行高速車道を設け、中央に五米四の南行高速車道並に往復緩車道を設ける、全て鉄骨鉄筋コンクリート構造を施すものである

此の沈埋管の乗る潜函橋台の内部沈埋管と昇降機室との間は車輌の待避所に充てる関係上支柱を無くし幅員は特に拡げて十二米四乃至十五米三とする、この潜函橋台と中央沈埋管とを通じて総長八十米の河底隧道が完成するのである

路面から隧道内への連絡は南北両岸ともに昇降機を使用する、これが為に二十人乗歩行者用昇降機各二台乗用自動車二輛積(トラックならば一輛)昇降機各二台を具えることとなっている、なお歩行者用としては有効幅員一米四の螺旋状階段も併設されることとなっている

工事予算額約百万円、七月末頃起工し、約三年にして竣工の見込

本隧道が完成の上は従来渡船以外には連路の方法の無かった此花区西九条方面工業地帯と、港区九条の中心地帯とを結ぶこととなり、一日尠くも三万の人、二千数百台の車を輸送する重要な交通機関となるので其の完成は待望せられている

(河川橋梁課)

 

これ読んで「あれっ」と思えたらnagajis。

[] 昭和11年安治川河底隧道工事概説書[4297/8433-8438]

誰得上等、第三の概説書。手書きをガリ版刷してるので掠れて読みにくいったらありゃしない.

[手書きで昭和十一年九月廿七日]

 [一行不明]治川市岡線の新設に伴って従来の源兵衛渡の渡船連絡を廃止して新に河底横断隧道を築造しようとするものである。 計画に当りて尤も注意す可きことは安治川は船津橋より下流が無橋区域として指定せられているため原則としては橋梁を架設することは許されぬということである。[イ+乃]で昭和五年六月安治川連絡設備計画に就て最も遺憾なき方法を以て善処すべく土木学会関西支部に之が研究を依頼したのである、同委員会に於ける審議の結果出来上がった案が即ち今日具体化せんとしている設計の素を成したものであり連絡施設として改良渡船高架橋可動橋隧道等を経済的方面から亦利用的方面からも夫々利害得失を比較研究した結果沈埋式工法による河底隧道を最も適切なものと決定せられたのである。

隧道の築造は先ず両岸昇降機室と河底隧道部とを施工し取付(勾配)隧道は将来の交通情勢観測の結果その施工時期を計画する予定となっている。

この位置に於ける川幅は七七・二米水深は中央部に於てO.P,下六米であり航路としては約四米位を使用している状態である。 本隧道は河底部の延長八〇・六米で之に接して両側に奥行一〇宛の昇降機室がある河底隧道部は中央四九・二米を所謂沈埋管としてこの両側に長一五・七米宛の昇降機室前の広場の部分が接続している有効幅員は沈埋管部分では二・四米の歩道を下流に一本とその上流に四・五米の車道を二本設け夫々の間には沈埋管の両端支承間を橋桁として取扱うために必要な「トラス」を置き歩道は往復利用とし車道は何れも[二行不明]とする。路面口の天井迄の高さは車道では四・五米歩道では二・八七米以上とする。

沈埋管部分の車道路面はO.P,下一三・一米で縦断勾配は水平とし其の両端から三十分ノ一の勾配で昇降機床に接続せしめ昇降機室前でO.P,下一二・七四米となるそうすると両岸地盤高をO.P,上四・二米としたから諸車用昇降機の行程は一六・九四米(約五十六尺)と成る歩行者用昇降機はこれより一・六三米だけ少い。

両岸昇降機室は二〇・四米×一〇・〇米の内法でその内に西側から順々に歩行者用昇降機二台と諸車用昇降機二台とを設備し得る様にし前者の周囲には幅一・四米の階段を置く尚中央部分(諸車用昇降機と歩行者用昇降機との中間)に幅三・一米の空室を設けておいて将来取付勾配隧道の出来た時には此の空室と上流側の諸車用昇降機一台を撤去した跡とを取付勾配隧道への連絡車道として利用する予定である。取付勾配隧道は有効幅員六・〇米として高速車専用の予定である。

基礎工は沈埋管部に於ては浚渫した河底を単に地均をして沈設する関係上管底の地盤には信頼せずに管の両端に位する部分に支台を設けてこの上に管を据え付けて管自体を一つの河底橋梁として取扱うことにし此の支台を昇降機室の基礎と一帯の潜函工とする。

沈埋管の大きさは高さ七・〇米幅一四・〇米長四九・二米で天端をO.P,下七・九米とし其の上に厚さ二十糎の砂を敷き更に其の上に厚さ三十糎のコンクリート塊を敷いて河底防護工とする防護工の上には 三米厚に玉石又は土砂を以て川床を形成するのである。

[一行不明]て毎時一五〇〇人(交通量を示す)を輸送し得るものである現在渡船のラッシュアワーに於ける最大交通量は一時間一一五〇人で一日に一二・四七〇人を運んでいる。

諸車用昇降機は三・〇米×九・五米の大さで毎分四五・五米の速度とし乗用自動車二台を収容し得るもので二台の昇降機を全部自動車に利用するものと考えると毎時一四四台を輸送する事が出来る。然し現在渡船を利用している自転車や諸車をも輸送せねばならぬから二台の昇降機が輸送し得る最大交通量を推定すれば毎時自転車三八〇台諸車六〇台自動車九〇台と云う様な状態になるだろう。

其他照明排水換気等も適当に設備することに成っている。尚昇降機室の入口には高潮の場合を考えてO.P,上五・〇米迄浸水を遮断する様遮断扉を設けることになっている。

工事の工法

工事は先ず南詰から初めて次で北詰に移し後中央部の沈埋管を沈設する。南詰工事の着手以前に在来の渡船 を約九〇米下流に移転してから北岸寄を浚渫する。これは南詰工事のため仮締切をして川幅を縮少するから北岸寄に航路を移すに当り船舶航行の不便を軽減する目的で施工するものである。仮締切実施後流速は約二十七パーセント増加する予定であったが実施の結果は予想より少く一〇パーセント程度であった。これがため工事中の航行上の混雑も少く航行の監督も都合よくいっている。

両詰工事は鉄矢板で一重の仮締切をしてO.P.下一・〇米程度に掘鑿地均等しをしてから潜函の据付沈下作業[一行不明]く。

沈埋管沈設のために浚渫をするがこれは自然に埋まって来ることを予想せねばならぬ流速と土質によりどの程度に埋まるかを推測することは甚だ困難であるが崩落を防止する設備をするは勿論昼夜兼行で作業を進めてなるべく自然に埋まることを少くする考である。

浚渫が終って川床均しをすませた後愈よ沈埋管の沈設をするのである沈埋管は予め本市港湾部船渠内で製作したものを現場に曳航することになっている。管の容積は約五〇〇〇立米重量約四五〇〇噸である、沈埋管の沈設は極めて敏速と確実とを要し本工事中尤も慎重な準備と細心の注意を尽さねばならぬ難作業である。沈設作業時間以外は成るべく航行を妨げぬ様に工夫した堅固な導材を以て所定の位置に正しく導き予め管内に設けた室に注水して管体を水平に保って徐々に沈下する予定である。沈下作業は流速の最小の時間を撰んで約四時間位の内に終了せしめる。此の間は勿論船舶の航行は全然禁止しなければならぬ。沈埋管と既設隧道との継手は管の周面外面に沿って設けたる丁型突出部を利用し各突出部間に鉄板を用いて仮水止をい水密に施工し内部を水を抽出後内部より完全なる継手を施工するのである、突出部と鉄板は潜水夫により「ボールト」にて緊定するのである。

最後に隧道内道路工、上屋の築造、昇降機の取付、附属工事等を行いて工事を完成する予定である。

工事は昭和九年九月から護岸の保護北岸寄の航路の浚渫地質の再調査、流速、潮位の観測等準備作業[半行不明]竣功は昭和十三年の春の予定である。

綴じの喉に隠れてて見えぬ.

寝る前に沈埋管が沈埋函になっているのに気付いて欝である。ぜんぶペーストし直しかえ。。。

15日にあるというシクロジャンブルーに行きたかったのだが、ちょっと厳しい状況だ。ORJ出来てないからな!

61号が終わったら2泊3日くらいでどこかに行ってみたい。福知山か御杖村か・・・後者のほうが喫緊なのだが最近は南方ばかり行っているので気分を変えてみたい。原点に帰ってお気楽サイクリングがいいな。

うーん、なんでこんなに蒸留が遅いのだろう・・・何か設定変えたっけか?

画像もそんなに大きくないはずだし。一巡するのに数十分も待ってられねえ。

そして途中で落ちると数十分が無駄になるという..orz

[独言] 61号

うーん、広告がちと大きすぎたな・・・うまいこと第一部に入らぬ。第二部に押し込んで35MB超にするか・・・


2012-05-14 この日を編集

[独言] Classilaめ

New Versionが出たというので嬉々として入れ換えたら(UA変更になったのが効いているのか)ウオッちず見られへんようになった。慌てて元に戻したらProfileが吹っ飛んでブックマーク再構築の刑に・・・。面倒臭いといったらありゃしない。そんなこんなで無駄な時間を取られている発行直前のこのクソ忙しい時。

[ph.] nagajis

画像の説明野良猫とのコンタクトに成功して恍惚状態のnagajis。何でこんなに嬉しそうな顔ができるのか。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ おろろん [ ・・猫に構ってもらえて嬉しいのはとってもよぉ~く判りますが・・・ 顔と目が逝っちゃい過ぎ・・・]

_ nagajis [ノーコメントです。]


2018-05-14 この日を編集

[古レール][] Dowlais Ironworks

https://www.gracesguide.co.uk/Dowlais_Ironworks

ウェールズ・マーサー・ティドビルの主要な鉄工所。同地4大工場の1@19th century。他はCyfarthfa、Plymouth、Penydarren Ironworks。

1759
Thomas Lewis、Thomas Price、Richard Jenkins、Thomas Harris、John Curtis、Nathaniel Webb、John Jones、Isaac Wilkinson、Edward Blakeaway の9メンバーのパートナーシップにより設立。Merthyr Tydfilの近く。南ウェールズで2番めとなる石炭燃料の溶鉱炉だった。
1767
John Guestが同工場のマネージャーに指名される。彼はLewisの資産から(所有する土地から?)石炭を発見し製錬に使っていた木炭を置き換えた。
1782
John Guestはルイスとセールスマン・ William Taitt(後に彼の義理の息子になる)とビジネスパートナーになる。
1787
Thomas Guestが父親の跡を継ぐ。
1795
Dowlaisでは1753年ころから蒸気機関の要求(claims of steam power)があったが、1795年に高炉を吹くために蒸気機関を導入したのはThomasだったと考えられている。
1815
Johnの孫、John Josiah Guestがこの工場を管理していた頃、同社は世界最大の製鉄・製鋼会社(iron and steel producer)(といわれた)
1816
大きな争議。
1816
工場はレール製造の契約のお蔭で成功を収めた。鉄道が急速に発達しレール需要がますます増加したので。
この頃Dowlais Iron Co取引していたパートナー:Josiah John Guest、Wyndham Lewis、William Price Lewis、Thomas Hevel Guest
1824
Guest Lewis and Coは年間15,000トンを生産。
1839
DowlaisにIfor Worksを建設、既存の工場を拡張。
1845
7,300人を雇用、18の炉で毎年89,000トンの鉄(iron)を生産。
1848
William Price Lewis死去。彼はDowlaisの5分の16を所有し、彼の財産を彼の甥William Wyndham Lewisに残したが、意志の正確な意味が法廷で解決されるまでに数年かかった。
1851
Dowlais Iron Co, Guest, Lewis and Co, and Guest and Co,の商号・ファーム下でのSir John Josiah Guest と Edwin John Hutchins(製鉄家・採鉱家・ Dowlaisの商人)の間のパートナーシップが解消される。
1852
John Josiah Guestは、妻のLady Charlotte GuestによりDowlais Worksの管理を手伝われてた。John Josiah Guestの死によって、工場は彼の管財人であるGT ClarkとHenry Austin Bruce、1st Baron Aberdareによって管理される。
1850s
ベッセマープロセスライセンスの組織(に加入?)
1857までに
世界で最も強力な圧延機(rolling mill)を建造。
1850s
この頃使用していたエンジン。
ビームブローイングエンジン(beam blowing engine):空気圧シリンダー直径144インチ、ストローク12フィート
蒸気シリンダ(The steam cylinder):ストローク13フィート、ボア55インチ
エンジンは60psiの蒸気で650 HPを発生。20rpm。
エンジンとベッドプレートの重量:約300トン 以上1851年建造
圧延機(pair of rolling mill):24 rpmで約1000 HPを発生、重量約1000トン
直径45インチのシリンダー、ストローク10フィートビーム(高さ24フィートのの8つの鋳鉄製支柱で支えられる) 以上1857年建造
ブローエンジンと圧延機のエンジンのシリンダーはPerran Foundry社が鋳造、他のすべての部品はDowlais Iron Works社製。
1859
ペニーダーレン製鉄所(Penydarren Ironworks)の鉱床を購入
1865
最初のベッセマー鋼を製造。早い段階に鋼製造に転換したお陰で1930年代まで生き残ることができた(近くの Cyfarthfa Ironworks はそうでなかったので消滅)。
1869
70トンというモンスター級の鋳鉄塊を製造。スチームハンマー製造用に。真夜中から鋳型に注ぎ始め、翌日午後三時までかかった。熔解状態が12時間持続し完全に冷めるまで12-14日かかった
1882
Edward Pritchard Martin がジェネラルマネージャーに就任。彼は以降20年間その座に就いた。省力化機械(labour-saving machinery)を導入。
1882
Thomas F. Harvey が再生熱風ストーブ(Regenerative Hot Blast Stoves)を設計。
1888
同地で新しい工場を建設。
1888
Cardiff MoorsにDowlais-Cardiff Works設立。
1891
2月に二つの高炉(blast-furnaces)が稼働を始める。ふっ飛ばしたんじゃないよね。
1895
製鉄所(The steel works)と板圧延機(plate mills)が稼働を始める.製紙工場じゃねえよな。
1898
この年にG. T. Clarkが死去するとJohn Josiah's son, Ivor Bertie Guest, 1st Baron Wimborneが工場経営に積極的になった(became active in the management of the works)が彼は他の興味に気を取られた。彼は1899年にArthur Keenのアプローチに応える。
1900
6月9日 Dowlais Iron CompanyとGuest and Co(どっちもLord Wimborneの影響下にあった工場)がPatent Nut and Bolt Coと合併。 Patent Nut and Bolt CoはArthur Keenの所有。んで Guest, Keen and Coが設立される。この合併に因るKeenの会社は石炭と製鉄(iron upplies)を得、製品種を多様化させた。
1912
英国王ジョージV世ととメアリー・メアリーが訪問。
1926
7月8日 Dowlais-Cardiff Steel Works の元マネジャー・Mr James Thomas死去。
1930
GKN(かつてGuest,Keen,Nettlefoldsという名で知られていたエンジニアリング会社、産業革命期の1759年に創業)と Baldwins(1902創業の製鉄・製鋼業、石炭鉄商)の鉄・鋼部門を統合して新しい会社、British (Guest Keen, Baldwins) Iron and Steel Co が設立される。GKN は統合会社にDowlais Iron and Steel Worksを供出(contributed Dowlais Iron and Steel Works amongst other units)。
1935
Dowlais worksは余剰(redundant)になる。
1936
鉄製造を終える。East MoorsのCardiffのドックに隣接して新しい鉄・鋼製造所が建設される。この鋳造・工作工場は 地元では"Ivor Works"として知られた。 after Ivor Bertie Guest, son of John Josiah Guest。
1937
Dowlaisに残っていた高炉の一つは銑鉄不足に対応して操業に復帰。Dowlaisは1929年に閉鎖するまで170年間銑鉄を作っていた。
after WW2
第二次世界大戦後に新しい工場が建設される。Dowlais Foundry and Engineering Companyの名で数年間操業。
1951
British (Guest Keen, Baldwins) Iron and Steel Co 、鉄鋼法の下で国有化、国営企業Iron and Steel Corporation of Great Britainの一員となる。
1954
一貫製造(the whole production chain)を達成するため GKN はGuest Keen Iron and Steel Co をHolding and Realisation Agencyから再取得する.
1967
Dowlais Foundry and Engineering はオートメーション化された製鋼プラントをドイツに発注。包括的な再建計画の一環として(as part of a comprehensive re-equipment programme)
1967
British Steelの一部になる。
1987
廃業

なげえ。しかし250年も前に誕生した工場の来歴がこれだけ詳しく判明している(ここでいう「判明している」はネット上accesibleな場所に体系的にまとめられているという意味)のはさすが産業革命の御国だと敬服する。鉄道がらみはともかくとして、例えば足立鉄工所とか丹治煉瓦とかの歴史がわが国にあるかっちゅうと、どがいかや。製鉄製鋼とそれ以外じゃ調べる意味合いも違うかもしれんけど。


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