nagajisの日不定記。
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昨日より昼より寝室取締となりたる為今朝は寝室掃除なりき。十三時より訓育学科あり。十五時より剣術、随意運動時は明日の考査準をなす。 〔nagajis:考査準備?〕
服装検査まで非常に忙し。寝室取締等に、一度任ぜらるゝや非常なる責任を感じ、平常より一層緊張したる感に打たる。〔欄外朱:この責任感が行動の基礎なり〕
化学は考査後希〔期〕待せるガラス細工なれど十分なる活動はなすこと能わず。
体操・運動班運動は愉快に、元気になし得たり。寒き朝に似ず、一天雲なき此の日、元気になし得たるも当然というべし。
切磋は対立せずして友情にてなすべし。
十四時半より背嚢につき約一時間佐々木曹長殿の学科あり。十六時接種まで明日の外出の手続き等にて運動す。就寝後三分して発熱、夕食をとらず。四十度九分の熱出たり。頭痛。
連休中に出歩き過ぎたせいもあって37号は記事少なめです。御免なさい。そのかわり次号は3部構成くらいにしますから(言ったな
書かなきゃいけないことはいろいろあるんですが、時間がないのす・・・
なんか私がトリさんを嫌ってわざとトリミングしたみたいな話になっている(汗 画像収めるのに72%縮小し忘れただけなのに。基準が左上にあるから右上が見えなかった.
いや待てよ、そういうことにして世界を渾沌に陥れるというのもありだな。うん。<カオスのseed
意図したわけではないが今号はすべてのページが横書きだ。タイトルも見出しもデザ処理も縦書きが一切無い。画像の中の文章だけだ。たぶん61号目にして初めての出来事だと思う。11号はTRDBあったからな。
横書きだと文章がアレでもアラが見えないというのは秘密事項で、本当は画像と文章とかっちり対比させながら書きたい時とか比率が1:1のときは横書きのほうがやりやすいから横書きにしたのである。文章を計り易いというのもある。
で,安治川については存分に書いたので満足した.文章ではなくとりあげた量と内容に満足である.探索ルポを書いていると「だろう」「かも知れない」ばかりになってムラムラする.町史や村史などですでに書かれている情報の寄せ集めになりやすい.他人の褌じゃんとか思う.かといって村田の時のようなのは正直手に余る.ちゃんと把握して咀嚼して書けたとは言いがたいしな.今回はそのどちらでもない.そのせいで他人には伝わらないかも知れんことは書く前から覚悟した.でもまあ毎回こんなんだったら氏ぬるよな.そんなネタもねえし.
で,徹夜して修正したわけだがこのまま寝ると間違い無く夕方を回るのである。サドル買いたかった。
ふと昨日の長年日記を読んで毎年こうなんかと気づき愕然としている.そりゃ同じこと3年もやってたら不感症になるわな.今年は未だ自分のためになつことをしたらしいが.
金ヶ崎:225x53x?,223x52.3x?
春日野:220x54x?,225x53x?
鐘ヶ坂 坑道:222x(60〜63)x110,215x59x?,218x60〜59x?,222x60〜61x?
鐘ヶ坂 坑口:238x68x115,235x68x112〜3
鐘ヶ坂 天井:220x54x?
Indesignからpdf出力する時30ページほど書き出したところで電源が落ちるという謎現象に遭遇し小一時間苛まれた。3回目でさすがに怪しく思い20ページずつ出力するようにしてみたが2回目でやっぱり落ちる。ShutdownならいいんだけどShundanで即落ちるから心臓に悪い。
4回目で嫌になりCPUクーラーを掃除した。予想通り埃まみれだった。掃除してからは落ちていない。思い当たる節があるんなら最初からやっと欠点だ。いや、やっとけってんだ。知恵熱で落ちるのは自己防衛本能の作動みたくて面白いがいつまでも面白がっていられるほど時間の余裕はないのである。
あと一つどうしよう……前回ああして一記事追加したのに今回もうないっていうのもどうか。取り繕いました感紛々ではないか。ネタがないわけではないがまた和歌山の物件だし橋見てきましたというだけのネタだからな。ネタをけちっているわけじゃないが他はオモニ過ぎる。アポジ。お父さん。青春をみてしまつた。(岡豊氏談)
芥川賞直木賞セットが狙い通り出てくれているので胸を撫で下ろしているが芥川賞に比べ直木賞の捌けが悪い気がするのは気のせいだろうか。そりゃいろんなジャンルから受賞してるもんな、時代小説と物語とミステリーとをまとめて読みたがる御仁は少なかろう。かといって芥川賞の文庫は弾数が少ないからそう頻繁に作ることができぬ。今度作ったら少し高めに設定しておく。
ここ数日風呂に入っていないので臭くてたまらないが風呂に入る暇も入らねばならぬという義務感もなくそんな余裕があるなら寝るかキーを叩いているかしていたいというかしていなければならないようなほどに切羽詰まった15日前夜なのであるだのにどういうことだと悪態をつきそうになったが何のことはない好き好んで苦労しているんだろうがと思い直して苦悶は雨山無償する最近そういう自己解決が多くて返ってすっきりしないむしろ自分の非など棚に上げてブチ切れてみたらどうだ気が晴れていいだろうに世の中のニンゲンの大多数がそうやって傍若無人なんだぜと思ったりするのだが右倣え式の頭乗りほど嫌なものはなくそんなことする位なら人間やめて覚醒剤やめないわとか思う然し元々ヤク漬けな訳でもなくこれから新たに購入する金もツテもなくヤッたところで快楽は刹那とわかっているから手を出すつもりもない故に私はすることもなく臭いままで臭い布団に包まり臭い枕を枕にしてふんにゃらキーを打つばかりまるで赤インクの如き生活ではないかもっと刺激を導入しなければ本当に腐るばかりだぞ。を挿入するようなもしくは、を乱れ撃つような区切りが必要だひょっとしたら今自分が最も必要としているのは深山連隊の絵葉書でもPearl用クローズアップレンズでもなく区切りなのではないか|みたいな区切りがさ。
どうせそれも15日晩で事足りるだろうよいや待てよむしろ区切りのためにORJに追われているのかも知れないぞ15日晩に向けてひいはあ言って苦しんで16日から数日間のあの安穏の時間を得るために15日晩に向けて苦しんでおるのでは中廊下嗚呼何という再帰的パラドックス15日の締め切りがなかったらなかったHEY!HEY!BOOM!BOOM!な起伏無き暮しに辟易していることだろうし髪は抜け始めて初めて長い友達だとわかるのだだからおれには友達がいないんだあっほらそうやって自己完結しやがるから詰んな言って一点打値千金万両の実は赤く南天はいつも見て見ぬフリなのである。瑕疵451度。
明日こそラーメンを食いに行こう。
麗流學人=レール学徒、に違いなく候。『道路の改良』で田中好が路政僧なるペンネームを使っていたようなもの。誰だ、この恩人は。
だから・・・アンケート機能してないのを発行前に気づくなと。発行時にちゃんと確認しろと。こういうミスは直反射して返ってくるもんなんだから、ちゃんとしないと。
もう168回も繰り返している行事ではあるが、回を重ねるごとに、最近は特に、発行できたことを嬉しく思うようになった。峠越えの旅をしていて、無事に峠に立てたときの安堵に似ている。旅することが目的なので終わりというものがないが、その果てしなさを恐れるよりも、いま立っている峠の景色だとか、そこから見える風景だとかを愛しんだほうが気が晴れる。煙草を吹かしたり立ち小便をしたりして心ゆくまで楽しむことができないのは残念だが。下って、また次の峠を目指す。
何かの理由で相撲取りを連れてこなければならないというミッションに挑む夢を見た。理由のあたりもしっかりした映像だったと思うのだが忘れてしまった。とにかく少し離れた町に居る力士を連れてこなければならなかった。力士本人を見つけるのは容易かったがそこからの帰路で様々な妨害イベントが発生する。何故かドブ川みたいな川の川辺の斜面を伝って進まねばならなかったり。斜度は緩いが踏み場が10数センチしかないような岩場をへつっていかねばならず、難渋しているうちに、後続の力士ともう一人(いつのまにか同行人が増えていたのだ)は川の中洲を歩いていけることを見つけてさっさとそちらへ行ってしまう。取り残された私の憤慨。
S・シン『フェルマーの最終定理』 文庫版を読む。2002年の長旅で夜の慰みに読もうと思い購ったのは確かみなべの辺りであった。当然単行本。フロントバッグに入れて延々運び続けた。最終的に高山の宿から、不必要になったツーリングマップル数冊とともにI氏に送りつけ、旅を終えてから回収したはずなのだが、その後どうしただろうか。ツーリングマップルは今でも部屋にあるが単行本は早くに処分してしまったように覚えている。
学術的に突っ込んだ内容、証明を具体的に仔細に解説してくれる本だと勝手に思って買ったものだから、あまり満足しなかったのを覚えている。まあ解説してくれていたとしても微塵も理解できなかっただろうが。今回改めて文庫版を読んで、一般読者にとって過不足なく、親切丁寧にわかりやすく書かれてあることに感銘を受けた。難しいことを噛み砕いて解説するのは簡単そうに見えて実は大変難しい。取り上げる内容について本当に理解していないとできないことである。自分は自分の思ったことや考えたことを文字にするだけで苦労している。
緊急事態が収束していくようなので安堵しているが、今回の件でまたニホンジンの潔癖症が進行しそうな感じなのが不安である。惣菜の量り売りは不衛生だからヤメロとかジョギングをしている人が呼気を撒き散らすといって忌避するようなコメントが公共の電波に乗るようになってーーーあ、いまは公共の電波なんて言わないか、らじるらじるで聞いてるんだから光回線とパケットなんだよなーーー、CovID-19が終息してもそんな意識ばかりが残るように予想する。互いを思いやってソーシャルディスタンスを守るのではない、自分が感染したくないから離れるのだ。その聖域を侵すものとしてしか他人を見なくなって、そのくせ自分が他人から同様の見方をされるのは拒絶する。結局は自分さえ助かればよいわけで、しかしそうだと宣言するまでの気丈さはなく、他人が困るだろうからというような転嫁をする、それがまるで「思いやり」であるかのように外からは観察され誇張して表現されていって、陰湿であかるいニッポンの出来上がりである。脛に傷を持つものは(そうかも知れないという内省のできる気弱な人間は)ますます生きづらい社会になっていくだろうと思う。そういう社会とは距離を置くに限る。いちいち構っていたらいつまで経っても気が休まらない。
自分で考えて決断を下し行動する能力がニホンジンには欠如しているような気がする。自粛せよと言われれば自粛する。それ自体は悪いことじゃないが「言われたからそうしている」でしかないのではないかと疑ってしまう。「コロナが怖いから外出しない」「マスクしなければ外出できない」。どの程度曝露すれば罹患するのか、三密の密接とはどんな密接をいうのか。マスクでどの程度防げるのか・飛散を抑えられるのか。その心配は有効なのか。考えてみもせずにただ三密だ三密だ怖い不潔忌避では無能な思考停止ではあるまいか。私はそうはなりたくない。カーズみたいに考えるのをやめてただ生きているだけの生命にはなりたくない。