nagajisの日不定記。
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代日休暇なり。朝より志摩の家へ遊びに行き、十五時まで西瓜・サイダー・其の他を食う。帰りたる際は、しぼる程汗出でたり。夕食後は随意自習なりき。明日佐賀へ復るか復らざるかに苦心したれども、遂に思いとゞまる。思う存分食い愉快なる日なりき。
昨日の古文書の件。少しバックグラウンドの解説をば。
古文書は文久11年、野麦街道近道(中ノ洞村高根村境)を独力で開削した渚村の市蔵・弥吉親子に対して高山陣屋から報賞が与えられた件の資料。13点ほどある書状のなかから開削した新道の絵図2枚と関連深そうな1巻を撮影してきてある。
最も知りたいのは2枚の絵図の位置付け。ひとつは見事に彩色されていて、連判に市蔵の名前がある?から市蔵側の提出した清書のようなものじゃないかと思う。が、本当にそうなのかが不安。また絵図部分に貼られた付箋の内容が知りたい。恐らく「岩切 ●間 高●尺/巾●尺」のように個々の工作についてを細々記しているものと思うが、朱の注釈や長文が書かれたものもあって、このへんがよくわからない。
それぞれ写真をクリックするとバカデカイ写真になります。細々撮ってますのでとりあえず代表的なものを一枚ずつ。
上記の部分拡大。この朱書きがよくわからない。左から3枚目のふせんも微妙。「●地 拾●間半 高六尺/巾六尺」??
もう一枚の絵図は墨書きでザザッと書かれた感じ。上の絵図と見比べてみても道形には大差なく、下書き用?現地でスケッチ?かと思う。どうなのだろう。
書状一通についてはちょっと長いので今回は割愛。せっかく解読していただいても使わない可能性があるし・・・。
昭和6、7年の鉄道統計資料ゲットだぜ!とか思っていたら満鉄のだったというオチ。全然補足にならない。昭和57年頃のは無理でも、せめて利用減がはっきり言える辺りの年度のを・・・と思うが、どうするかなぁ。また交通科学博物館へ行くのはむりだなぁ。
本来の目的は山家橋写真。これで存在理由を忘れられた喪われた〜でも書くか。実はおまけで入手したほうの写真のほうが有り難かった。これで3年越しのネタが記事にできる(やっぱり喪われた〜だけどさ)。こっちには現地現状写真もあるし。ついでに市原橋と王子橋も往時の写真も手に入れた。これが元だったのか>日の出新聞
帰りに北山でへんなビルを見つけた。下曲弦プラットトラスがついてる。これがテナントへの通路になっているらしい。
眺めながらナンを食いつついろいろ考えた。スパンは約15m。鉄の梁にしたほうが合理的のような気もするし、ちょっと長過ぎることになる気もする。かといって四角いトラスにするのも大仰だ。パイプの下曲弦トラスなら見た目ほど重くはならないし材料も節約できるだろうから、設計者は熟慮の末にこれを採用したのかも知れないな。
などと善意に解釈した自分が馬鹿だった。
そこを
剛接合にしたら
あかんやん。
せめて円柱部分が可動式とか、そういうのにしてほしかった。確かにこれじゃバブル建築と言われても仕方ない。
一見便利なように見えるが母数がそれなりにあってしかも揃ってないと嘘になる。それが気になってまっとーなことが書けない。欠けてる部分が気になってくる。野又で一息ついたと思ったらまたか。
とりあえず書いておいて折を見て補完してくか。期待されてない原稿だからそういうのもありだろさ。野又に時間取られて再調査行けんかったし。あ。陸橋20尺の件入れてないや。明日明日。
方々にチェック出しするのを忘れている。これも明日。
郡会誌は想定内、情報なし。日露戦役記念誌も新道とは関連がなかった。かわりに奥山田資料集の出所が「宇治田原町資料」(〜昭和53、〜63)とわかる。これをまとめたものがS63の宇治田原町史になるので、以上の情報は掴めないような気がする・・・。資料の中でも散々奥山田新道の資料がないと嘆いている。青木市太郎はいずこや。
あるから使ってるだけで、いつ作られたとか、どういう目的でとか、そんなところに興味持ったりしたことがないんだと思う。あっても「かもしれない」で糸冬了。あるいは他人の言を鵜呑みにして糸冬言舌。
そのうえで眼前の道の酷さには文句を言う。意味なり来歴なりがわかれば「そういうものだ」と知って納得いくだろうに。プゲラしていたことに恥を覚えたりもするかも知れないのに。そうなったところで自分に恩恵はないが、それ以外の状況は変わるんじゃないか。
そのへん鉄道はいいよなー。「いつ」「何のために」が明らかで、追う手立ても整ってるから。誰だって調べようがあるもの。&、当事者になる可能性は限りなく低いもの。
_ はつ [これはっ、索道のワイヤーに蓑虫状態ですね!←動画 ORJ謹製、絶叫展望台ですな。]
法隆寺の裏山にある阿摩池。同寺の防火用水の貯水池として大正14年に建設が始まり、昭和2年に竣工した(翌年落慶法要)。高低差を利用して法隆寺まで送水し、消火ホースで放水するだけでなく寺院の周囲90箇所に設置された放水銃から絶え間なく水が放たれる仕組み。池の取水塔やそれに連なる連絡橋は用途を意識した和風意匠になっている。
そのような防火施設がありながら、金堂壁画は昭和24年に焼失した。あまつさえ消火の勢いで他の壁画を損傷したという。
事実だけ並べると「なんだ役に立たなかったんジャン」となりそうだが、果たしてそうだろうか。消火設備がなかったら金堂は全焼して瓦しか残らなかったろう。他の建物に類焼していたかも知れない。「かけがえのない国宝が喪われた」と捉えるか「一つで済んだ」と捉えるか。日本人的にはたぶん前者。あまり建設的とはいえない。
金堂壁画が焼けたのは1月26日で、これを機に文化財保護法が制定され文化財防火デーが始まった。全国各地の文化財でこの日消火訓練が行われる。そうした訓練がもう半世紀も続けられているのに消失した文化財はいくらもある。この論文によると、文化財保護法施行下で、昭和26年以降平成6年までに14件の国宝・重要文化財が焼失により指定解除されているそうだ。同期間の全解除数の7割を占める。その割合の大きさは木造建築が多いのだから当然かも知れない。ゼロにできないものであるとも言える。
何が言いたいのかよくわからなくなってきたが、要するに阿摩池の扱いがあんまりだと思う。「金堂壁画を守れなかった」というレッテルが暗に貼られているせいで評価しにくい雰囲気にある。金堂消火の際のエピソードはいくらでも書かれているのに、その消火に何を使ったのか教えてくれるものがない。五重塔への放水に備えて相当な水頭を取っていたことが鶏頭牛刀になったのか、それとも消防ポンプとか消防車とかを使ったのか。消火訓練とか手順の取り決めとかやっていなかったのか。そのへんを知りたいのだがなぁ。
防火池や消火設備の建設に際して県土木課では専門の部署を設けて事にあたった。課長を務めた特徴的な名前のあの人はその後民間会社に下って空襲で亡くなっている。
業種別全国工業組合一覧. 昭和15年4月1日現在
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1145112/38
徳島はわかるが奈良にもあったというのが面白い。この頃だと大和と小島と斉藤くらいだったんじゃ。小さいのがたくさんあったかな。
工場事業場別緊要度表
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915985/227
太平洋戦争突入直前、全国の工場事業の重要度を甲乙丙丁で評価付け。赤煉瓦は大阪窯業くらい。
滋賀県比較統計. 明治26至大正元年
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/973996/39
煉瓦製造量の推移。M36年からデータがあってこの年工場数5.全然足りねえ
主要貨物府県別発著数量表. 大正7年度
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/930752/60
実用機械工学叢書. 第1編 上
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950425/86
あの溝が蒸気ボイラーの窯である可能性も考えて。底にある一筋は似ているけれども、側面の壁とか複雑な煙路とかはなかったもんな。
統計上より見たる広島県の地位. 大正15年
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1140144/38
大正15年における煉瓦製造所数のトップは愛知県。産出額は大阪府。広島は4位/9位。
中江種造伝. 下
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142057/101
豊岡で煉瓦製造を始めた人物。河本重次郎宅の煉瓦は中江煉瓦工場製で、現存している。町の観光マップを見よ見よ。
外気温35度 雀、喘ぐ。
体感では36度2分くらいで、それで上の句を作ることばかり考えていたのだが、実際には35度ジャストであったらしい。嘘はつけない。
この夏の来し方を思い我慢する
7月はずいぶん遅くまで涼しかったからな。遅くなった分を取り戻そうと頑張っているんだよ、きっと。
_ あきら@大阪 [>遅くなった分を取り戻そうと頑張っているんだよ、きっと。 いや、そこは「頑張らなくてもいいですよ」と言いたい。 十分に夏を体感してますからと。]
Before...
_ nagajis [ありがとうございます>皆様 確かに岩場だけでなく土崖もあったように思います。なるほど!]
_ はー [ち浚は高と巾なので、岩切も高と何かのサイズのような気なしますが、處に見えるし・・・ 朱書の一文字目は外でしょうか。]
_ はー [右者中洞村ヨリ中之宿村迄字地■尾上道拾弐丁程有此候共難場ニ付■■ヨリ■■三月下旬ヨリ十月上旬頃迄者 人牛馬通■■■候得共■■者山上風烈敷往来難相成右下タ道之■七八丁■■■候場所ニテ■■道巾狭く 巾..]