nagajisの日不定記。
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先日東條陸相名幼を視察し訓示し給う
一、尽忠至誠
一、努力一貫
一、卓越せる人格
〇八・〇〇より規律ある起居にもどる目的を以て教練行わる。約五十分。終りて思う。何となく体が軽くなれりと。以後帰省準備なす。帰省準備も別に気が乗らず学習・整頓なす。午後は校内休養。午睡は不足。梱包解きに、一時間働く。
遊泳中全く意識になかりし目のバチが食堂にて思い出し、今や全盛誠に困る。眠い感にて一ぱいなり。
〔欄外朱・おそらく本人の:今日此の日は今より五年前即ち昭和十三年八月五日に雄躍父が部隊と共に東京田端を出て立ち今生の別れとなれる日にして忘れも出来ざる最も記念すべき日なり。思えば早きものなり〕
Comm(ノーパソ)に続きPrecision(デスクトップ)も起動せず。。。。。mac以外全滅。
HDDは生きているたぶん。BIOSが狂ってる。ブートターゲットを選択できず例えばFDDから起動してどうこうとかCD起動とかさえもできぬ。Windowsが使えないのはともかくBeが使えないのは致命的だ。
おまけにCommのほうも外付けCDがUSBなのでリカバリするための特殊なフロッピーを造らなければならず、そのためには98で動いていないとダメらしいことが判明(2000にあっぷぐれーどしちゃってるよとほほ)。何らかのOSを入れるには別のマシンが必要であり。そうして今すぐ動くものもなし。
修理する金もないぜ!!! orz
腐っている訳にもいかないので何か書いて気を紛らす。ミシシッピ川に架かる橋が落下して騒ぎになっている件について。
ニワカ橋マニアとしても興味のある事件。今だ行方不明者の捜索が行なわれていて原因究明はまだまだ先の話のようだ。日本語のニュースを見ても「古いトラス橋」程度の情報しかなく、何故落ちたのかよくわからない。
先日から「minnesota bridge structure」で検索するとJohn Weeks氏のページ”The Bridges And Structures Of The Major Rivers Of Minneapolis And St. Paul”(ミネアポリスとセントポールの著明河川に架かる橋とその構造)がヒットするようになった。落下する前の同橋(橋自体に名前がなく、高速道路名I-35WをとってI-35W bridgeと呼んでいるらしい)の写真もある。
形式がちょっと興味をひいた。下曲弦の3連連続トラス。日本ではあまり見られないタイプで、少なくとも戦前の橋では存在しない。写真から構造を推測して書くとこんな感じになる(比率とかは適当。左右はもっと長いかも知れない。全長1,907フィート、最大スパン458フィート)。
補鋼入りワーレントラスで下弦がアーチ状になっている。一瞬アーチに見えるがあくまでもトラスの連続体。アーチ弦に相当する部材が特に太かったりはしないし何よりライズがほとんどない。non-redundant(非冗長)な構造と言われる所以はこの辺にあるようだ。
支点が8カ所(片側4カ所)あって、中央の径間は細いピラーの上に置かれローラー支承で支えられている(橋のたもとは不明。どちらとも固定ヒンジか片側だけローラーだろう)。鋼材は熱でわずかに伸び縮みするから、こうした可動式の支承を置いてひずみが生じないようにすることが多い。リンク先ではこの支承が大変錆びていることを指摘している。ローラー支障が機能しなくなったために部材に応力がかかったのではないかと。案外この支障が折れたんじゃないだろうかとも思ってみる。大きさの割にはこの細い支承4カ所で支えてるんだから、ものすごい力がかかっていたはず。
当然ながらYoutubeにも動画がupされてる。何でこんな風景を撮ってたのかと思うような監視カメラ映像(アメリカってそこここにあるんかなあ、こんなのが)。手前が南側、向こうが北側で、北側ピアの真上が割けるような格好で南側が落下する(ピアから1、2番目の下弦材が座屈しているのも見える)。その後北側の陸橋になった部分が折れるようにして落下。中央径間の落下にピアごと引きづられて裂けたような感じだ。
日本でこの形式が少ないのは何でだろう? よくあるのはトラスではなくアーチにしてしまってスパンドレルブレースドにしたタイプ。深い谷をこれでひとまたぎする。もしくはさらにリブを補強して、栃木の晩翠橋みたようなブレースドリブタイドアーチに。高速道路のような高規格道路はRC技術が発展した後だったのでほとんどRC橋なんではなかったか。いずれにしても単純トラスとして設計されたのはほとんどないように思う。あったとしても梁川橋のようなタイコ型?の曲弦トラスだし(これはこれでまた不思議な選択だが)。
やっぱり地震国だけあって、変位には気を使ったのかも知れない。そういえばI-35W橋をひっくり返せばランガートラスに似たシェイプになる。決定的に違うのは橋を分割しヒンジを入れて不当沈下に対応している点だ。ランガー桁なら変位が起きてもある程度は吸収する。ひずみがたまって一気に破断・崩落するということもない(多分)。
昨日は中編2+ネタ候補?をupしている。今日は小編3、中編1。ORJのように「書きたいことを書きたいだけ書く」というのをやっていると、一定の文字数内に収めるというのが(以前にも増して)苦痛になってくる。かなりオーバーしたところから削り込んでいくから効率も悪い。ぎゅうぎゅう詰めの文章になっているのが自分でもわかる。そのくせ余計な引用は潤沢に引用してたりするしな。え。どうにかならんもんかいな>nagajis(文字数制限がヤだからORJやってるともいう)
中編は、もっともっと焦点を絞り込んだほうがいいかも知れぬ。せっかくチョイスしていただいた写真が無に帰することになるかも知れないが。
そうそう、大事なことの連絡も。反映させていただいてます>TUKAさん&ヨッキ氏
市蔵親子が拓いた新道のハイラト部分、2カ所の岩切通し。ここは切り通しよりもその周囲にある付箋が気になります・・・。切り通しの手前(川側)にも道を示す赤線が書かれてあって、ふせんには「右道」?と書かれてある。綱も描かれている。切り通しだけでなく、その切り通しを迂回するための道も作ったのか・・・?
また、2つの切り通しの間には石垣が描かれている。ふせんはその石垣を説明するものと思うのだが・・・。
絶賛他力本願中で申し訳ありません。皆様御教示お願いしますm(_ _°)m
話の腰と論争はこちらから折(れ)るべし。そういう人生訓なわけがない。岐阜市内でもう一つ発見があったのを忘れていた。
前回#54と似たフレーバーがする。「昼からゆうぐれ」という純和風かつ至極曖昧な表現にまず目が行って、それで全部を読んでしまったわけだが、最後の一文字を読んだ時点で腰砕けになってしまった。
八月三日(日曜)昼からゆうぐれ
みんなメルサ広場へ行くよ
(強調筆者)
たった一文字の「よ」が巻き起こす解釈のカオス。張り紙の主は何を言わんとしたのか悩む。
惜しむらくは、この写真のことを思い出したのはついさっきのことだ。すでに8/3のゆうぐれは終わっている。メルサ広場で何が行なわれたのか。「そして」の続き並みに気になると同時に、張り紙の主の思うつぼに嵌ってしまっている自分が憎いよ?
(書いた順番があれなので差し替え)
帰ったら昨日の続きがあったことを知る。沈黙していたせいでヨ氏を困惑させ(そのうえメールを見過ごしていた)TUKA氏を腹立たせたらしい(多分ヨッキれん氏も)。仕方ない。
早く寝たら早く起きてしまったので懸案を片付けに行った。川端線の話を伺いに大和二見へ。現場はこれで3度目だ。
現地では製材所の奥さん、伊勢湾台風の前後に移ってきたというお父さん、大正生まれの古老にお話を聞けた。疑問に思っていたことがあらかた片付き、貯木場や水路の位置、いつまで使われていたか限定することができた。今回見つけた鉄塔の役割もわかった。やはり地元の方の話は伺うべきだ。
話を伺うなかで、太平洋戦争というものに対して確固たるスタンスを持っていないことを思い知った。古老は沖縄へ行き、無事に帰って来れた方であった。「20万人も死んでの、わしはその死に損ないや」という話を何度も繰り返された。それに対して何と答えるべきか、持ち合わせていないことに気づかされた。終戦後この方65年も同じ言葉を繰り返して来られたのだろうと思うとますます返す言葉が見つからない。
戦争はよくないものだと、さも解ったふうなことを言うのは簡単だ。しかしそうしたところで、自分の腹から出た言葉ではないに違いない。実際に戦争を体験し、悲惨な目を見てきたからこそ言える言葉なのではないか。戦争反対を放棄するんではなく、そう思う思いはどんなに募らせても真の理解へは届かないだろう、という諦めに似た気分を味わった。
明日は65回目(というのだろうか?)の原爆投下日である。久しぶりに考えてみるか。
索道の話を伺うと、誰もが「十津川まで伸びていた」と仰る。「日本近代の架空索道」では天川止まりだったようなことが書かれてあるが……。しかも川端には十津川材木協会(とおもっきょう)があったという。これは十津川村へ要確認。
その後時間があったので高野線で九度山へ行った。ねじりまんぽでないねじりまんぽがあるというから一度見ておきたかったのだ。幸いなことによととさんがYahoo!地図を充実させてくられている。参考にさせていただき心行くまで楽しんできた。死ぬほど暑かったけどな。何しろ濡れタオルを地面に伏せたら5分で乾くような暑さだった。
酒が回ってきたので書き足す。高野山へ向かう国道沿いに魔のカーブがある。
よほど怨霊的になものかと思ってドキッとしたが、歩きながら線形を見ていくと理由がよくわかった。最初緩いカーブで入っていって、出口でさらにクッと曲がり込む。緩いカーブでスピードを出し過ぎると対向車線にはみ出す仕組み。しかもこの道、大型ダンプがガンガン行き交っている。
九度山の南海アーチ橋(大師13号暗渠)と九度山発電所水路橋のセットは中々お得だ。どちらも正架のスキューアーチで、前者は煉瓦を一列のなかで少しずつずらして積むことでねじらない。後者は一列ずつずらすことで斜橋を実現している。異なる積みを隣同士で見られるのは有り難いことだ。おまけで水路隧道も一個撮ってきた。
さらに下古沢の先まで歩いて中古沢橋梁を見てきた。どんだけ杉木立の中なんだろうと思っていたら”展望デッキ”が出来ていてびっくり。高野線開通80周年に合わせて整備したようだ。真下からの眺めは確かに良かった。トレッスルの鉄さも満足。しかし杉木立の中に聳える姿も捨て難かった。
請取峠の掲載許可を取ってきた。ついでに伊勢本街道の続きと初瀬新街道と和歌山街道と熊野街道と。疲労困弊党。
今回はISOの切り替えがうまく行ったかんじ。必要充分な写真が手ぶれなしで撮れた。
帰ってきたらおためし購入がうまくいってなかった…そうか、そこは書き換えられんのか・・・どあほ。CD-Rの発送もせな。
この時期に自転車旅をするのはやはり好んで苦行するようなものだと思う。収まりかけていた蕁麻疹が再発し(痒みはそれほどでもない)、右足もギシギシ軋んでいる。寝ては起き起きては寝て体力回復に努めている。
でもまあ予定の9割5分はこなせたんじゃないか。請取峠の掲載許可取得で下らぬ倫理を貫き通したし、謎峠を自転車で越えることができなかったのは想定の範囲内だし、驚きの新発見もあったし、探していたキロポも無数に見つけられたし。意外とあちこちにあるもんなんだな>キロポ。08に尾鷲へ行った時には全然気付かなかったが。気を配っていたら幾つもあったのかも知れない。
あと、久しぶりに快適な廃道泊ができたのも良。
有機農産物ェ・・・
個人的にはこちらのほうがうれしい発見。十津川村川津で小島煉瓦の刻印煉瓦を発見した。力強く打ち込んだせいでずいぶん深くえぐれている。しかしその底に刻まれた野球ボールは見紛うことない小島煉瓦である。
小島煉瓦は昭和13年頃に退転しているので、それ以前に作られ運ばれてきたことになる。そのころの西熊野街道(府県道五條新宮線)を。御所から重坂峠か風の森峠を越えて五條を経由し500m登って天辻隧道を潜りさらに数十キロ登ったり下ったりしつつ運ばれた煉瓦である。感慨が沸かないわけがない。しかもあった場所に意味がある。
電車待ちの間に橋本市をうろうろしたら、国道脇の民家の境界石?で分銅型の刻印を発見。私は初見だがkousenさんが友ヶ島や多奈川で発見されている。どうも和歌山か大阪南部の工場の刻印らしい。聴音所の建設時期で絞り込めるか?
県道722号のニールセンローゼ。パッと見てわかる位置に竣工銘板がなく、なんで川津大橋が二つ並んでいるのかは謎のまま。(橋梁史年表には三弦トラスのほうが載ってるんやな)
主桁が下に撓んでいるように見える。これはカメラのせいではなく、実際にこんな感じだった。テンション足りないんじゃないだろうか? もしくは暑さのせい? いずれにしてもこの付近の橋はどれも放置気味で、塗装禿げまくり&錆びまくりなのが納得行かない。
奈良県長寿命化計画によれば「新川津大橋」で1989年(昭和64/平成元)竣工。やはり6t制限ではやっていけなかったのだろう。五百瀬、杉清方面を十津川に結びつける唯一のルートだからな。
Iビーム。
H形鋼。
両者の中間形態としてワイドフランジなIビームが存在した。レールの脚と同じようにフランジに約9°のテーパーがついている。アメリカのサッカーチーム・ベスレヘムスチールのロゴマークに使われていたのはこいつだ(丁度いいのをRedditで拾った)
Incredibly detailed specs for the Bethlehem Steel logo from r/graphic_design
こうやってつくるのでフランジにテーパーがつく。
あるいはこう。テーパーがないとフランジをきっちりと圧延できないし、もしこれと同じやり方で完全垂直なH鋼を作ったらミル(ロール)に差し込むことができない。一回り大きなやつを突っ込んで圧するということができぬ。
H鋼ってずいぶん昔からあるものだと思い込んでいたけれども、決してそんなことはない。1964年12月に発行された日立の技報「トピー工業株式会社豊橋製鋼所納 H形鋼圧延設備」によると、1900年代初頭にヨーロッパでワイドフランジビームが発明されて、それが長いこと主流だった(サッカーチームのベスレヘム・スチールがマークに採用してたのもBethrehem Steelがその製造を得意としてたからだ)。その後US SteelのHomsted工場、South Chicago工場(元Illinois)、そしてBSCoのLackawanna工場に「ユニバーサルミル」という特殊な圧延機が導入されてH鋼が作られるようになったそうである(たぶん戦後のことだと思う。そんでベスレヘム・スチールのマークもワイドフランジIビームからH形鋼に変わってる。ユニバーサルミルの構造は先述論文ミルヨロシ)。
日本でも1961年頃から国内製鋼所にユニバーサルミルが設置されH形鋼の国産化が始まった。1964年には日立が第一号となる国産ユニバーサルミルを製作してトピー工業に納入している。上記の論文はその報告だ。
この間和歌山へ行った時に西笠田駅から和歌山線に乗ったのだけれども、この無人駅の待合室(といってもベンチと屋根があるだけだか)の屋根を支えていた柱がワイドフランジビームだった。写真撮りそこねたけど。その後時々ワイドフランジビームを探しているけれども、ありそうでなかなか見つからない。阪急十三駅の宝塚線ホームにある鉄骨柱はH鋼のフランジ幅が小さいやつ。これと見た目は一緒だが、淡路駅の柱はどうもテーパーがついてるっぽい。一時停車している電車から降りて目の前の柱を触ってみただけなので、ホントにそうなのか確証し難いが(傍から見たらさぞかし怪しい行動だっただろうな)、テーパーがあったような気がする。しかしそうだったとしてもフランジが狭いので要するにIビームである。十三駅のは屋根梁と溶接、淡路駅のは高力ボルト接合という違いもあった。
遅刻覚悟で出社したら休みだったという、もう何度目かわからない体たらくを演じ、過去数回もそうしたように図書館へ行く。大阪は月曜日でも中之島が開いてくれているのでありがたい。
しかし図書館行が久しぶりであったのでデータベース利用にも図書館カードが必要だと記憶違いをしてしまい、家に取りに戻ったせいで、阪急宝塚線のequipment inspectionに引っかかってしまう。直行していたら引っかからなかっただろうという稼働停止に引っかかり、岡町駅で30分ほど無駄に時間を過ごした。カードを取りに帰る時間も含めたら1時間近くロスしたな。でも快晴の青空がきれいだったし心地よい風も吹いていたのでよしとしておく。ダイヤが乱れて足止めを食っている時は腹を立てたって何にもならない。デコにダイヤと書いた男がホームで乱れている姿でも想像して微笑しておるほうが数段宜しい。
先に日本橋に行ってHDDを入手しておく。最近は2.5inchがやけに高い。160GBで1000円とかボッタクリにも程がある。それだけ需要があるということだろうか。もう1000えん弱出してSSDでも買っとけということか。
そして図書館。12:45から閉館間際までがっつり毎索。それだけやっても終えられないM30。そして多分M31も見るべきであるとわかる。ドツボである。1ヶ月24000えん払って自宅で見たほうがいいのではないかと思えてくる。
近々整理せねばならないのでスキャンしておく。
1月4日8面。追って合資会社化するとは書かれているが見つけられず。かわりに10月頃信達村の鶴岡氏らが樽井煉瓦株式会社の設立認可を申請しとる。この樽井煉瓦は浜の樽井煉瓦(後の矢代氏工場)ではないほうの樽井煉瓦と思われるのだが、周辺では該刻印を見つけられず。神戸や加古川の細い・くっついた三本線がこいつだったらどうしようと考えると夜も眠れない(が多分それは播煉のはずである)。
2月21日5面。ほとんどノーマークだった工場。耐火・坩堝専業だとばかり思っていたが、赤煉瓦も掲げているし、「どんな煉瓦でも作る」と豪語しておる。その割に該刻印は見たことがない。分銅型はさておき富士に正が有り得そうだ。
M30に簇出する泡沫工場群のひとつ。この広告を見た直後に工場跡地へ行ってみたが該刻印やはり見当たらなかった。そのかわりに東高野街道沿いに■刻印が分布していることとMASUDA RENGAを追検。会社所在地はいまの瓜破東なのだ(増田煉瓦は大和川対岸)。6月16日6面。
この辺りから今日の収穫。西讃煉瓦社章。金町製瓦の○2つに似たような、serifつきCを2つ重ねたような社章。しかし別紙では「セイサン」と刻まれたやつが見つかっている。社章タイプはどうなんだろう、存在するのかどうか疑問だ(関西圏で金町?というようなやつを見たことがあるようなないような……)。西讃煉瓦は香川県観音寺市に最初に興った煉瓦製造会社。38年だったかに讃岐煉瓦に吸収合併されて分工場となり、それが後に本社になる。この広告には新式輪環窯と登窯を使用とあって地味に興味深い。関西ではM24の大阪窯業が最初で、M30には堺にも堺煉瓦の1基しかなかった(同年中に日本煉瓦が2基建造。泉南では貝塚と岸和田が採用してたんじゃなかったけか。あと実現したかどうかよくわからない堺煉化石の擬洋風環窯)。最初期の環窯の一つといってよい。8月18日号、面が掠れて読めんがたぶん5面あたり。
そうして讃岐煉瓦もこの年に広告を出している。例の松葉菱に篆書体の「讃」。それそのものの刻印は未見だが枠の松葉菱と文字を組み合わせたタイプが永く使い続けられることになる。コメンタリーの「裁断自在ナリ」は地味ながら実用面で大きなアドバンテージになったものと思う。カッチカチに硬いやつでないときれいに割れねえんだよな。胎土が粗かったり焼きが甘かったりすると断面が凸凹になって美しくないのである、と経験者談として書いておく。10月3日7面。
少し前後するが稲田の浪速煉瓦。たしかこの工場、最初の設立許可申請の時は「浪花煉瓦」だった。いつのまにか「浪速」になっている(どこかで訂正申請を出してた気もする)。そうして稲田はつい最近歩いた地域だ。これを知っていたらもうちょっと時間をかけて歩き回ったんだがな……。いま地形図を見直したら徳庵駅東1丁には煙突記号と垣根囲いのある工場がポツンと描かれている。元恩地川の対岸の今里には窯記号が複数。そんなに盛んだったところには見えなかったんだがな。古煉瓦は確かにあったけどさ。
浪速煉瓦は1wほど前にも広告が出ていて、そちらには「煉」字のない外枠だけのマークが掲げられている。要するに「煉」が入るかどうかはどっちでもよくて、外枠の形に社章としての重みが置かれていたことがわかる。讃岐煉瓦が松葉菱固定で中を使いまわしたのも同じ。8月25日8面。
そうして至高の問題児・津守煉瓦(株)。疲れがピークに達して生欠伸が噛み殺せなくなっているような段階で見つけたものだから一挙に目が醒めた。どう見ても堺煉瓦ですしかも添印"七”です本当にありが(ry。
この広告をどう解釈すればよいのだろう。この広告だけを根拠にして津守煉瓦=五本線≠六稜星だと鵜呑みにするような純真な心は有していないしM25頃からの鉄道構造物で五本線刻印が頻出する現実ともそぐわない。堺は五本線であって揺るぎなく、その知名度に便乗して津守がブラフを打ったというのが第一説。後に創業主が立ち上げた林土管煉瓦は大阪窯業マークをパクってたりするもんだから、行儀のよくない、グレーゾーンを生き抜いた工場と言われたら納得してしまうと思う(少なくともわたしは)。
第二説は、津守が煉瓦の小売販売もしていて、堺煉瓦製品の取り扱いがあったから「煉瓦の代表的なイメージ」として掲げてみただけというもの。悪気がなかったにしても第一説並みに悪事である(堺煉瓦は社章を商標登録していない。後年でもそう。なので法的には裁かれない)。
第三説は実は堺煉瓦と津守煉瓦の関係が、そういうのを許すようなバックグラウンドのあるものだった---少なくとも設立当初は---という説。津守が分工場を置いた狭山に堺煉瓦も分工場を作っていたりするから、某かの関係があったと見れなくはない。ただ創業者や役員の間に今の所共通点は見いだせない。そういえば製造年度が絞り込める六稜星刻印は少なかったはず。新大阪の近くの跨道橋の橋台に中型が使われていたが多分あれはM31の拡幅部分。それが一番古い。もう一年前はどうだろう? あと漢数字添印の堺煉瓦はM29の山中トンネルとかM28の大手前配水池で見ている。M30より少しあたらしい。
とにもかくにも、まったくいらんことをしてくれたものである。そしていらんものを見つけてしまったものである。
余談だがこの広告の「煉瓦製造」のアイキャッチは西讃煉瓦の広告に使われているものと全く同じだ。このへんは新聞社のほうで勝手に付け足したりしているのかも知れない。
Before...
_ はー [中央上の付箋 古道 此所岩ヨリ岩江丸木を渡漸通■ ■■候処繪図面之通所浚道に相成申候 さっきの■■■も「繪図面」でいいと思います。]
_ multi [うーむ、まだまだ勉強が足らんようですな。 ムリに変体仮名に読もうとしてるようでして。]
_ nagajis [皆様相忝奉存候。おかげさまでかなり正確に把握できそうです。 もともとこの場所には野麦街道近道があって、 その難所を市蔵が改修したわけですが、 旧道を拡幅(地浚・岩切・岩切通)したということで、 縄..]