nagajisの日不定記。
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昭和6、7年の鉄道統計資料ゲットだぜ!とか思っていたら満鉄のだったというオチ。全然補足にならない。昭和57年頃のは無理でも、せめて利用減がはっきり言える辺りの年度のを・・・と思うが、どうするかなぁ。また交通科学博物館へ行くのはむりだなぁ。
本来の目的は山家橋写真。これで存在理由を忘れられた喪われた〜でも書くか。実はおまけで入手したほうの写真のほうが有り難かった。これで3年越しのネタが記事にできる(やっぱり喪われた〜だけどさ)。こっちには現地現状写真もあるし。ついでに市原橋と王子橋も往時の写真も手に入れた。これが元だったのか>日の出新聞
帰りに北山でへんなビルを見つけた。下曲弦プラットトラスがついてる。これがテナントへの通路になっているらしい。
眺めながらナンを食いつついろいろ考えた。スパンは約15m。鉄の梁にしたほうが合理的のような気もするし、ちょっと長過ぎることになる気もする。かといって四角いトラスにするのも大仰だ。パイプの下曲弦トラスなら見た目ほど重くはならないし材料も節約できるだろうから、設計者は熟慮の末にこれを採用したのかも知れないな。
などと善意に解釈した自分が馬鹿だった。
そこを
剛接合にしたら
あかんやん。
せめて円柱部分が可動式とか、そういうのにしてほしかった。確かにこれじゃバブル建築と言われても仕方ない。
一見便利なように見えるが母数がそれなりにあってしかも揃ってないと嘘になる。それが気になってまっとーなことが書けない。欠けてる部分が気になってくる。野又で一息ついたと思ったらまたか。
とりあえず書いておいて折を見て補完してくか。期待されてない原稿だからそういうのもありだろさ。野又に時間取られて再調査行けんかったし。あ。陸橋20尺の件入れてないや。明日明日。
方々にチェック出しするのを忘れている。これも明日。
郡会誌は想定内、情報なし。日露戦役記念誌も新道とは関連がなかった。かわりに奥山田資料集の出所が「宇治田原町資料」(〜昭和53、〜63)とわかる。これをまとめたものがS63の宇治田原町史になるので、以上の情報は掴めないような気がする・・・。資料の中でも散々奥山田新道の資料がないと嘆いている。青木市太郎はいずこや。
あるから使ってるだけで、いつ作られたとか、どういう目的でとか、そんなところに興味持ったりしたことがないんだと思う。あっても「かもしれない」で糸冬了。あるいは他人の言を鵜呑みにして糸冬言舌。
そのうえで眼前の道の酷さには文句を言う。意味なり来歴なりがわかれば「そういうものだ」と知って納得いくだろうに。プゲラしていたことに恥を覚えたりもするかも知れないのに。そうなったところで自分に恩恵はないが、それ以外の状況は変わるんじゃないか。
そのへん鉄道はいいよなー。「いつ」「何のために」が明らかで、追う手立ても整ってるから。誰だって調べようがあるもの。&、当事者になる可能性は限りなく低いもの。
これはっ、索道のワイヤーに蓑虫状態ですね!←動画<br>ORJ謹製、絶叫展望台ですな。