nagajisの日不定記。
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11時過ぎ。なぜか村田鶴三昧の一日。わざわざ滋賀くんだりまで来て下さったKさん、Iさん、ありがとうございました。
話をさせていただいて、つくづく「自分はナニをやりたいんだろ」と思う。物書き志願でもなければ専業ライターでもない謎の立ち位置。どっちを向いてどの方向へ行こうとしているのか。廃道を歩くという行為は手段なのか目的なのか。自由のための必然性を受け入れる自由を備えているのか。とはいえそんな迷走の果て、わからないまま終わる人生もありかも知れないと思ったりもする。アンパンマン以下のnagajis。
何が君の幸せ 何をして喜ぶ
わからないまま終わる そんなのはいやだ
アンパンマン
廃道に対する思考・見方・スタンスを突き詰めていくと哲学的な思考に一致することがある。こういう見方もあるなあと思っていた事が得てして哲学論的であったりしてオオオレテツガクシテルなどと自惚れてみたりも正直したのだが、当たり前だ、哲学は世界や人間の思考を論述しようという学問なのだから。地形図の郵便局記号を見て「これって郵便マークに似てるよね発見した俺スゲー」と言ってるようなもの。
認識論的廃道:廃道はそこにあると認められて初めて道となる。認められなければ存在しないのと同様。
唯我論的廃道:廃道は《私》によって歩かれることで意味付けされる。
弁証法的廃道:廃道を歩く自由を享受するための必然性としての薮とその突破によって齎されるカ☆イ☆カ☆ン=止揚
たいへん生半可である。