nagajisの日不定記。
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見事に術中にはまった気がして悔しい。 「気がする」なんてもんじゃない。
「廃4」の皆さんには申し訳ないが、なんとか昨日のうちにメイン2本を片付けることに成功した。1本じゃアレか、予告もしたし>無理に追加>サイズが中途半端になる>もう一本増やさないといけないという例の悪循環。受付とジスオが手伝ってくれたのでもう一本載せられそうな塩梅だ。
※遊んでいるわけではありません。
昨日中に作らなければならなかったことを思い出して急遽作成する。泣きそうだ。さすがにきっちり作るわけにはいかず、発表内容を箇条書きにしたもの+配布した資料のデータのありかを書いたのをつける程度にする。そのくせ奇数ページである。いいのかこんなので。なくてもいいような気がしてきたな。
現段階で言うことのできる奈良県の近代化の傾向?を書いて+1Pしようかとも思ったが、それは自分の役目じゃないし、出揃ってない段階で有ること無いこと言うと、後で恥ずかしい思いをするに決まってる。やめておく。たぶん物件紹介だけで時間が尽きるだろう。
講演会は20日に(確か)和歌山市市民会館で。詳細はkinas.jpを参照。内容は月報でかいたまんまなので来られる奇特な方は自分以外をあてにされたし。和歌山県の近代化遺産やそれを取り巻く取り組みの話、高砂の産業遺産物件の話が聞けます。
廃道亡いとで摺子発電所の件出さなければ良かったなと今でも思っているいやちゃうなあ、廃1でもう書いてたんだっけ。ただの廃物件だと思われたくないと思ってそれなりに誘導したつもりだったのだが、なあんの役にも立ってないということは元々無力だったというだけだな。
吉野・樫尾の発電所水路も「正式に」筏に乗ったまま流していたことを下市のケーブルテレビ番組の録画で知った。であれば現役で稼働している吉野・樫尾のほうが偉い。摺子発電所に拘る必要はない。長さと幅では上だが。吉野・樫尾の水路は狭かったので通常の半分の幅の筏を組まなければならなかった。摺子はどうだったろう? 落筏路はほとんど同じ幅だったような気もする。
もちろんいいことばかりじゃない。西河の水路橋がどんだけ迷惑をかけたかちゃんと触れておく必要がある。竣工直後に洪水を起こし(かけ)、その補償として五社隧道作るといっときながらウヤムヤにし(おかげで戦前隧道レコードが短くなった)、伊勢湾台風でも材木をひっかけて被害を拡大した。いまはサイフォンになっているけれども、とすると筏流路としては完全に死んでいることになって摺子と変わらない。建屋や内部機構がどれくらい残っているか、それとも残っていないか。そのへんがポイントになりそうだ。
やはり室生も押さえる必要があるな・・・県下最古の発電所なのだし。棟札探したい。
県下の発電関係の歴史は踏まえたので、次は発電技術史?が知りたい。そういうの解説した本はないものか。萩原本嫁か。
奈良県は近代化がなかったのではなく現代化に失敗したのだという説を勢いだけで唱えてみるテスト。紡績工場だって地域向けの小規模発電だってあった。重工業はないにしても種々様々な軽工業が興っていた。それが現代につながっていない。せいぜい靴下産業とか皮革産業とか製薬業が生き残ってるくらいか。あとは伝統産業と呼ばれる分野のものもの。工業化にニアイコールな意味での近代化を必要としなかった産業がかえって生き残っている不思議。そういうものか。
林道の車道転換だって結構早いんだよな。戦前にはもうずいぶん車道化が始まってる。 他所が林鉄に固執している間にトラック輸送に軸足を移し切っていた。なのになぜ差をつけることができなかった? すべては需要低下が原因なのか? 樽使わなくなったからか?
林業については、やはり、バブルにあぐらをかいていたところがあるんじゃないかな。全国どこもそうだろうが。そうはいうけれども林業の近代化ってなんだ。森林鉄道が即近代化というわけでもないだろう。林鉄が絶滅してしまっている現況を考えると、先を見越したものではなく、むしろ時代の徒花だったというべきなのではないか>林鉄。
チェーンソー、集材機の出現が近代化か。システムの効率化か。そこまでいくと現代っぽいけど、そのへんの境界線は年代以外にはないのだよな。
違う、逆か、年代で区切って、その間に起こったことが近代化なのか。だとすればますます近代化なんてなかったなんてあり得なくなってしまうな。
「建造物」だけで近代化を語らせようとするのが無理なのだ>文化庁、とどんどん上のほうへ楯突いてみる。システムの効率化、経済性の洗練(?)、文化的ゆとり(??)、観光産業、なんかは戦前から始まってたはずで、それも考慮に入れないと近代史見えてこないんじゃね? これもそもそも論だが、明治以降のモノが壊され失われていくことを危惧したから始まったんだっけ>近代化遺産総合調査。それに近代史を語らせよう、そこから近代史を知ろうというのは、江戸の町人文化だけで江戸時代を把握しようとするのと同じくらい無理無茶無策であるのではないか。
古いから偉い、はわかりやすい。耳目をひきやすい。技術的に優れている、はヒキになりにくい。なぜならその技術が理解されにくいからだ。技術をわかりやすく面白く説明しさえすれば新しいヒキになる。はず。その橋がトラスでなければならなかった理由。Cアーチでなければならなかった理由。そういうの。
しかし技術の解説はあいまいを許さない。誰にでも理解できて技術的に間違いでない(過不足ない)説明はたいへん難しい。理系脳文系脳があるとも思わないし理系>文系とも思わんのだが、この点に関してだけは理系で良かったと思う。みんな理系であってほしかったと思う。省略できるバックグラウンドがあるのとないのとではずいぶん違うからな。主に説明のラクさが。
そうか。今気づいた。理系(科学)は知識の積み重ねの上に立脚しているので、そういう状態がアタリマエと思っている。四則演算>三角関数>微積分>テンソルみたいな流れに慣れていて、テンソル知っていれば、それ以下は知ってるだろjkで済ますことができる。文系は横の広がりだ。知識を広く広く。あるいは一点に集中してとんがって。自分が知っているからといって他人がそれを知っているとは期待していない。その組み合わせに 答えの 鍵がある。
150を越えた。道路元標と天皇陵参拝道が入り出したので完全に水増しモードになっている。親柱だけ残存ってのも増えた。「悉皆調査なんだから」を免罪符合言葉にして頑張るか。一次リストは量が多ければ多いほどいい。自分がその物件の良さに気づけなくても、誰かが代わって見いだしてくれるだろうから。