nagajisの日不定記。
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大正拾年 県令第三八号土木工事取締 土木課 1-T10-50d 556004014
県令第三十八号ニ依ル土木工事取締一件 1921 1-T6-51 556003649
県令第三十八号ニ依ル土木工事取締一件 1921 1-T6-52 556003650
県令第三十七号ニ依ル土木工事取締一件 1921 1-T6-53 556003652
なんでやねん、とツッコミ2発。bookid=100290565と100290567が一緒なのはどういうわけか。なんで一つだけ37号なのか。
検索の陥穽を躱せ!>nagajis。
軌道申請の理由はブラフじゃなかったようなんだが、ぽしゃった辺りからいろいろダメになったっぽい。当初目的が神童子山材の搬出だったからにはそれが下火になればグッと落ち込むのは道理だろう。
大軌は無視する。
文庫の解説を読むことはあまりないのだが、珍しく読んだこの巻の解説は良かった。 柳田国男はさりげなく娘視点で論を展開していること、それが戦後まもなくの新しい時代に書かれたものであること等々、気づかずにいたこと、そうだと認識しないまま理解していたこと(そう言われてみれば思い当たる節が多々ある。「妹の力」とか)を端的に指摘された。解説は須くかくあるべし、と思わずにいられない。
かつては女性が衣・食を分配する権力があった->嫁を迎えるということは次期権力者を迎えるということ->家の存続繁栄が至上であった時代には特におおごと・慎重にならざるを得なかった->恋愛結婚の抑制という流れなのだな。それが戦後になって家父長制度へ疑義が突きつけられ家による拘束が緩んだ結果、自由恋愛の復権となり、さらにそれがオーバーランしたのが今日だということになる(もちろん間にもう少しいろいろあるはずだけど)。果たして翁はそこまで見抜いただろうか? いやいや、処世の武器として「さかしさ」を授けようとした翁だから、それで万事上手く行くと信じていたに違いない。残念ながらそうはならなかった。
一度も会ったことがない2人が見合い結婚するというようなことは、本来とても稀なことで、知った仲から発展して結婚に至るのが一般民衆にとってのごく普通だった(娘宿・若集宿とかヨバイとか。もっと遡れば歌垣のような積極的な求愛もあった)。それが特に家柄を重んじていた上流階級のやり方に影響され、真似、かぶれていった結果、見合いでなければならない・お偉い仲人がいなければならない・そしてそれが日本古来的、というような意識が広まったと。今は逆にお見合いなんて・・・というイメージがあることだろう。これもまた近代ならではの一過渡現象だったと言えるのかも知れぬ。
思えばKINIASに入って初めて行った見学会が加古川だった。今から5年も前のこと。そこで見たニッケの工場も平木橋もすっかり姿を変えた。感慨が沸かないわけがない。
変わるものは致し方ないので、新たな出会いを喜ぶほうがいい。加古川橋。増田淳設計のPG桁。大正12年竣工。確か増田の設計橋梁でも最初期のものだったように記憶する。
増田淳設計と聞いて俄然特別扱いするのもどうかと思うが、実際そう思ってしまったのだから仕方ない。90年近くも国道2号の交通量を支えてきたのだし。さすがにI鋼で補強が入ってたり、ガーダーの補剛材の根元が腐りかけていたりはするが、大部分は頑健そのものという印象を受けた。この桁から関東大震災の年の空気を嗅ぎ取ることはできない。
この橋も手狭になってきて、じきに架け換えられそうな梅塩。昔だったら他所に持っていって橋に使うことができただろうが、今じゃそれも望み薄だ。できないわけではないが橋として利用することはないだろうと思う。わざわざリベット外して打ち直してなんてしてられないだろうからな、経費的に。記念に一部が保存されるか、形ばかり真似た橋らしくない橋になってしまうんだろう。