nagajisの日不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad
満足した。
今さら思ったのだが、遷都1300年を大々的に祝ってせんと君まで作ったような奈良県なのに、なんで2600年の再評価をしないのだろう。あれはなかったことにしたいのだろうか。もう充分風化しているし、あと100年もしたら日本人の大部分が (1300年も含めて) 「なんで?」と思うに違いない。 歴史の教科書に 「バツが悪いのでなかったことにしました」と書かれるか、それさえも書けずに250年前の明治維新すごいで終わったままかも知れない。んで裏で裏話だとか知られざる真実だとかがまことしやかに風説流布るのだ。「今調べなくてもいいのでは」という言葉は正直落胆した。そういう意識だから100年前の煉瓦の作り方さえわからなくなっているんじゃないか。「耶馬台国は実は○○にあった!」的な本で書架1つが埋め尽くされている現状を、笑って見ている分にはいいが、それが明治大正昭和初期まで対象になったらえらいことになるぜ。
あるいはそうか、ただ経済効果を期待して便乗して祝ったに過ぎないことがバレるのが嫌か。空想の人物の生誕から空想で2600年を数えて国を挙げて祝ったというのも考えてみればとんでもない空騒ぎなのだが、「先を案じて」やったという点では2600年事業のほうが真摯だろう。そんな祭りの後片付けをしないまま次の祭りが始まって終わってせんと君だけが残っている現状も異常と言えば異常である。
そういう「根拠薄弱な空騒ぎ」が奈良県の特色であるのかも知れない。観光で人を呼び続けなければ存続できなかった県ではあるからな。
聞かれてもいないことを口走ってしまう癖はどうにかしたほうがいいぞ>nagajis。道路の項目がないことを聞かれたのであって、別に写真では伝わらないこととか切り通しの年代が確定できないとかいうことは聞かれちゃいない。「あってほしい」の一言で済む話だ。ただ冒頭のwhy-becauseが現場では思い至らなかった。それを踏まえた上で言えば「なくてもよい。かわりに2600年事業と公園入れて」だ。東熊野街道は奈良県全体の特色とは言い難いから。それなら西熊野街道天辻隧道で事足りる。
昭和12年以降の工場通覧は二年前の一ヵ年の調査結果なのだよな。統計書はみな前年の結果なのでぜんぶそのつもりで作ってしまった。この辺は泉南市年報の丸引用だし中間点だから特に大きな影響はないと思うけれど、他県のを作る時は気をつけておかないといけない。その論調でいくと大和煉瓦は昭和13年頃には操業停止。載らなくなった即ち廃止とも限らないけどね。従業員が10人を割っただけかもしれんし。
「T」刻印を東洋煉瓦と推定したのは早急すぎたかも知れない。兵庫には大正煉瓦があり戦前まで操業していた。京都には市街に竹村煉瓦があった。現状淀川以北にしか見つかっていないのならそのどちらかから流入してきた可能性がある。江州煉瓦が茨木まで来ているくらいだからなあ。
東京銀座の煉瓦街を築く時、煉瓦が不足して大阪まで打診が来たらしい。実際に採用されたかどうかは不明だが見本を納入したりはしたようだ。明治初年代ゆえの珍事だろう。
ゆえにいろいろな著書が掲載されつつある。蝸牛考は実はまだ読んだことがなかったが導入が珍しく固くてとっつきにくかった。 むしろ大日本山林会の山間語彙集のほうが興味深く面白く読めた。また今度、もっと精神にゆとりのある時に読もう。
バカアホの境界とか雑煮の中身とかは蝸牛考の頃から進歩してないのだよな。言葉を集めて分類してみて、さてどうするか。境界がわかったよということは確かに面白いけれども、それで国民生活が豊かになるかどうか。民俗学は何を意図した学問なのか(何を意図して始められたのか)を考えてみたくなる。
最初はそうやって、国の隅々で言葉が違い、あるいは同じであることを不思議に思い、取り集めて分類してみようという純粋興味から始まったはず。方言採集が盛んに行なわれ、その結果京を中心とした同心円状に似た言葉が分布している傾向が見えてきたりした。けれども多くは採集しただけで終わった。いつまで経っても集め続けられるか、あるいは全く集まらない空白地域があったり。そこが埋まるまで待っていられなかったり自分が言い出したことゆえ少しは進捗していることを表明するために柳田翁がまとめることもあった集めた結果をどうするのか、何に用いるのかという問題は常に考問題提起として掲げてある。
そうやって地方の違同に気づくことで、日本の隅と隅とで同じ話題を語らい、心置きなく意思疎通ができるようになることを願っているとどこかで読んだ記憶がある。方言の通用するエリアでは腹のうちを方言で言い合えるから問題ない。しかし青森と鹿児島の人間が心の襞までわかりあうためには互いの方言を理解しなければならなかった。あるいは標準語という不恰好な服を着てつき合うか(そんな下手な比喩じゃなかったはずだが思い出せない)。方言採取と分類は前者のための下準備という意味が強かった。しかし標準語教育が思った以上に進んでしまい、まるで標準語じゃなければ日本語じゃない的な世の中になってしまって、方言採取の意義が薄れてしまった。翁の晩年の頃にはすでに、消え行く言葉を残しておくという消極的な目的か、「こんな変な言葉がある」という面白おかしい話のネタとして集められる程度のものになっていた。(確か標準語教育にも噛んでたんじゃなかったっけ。自分で自分の首を締めた格好だが意思疎通の潤滑化という目標は達した)
(方言採取ばかりが民俗学じゃないけれど)民俗学の成立と変化はいろいろな教訓を与えてくれる。廃道にも通じるところがある。行ってどうするの。書いて残してどうするの。「こんなのがあった!」を報告するだけなら誰だってできる。たくさん集めることだってそれはそれで意味があるかも知れない。しかしその先をどうするのか。個々事例から共通項を見つけ出して人間心理に迫るとか何とかしないと一過性で終わっちまうよなあ。と常々思う。だから技術史を横糸にして考えたりするのだけれども、ハナから興味のない人にはよけいな蛇足としか取ってもらえないらしい。