nagajisの日不定記。
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大阪兵庫京都滋賀奈良和歌山の明治大正昭和50年までの全工場を把握した。整理はしていない。
耐火煉瓦も拾っておいたので三文字略とも戦えるかも知れぬ。しかし伊藤窯業があちこちにあってITOが印南の伊藤窯業だという証拠が薄らいでしまった。そこはそれ、現地に近いからでおkにしとこうよ。でないと無理。
生き残った煉瓦工場はすべてコンクリート製品製造業だった瓦製造業になったりしている。耐火煉瓦で生き延びたのは大阪窯業>ヨータイだけだ。キシレンも昭和40年の末からプレキャストコンクリに手を出していた。 瓦もおそらくコンクリート製瓦のほうだろう。丈夫で軽いコンクリート製の瓦がこの時期に普及した。
なかでも播州煉瓦合同は典型的。廃止になった煉瓦工場を引き取り、そこでコンクリートブロックを製造しつつ、煉瓦製造ラインは最後に建てた志方の工場へ持っていった。そうしてその工場でもコンクリート製品を造るようになり、昭和47年頃に煉瓦製造から手を引く。たいへん計画的かつ着実な移行をしている。その志方工場がいまの(株)バンレン。側溝のU字ブロックとか作ってはる会社だ。この名前から逆向きに播州煉瓦合同を想起するのはまず不可能だろう。
昭和20〜30年代に興り、10年ほどで消滅した煉瓦会社が結構ある。奈良の朝日煉瓦とか斎藤煉瓦とか奈良煉瓦とか(斎藤煉瓦は大正9年創業というが「工場通覧」に出てくることはほとんどない。従業員極小の零細企業で忍んでいたのだろう。和歌山の和歌山煉瓦もそんなサブマリンを経て復活している。すぐに消えるけど)。
こういう会社がどんな煉瓦を作ったのか、手成形なのか機械なのか、刻印を使ったのか使わなかったのかは、現段階ではさっぱりわからない。予想を立てるのも難しい。大杉窯業のように昭和40年代まで手成形でやってたところもあるから。
案外辰市の斎藤煉瓦が<S>だったりするのかも知れぬ。シモレンがここまで来ていると考えるよりも妥当じゃないか。
この時期の「工場通覧」を追っていると、昭和30年代の終わりから40年代にかけてC 製品の製造が盛んになってったことがよくわかる。コンクリートブロック製造とかコンクリート間知とか土管とかPC製品とか、いろんなC製品が出現してページを埋め尽くしていく。その増長に対応して煉瓦工場が次々と姿を消していく。哀愁は感じない。それが世界の必然だったのだろうし、逆手に取って生き残った才覚ある工場もあったのだからな。