nagajisの日不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad
昭和35年頃、兵庫県下の煉瓦工場がJIS認定を取得する目的で「産地診断」を受けた。その報告書。当時はマル秘扱いの資料であったらしい。産地診断というのは聞き慣れない言葉だが、要するに産地(この場合は煉瓦製造業者)が生産性や生産効率を高めるために行政機関など第三者に依頼して自身の業務の問題点・改善点を指摘してもらう、という取り組みの模様。何となくだが生産性本部とかが関係してるんじゃないかと勝手に想像している。
この報告書を読むと当時の県下の煉瓦製造業のありようがよくわかる。県下の、といっても大杉窯業など数軒を除いてみな高砂市域の工場だから、旧印南郡のそれだと考えていい。後半の作業工程とか窯温度の測定結果とかはいずれも印南のあれとかこれとかだ。また生産性向上を眼目にしているから、例えば成形作業者がどんな移動をしているから無駄だとか、作業範囲37cm最大67cmだから土を取るとき手伸ばしをせずとも済む工夫を導入すべしとか、燥場に車を押していく際の地面が凸凹なせいで摩擦係数が高くて無駄にエネルギーを消費しているからこれを平にするだけで何キロカロリー節約でき成人の一日摂取カロリーと比較してこれくらいになり過剰労働にならないとか、そういった視点で全作業が検証されている。さすがにワイヤで小引くとか枠ひっくり返すとかいう微細な工程は書かれていないけれども土取りから出荷までの工程がかなり明確に解る。こういうのが知りたかったのだよ。
興味深かったこと
●採土~成形~乾燥、焼成、窯出し~荷造り~出荷のそれぞれの行程が独立した請負制になっていたこと。これは播煉のIさんの証言のとおり。父親が土を取ってきて、こねて、Iさんが成形して、姉と母親が乾燥して、という感じで、家族が捌いた煉瓦の個数に応じて賃金が払われていた。それは要するに家族で作業を(作業工程の一部を)請け負っていたということだ。んで、そんな請負制がどの煉瓦工場でも当たり前になっていた。このような請負制は作業者の都合で作業できてよいように見えるものの、数多く作ることが至上命題になって質は2の次3の次になりやすい。また個人裁量でできるカイゼンしかできないから「作業のスピードアップ」「作業時間の延長」くらいしかできず、結果として労働環境が悪化しやすかった。Iさんも時間が勿体無いからといって立ったままでおかゆを掻き込んだりしてたそうだ。会社がそれを強いたわけではないのだけれども、請負制を取る限り起こり得ることで、そういう無理をせずとも済む環境を会社は整えるべきであった。そんな「各人の名人芸に頼る」ような生産ではJIS指定を受けることは不可能、と報告書は言い切ってる。
●この頃どこの工場でも機械成形機を導入していたようだが、それと平行して手成形も行なわれていた。理由が意外。機械成形煉瓦は品質が悪く、それよりも見た目のよい手整形の煉瓦のほうが消費者に好まれたからだという。機械成形のほうが綺麗にできそうなものなのだが、そうでもなかったようだ。
機械成形煉瓦の質が悪い原因次のように考察されている。粘土を押し出すとき、絞り口に接するところと中央付近とで押し出される速度が違うため、長手方向に弓なりに残留応力が生じ、それを乾燥させたり焼成したりした時に応力が開放される結果煉瓦が反り返ってしまうのではないかと(大阪窯業のアレと同じで平の面を切り出す格好に押し出される成形機械を使っていたようだ。てか、それがデフォルトだったはずだが)。なので絞り口の形状を変えて小口を切るように押し出すよう改良してはどうかとの提案。これは確か「日本煉瓦史」にあった広島の松本煉瓦の機械がそうだったような気がする。改良の結果なんだろうか。
●表3-1と3-2の製造工程(3-2も機械成形となっているが明らかに手抜き)。機械成形はピアノ線2本で切断、できた2個は小板に乗った状態でベルコンで送られ、板ごと台車に乗せ、32個になったら乾燥場へ運び、その状態で一時乾燥、その後長板の上に5個ずつ立てて乾燥させる。手整形の場合は成形時に長板に5個とり、それを乾燥場に運んで以下同。手成形では平を下にして取るから、それを縦に起こして立てていたということがミソ。これもIさんの聞き取りと符合する。翌日ひっくり返して裏っかわを乾燥させ、それから屋外の乾燥場に積み上げて乾燥させたという。&、第一次乾燥のときに煉瓦をひっくり返すのに使う板に刻印が作り付けられていたと聞いた。報告書では打刻のことは書かれていないから、この時期にはすでに打刻をやめてしまったのかも知れないし、ひっくり返す作業に丸め込まれているのかも知れない。型枠に詰める作業のことは書かれているけど小引く作業については特段触れられてないし。
この板が鉄板みたいな薄い板だったらどうだろう。長手の側から差し込んでハネアゲルとあの筋がつくんじゃないか。しかし立てた煉瓦に筋の側に打刻するのは困難だ。二枚使って挟む? 表側はある程度乾いているから触れる? いや、二枚で挟むほうが煉瓦を動かせるな。ということは表と裏で刻印が微妙に違う可能性があるぞ。あとで小島の刻印確認の助。
●I工場とかB工場とか環窯を有していたけれども、ホフマン窯のキモとなる構造がなく、厳密にはホフマン窯ではない、とされていること。外壁沿いのG.L(グランドライン:地表面のことか)に管が通されていて、それで余熱袋に燃焼空気を送って余熱を効率的に行なうのが本式みたいなことが書いてある。しかし日本煉瓦の現存窯も中川煉瓦の図面にもそんな送気管は描かれちょらん。ひょっとしたら大高が発明した改良ホフマン窯の「改良」がそれなんじゃないか。大阪窯業が特許を持ってたから使えなかっただけじゃないか。
また、楕円の端の袋では真っ直ぐなところと比べて熱の回り方が変わるため、窯の外壁側に煙道口があり、房の地下を通って内側の大煙道につながっていた(まっすぐな袋は内壁下部に煙道口があって大煙道につながってた)。そんな地下煙道が詰まってたり、ひどい所では水没してたりしたらしい。また窯が古くてヒビが入ってたところさえあった。そういうところは窯が高温になりにくいから温度調節はやはり職人芸に頼らないといけなくて、そのへんも「報告書」はカイゼンを求めている。
●焼成温度1000〜1100℃で急激に焼き締まる。機械成形煉瓦ではそれより若干低い温度で焼いた。理由は不明だが水分量の違いか?
●窯の中に積み上げる時の積み上げ方も各会社で微妙に違う。地面に近いところに縦長のすき間を開け、上部はよくある井桁積み。中川煉瓦の再現とも違う。もしこれが関西地方で普及してた積み方なら、高さによって二段積み三段積みにが混在することになり、長手につく型の数で会社を推測することは不可能となる。むしろそれは煉瓦の等級が反映されるんじゃないか(上の方にある煉瓦ほどきれいに焼け、下の方ほど生焼けになりやすい。窯温度測定の結果も上高下低の傾向を示してた。んでよく焼けた煉瓦ほど上等になりやすい)。
結局のところ、煉瓦産業は品質管理・生産管理の近代化(現代化)が遅れたため消滅したという言い方ができるのかも知れない。今でも煉瓦を作っている讃岐煉瓦とか松本煉瓦とかはそれに対応したので生き残った。トンネルキルンを採用して半自動で焼成→窯出しするとかね。
『大日本商工録』大正14年版に屋号の掲載がある会社。「吉」を○で囲ったものだったらしい。 現在の行政区でいえば明石市中尾、JR魚住駅の近くに所在してて、兵庫県立図書館から駅2つだから、ついでに足を伸ばしてみることにした。
念のためにと思って図書館で調べてみると、魚住駅は戦後にできた新しい駅で、駅周辺はそれ以降に発展した新興住宅地だということがわかった。大正12年頃の旧版地形図には駅東方の宮ノ前(これは魚住村ではない)と山陽線附近の中尾本村くらいしか集落がなかったようだ。その2箇所を重点的に歩いてみた。
宮ノ前では在所入口の駐車場でさっそく刻印煉瓦を発見した。岸和田煉瓦の古いタイプの刻印(線状の×)だ。しかしこれはJR線由来かも知れない。踏切近くに煉瓦製の逆サイフォンがあって、南西側(海側)の枡しか残っていなかった。その残存枡に使われていた煉瓦に色目がよく似ている。
細い路地が入り組んだ在所の中をほっつき歩いてみると、さすがに古い集落だけあって古煉瓦をよく目にした。大正煉瓦の手成形だったり和田煉瓦の「ワ」だったり。煉瓦積みの腰壁の民家や煉化積みの焼却炉を見かけたりもしたし、中尾へ向かおうとしてJR線を渡った所の民家で古煉瓦を山積みにしているのを見かけたりもした(いずれも手成形で、最後の一つなんかはひどく歪んだものだった)けれども、○吉は見つからずじまい。
送信者 関西地方煉瓦刻印 |
六角形状の囲いの中にYの字が入ったマークは黒崎窯業。近デジ『耐火物年鑑』の広告にある。
別の路地でこんな耐火煉瓦も見つけた。手書きで「YFB」と書かれてある。FBはFire Brickのことだろうが、Yってどこだろう? しかも手書きって。
大字中尾はこんなかんじ。丘陵に挟まれた狭い谷があって、その谷に沿って集落が発展したところらしい。写真はその谷を横断する道(たぶん山陽道)から谷を見下ろしてみたところ。
中尾にも古い民家が見られたし、いくつか古煉瓦を見かけたりしたのだけれども、○吉は無論その他の刻印も見つからなかった。ただ一つ「‥」という刻印らしからぬ刻印が見つかっただけだ。判断材料に乏しく、ドコのだとも推定しづらい、扱いに困る刻印だ。ただし曽根のセンチュリーアミー;大正煉瓦阿弥陀工場跡で同じものを見つけている。
むしろ印象に残ったのは、陶管や陶器の花瓶らしきものがよく転がっていたことだ。墓前に設けられていた花立ても陶管のミニチュアみたいなやつだった。明石窯業は大正6年創業、昭和8年に明石陶管と名前を変えているから、後年は陶管製造がメインだったと思われる。その頃の製品だったりしないだろうか。
ついでながら魚住村には西海製陶合資会社という会社もあった(T10工場通覧に掲載され、 明治40年創業と書かれてあるけれども、出てくるのはこの年度のみ)。あちこちで見た窯業製品の一部はここが作ったものかも知れない。街道沿いには「さいかい」という商店の仕舞屋や西海石材店なんかもあったので、それが関係しているのかも知れない。いずれにせよ中尾本村と関係が深いのは確かそうだ。
中尾で見かけた「なんちゃって土塀」。煉瓦壁を塗り込めにしてある。こういう用途も多かったのだろう---それが解体されて煉瓦転石になるんだろうと思った。奈良の延寿堂も煉瓦塗り込めの土塀だ。
NHKラジオ第一の番組に「ムーンライトシャワー」というのがある。同チャンネルの数ある番組の中で最も謎な番組だと思っている。一応Wikip.にページがある。
イージーリスニングは悪くないし、不定期な放送なので、たまたまその日に当たるとちょっと得した気分になるのだが、Wikip.云うところの「岩崎の一人コント的なトーク」がひどく遣る瀬無い。こんな感じである。
娘(の声色で):「お母さん、頼まれた買い物に行ってきたんだけど、『豚のコカンセツ』売ってなかったわよ」
母(の声色で):「『豚のコカンセツ』? さあ? そんなもの頼んだかしら?」
娘:「だって、買い物メモにそう書いてあったじゃない」
母:「どれどれ……。……ああ、真由美、これは『豚の小間切』って読むのよ
…こんな調子のコントが2、30分繰り返されるのである。ケツの穴のちょっと上のあたり、サルで言えば尻尾の付け根のへんがむず痒くなって仕方ない。