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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1941-12-29 この日を編集

[陸幼日記]十二月二十九日 月曜日 曇

八時半より二時間愛校作業あり。午後は雄健神社参拝、帰省申告等あり、以後は帰省準備なせり。今日は嬉しき日なりき。一方又いそがしき日なりき。


2008-12-29 この日を編集

[独言] 海

海釣りが好きだった父のことを思って海へ行ってきた。それだけ書いておく。

画像の説明
画像の説明
画像の説明


本当は父のことを書いて懺悔しようと思っていたのだが、ここはそういう私事の場ではなかった。どうせ生きなければならないのならうしろめたく小汚く生きていくほうがいい。いまのnagajisの人生は他の大勢の方々に明け渡してあるしな。

[] nagajis meets 廃隧道

画像の説明というわけで(何がというわけでだ)、nagajis meets 廃隧道。一枚の絵葉書との出会いから発見まで12時間という早業であったせいもあり、ちょっと盛り上がりに欠けた感じは否めない。ただ背景を調べていくとなかなか奥が深く、事実核心部分は年越し案件になった。宝塚某所、場合によっては明治隧道。念のために言っておくと福知山線とは関係なく、また昨日の探索である。図書館開いててよかった。

バックナンバーCD#2のおまけ記事にちょうどいいかも知れない。詳細を知りたいひとはCD買ってくださいという卑怯作戦。あ、nagajis目当てで買うやつはいないか。

[廃道巡] いくつかのMnO2

カテゴリ立てて考えることにする。廃道ツアーの件である。

本件のほうのアイデアに煮詰まって、先に別件のほうを固めておこうと思い、一昨日に下見へ行った電車のなかでひとつふたつとアイデアを得た。ふだん乗らない電車に揺られるとアイデアが湧くことがあって有り難い。問題はソレがバスに積めるかどうかだな。マイクロバスならかえって可かも知れぬ。

橋巡りのほうは実際に歩いてみてかなりの確信を得た。これは十分楽しませることができる。問題は毛馬から桜宮橋までどうやって間を持たせるか。あらまほしき場所の水上バスが廃止されていて残念です>大阪市。

大阪市都計は一度目を通しておかなければと思う。府立中ノ島。ついでに市立中央へ行って工事画報コピーやね。

[ORJ] 原稿進んでません

バックナンバーCDの製作にかかったため原稿がちっとも書けていない。次号は間違いなくnagajis原稿減である。喜びたまへ各位。

[] 超簡単・白菜料理

  1. ざく切りにした白菜1/4玉を蓋のできる鍋に入れ、だしの素適宜としょうゆ適宜を入れて火にかける。

以上。弱火にかけて放置しておくといつのまにか出来てしまう。水もいらない(白菜から出る)。だしは少量でOK、あるいはめんつゆ等のだし入りしょうゆだと省略できる。

バリエーションとしては短冊にしたにんじんや油揚げを入れる、とりもも肉を間に入れて煮る、最後に餅を入れるなど。豚バラのような油っぽいものよりはとり肉のほうがおいしくできる。安くあがるしね。

[奇妙なポテンシャル] 番外

画像の説明予てから懸念していた「続きはwebで!」の氾濫、ついに落書き界へも侵出。君は主張があるから法を犯してまで落書きをしたのだろう。だのに核心を他媒体へ委ねて逃れるとは何たる軟弱さ。貴様のようなのは考察にも値しない。モザイクかけてやる。ざまあみろ。

…実は健作とか憲作とかだったりしたら嫌だな。

[奇妙なポテンシャル] #79

画像の説明淀川河川敷の土手にて。いまいち意図が掴み切れない。番人がいるぞという示威であるようには見えず、番人たる何かが描かれていたようでもなく、ましてや隣に番人小屋が建っている訳でもない。主張そのものはよくわかるがそう主張したことによって何の効果を望んだものなのかがわからない。

思い付きで作ったにしては手が込んでいる。写真ではわかりづらいが文字はデカールだ。「法」「棄」の切り抜きステッカーが売られているとは到底思えず(しかもこの色で)、このためにわざわざ製作したであろうことは明白だ。「の」を字下げしている辺りからも何かしらの意気込みがあったことが窺えるし、ライトグリーンにマゼンダという色の組み合わせも絶妙とはいえないまでも無きにしもあらずであろう。が、それらが見事なまでに空回りしていて、具象性相互の軋む響きが聞こえてきそうなほどである。

何故かシドニィ・シェルダン辺りの本のタイトルを連想した。「真夜中顔」みたいな。本当にそんなタイポかは知らないが。

追記:わかったわかった、連想元は「ゲーム達人」だ。

[独言] リモコンが落ちていた

画像の説明「道端にリモコンが落ちてたらどうする?」
「その時が来たら考えるよ」
「そのリモコンの下におチビちゃんたちが隠れてたらどうする?」
「その時が来たら考えるよ」

その時が来るといやなので拾わなかった。

本日のツッコミ(全4件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ nagajis [うまいっすよね、白菜。]

_ ホルモン焼き [宝塚某所?  神戸水道??あれは大正か・・・。]

_ nagajis [駅から歩いて5分ですー。必要とあらばこっそりお教えしますのでご一報を。]


2010-12-29 この日を編集

ないことをしょうめいするのはたいへんだ

多分、道路供用廃止は意味が無い。府県道路線認定の変更とセットになっているのでないと。道路法第18条第2項による橋梁の通行制限は面白いが制限を解除されたという告示はないようだ。んじゃわらかんじゃん。

全部半角にしとけばよかったな。数字コピペで対応できない。


2011-12-29 めっさ片付けたった この日を編集

[独言] (昨日)棚片付けたった

画像の説明

28日の朝になって今日が紙資源の最終日らしいということに気づき,慌てて不要本を処分した.その勢いに乗って懸案だった棚片付けを敢行した.その結果御覧の有様である(断っておくがこれでも片付いている).ここまで片付いたのはnagajis史上初なのではないか.

画像の説明柳田国男棚.私にかかればハードカバーもこの通りのボロになる.函だけどっかいっちゃって,モノに紛れて踏んづけるからな.持ち歩いて繰り返し読んだ文庫本全集第2巻(「雪国の春」収録),第20巻(「地名の話」,「風位考」収録)なども表紙が取れるほどぼろぼろになった.セロテープで杜撰に補修したった.

画像の説明その上2段が峠本棚.学生時代からの蓄積.半分以上内容を忘れているくせに読み返すことが無くなった.勿体無いことだ.最近は『北海道の峠』が追加されたくらいで全然増えていない.あ,コーヒー漬けになってた『兵庫の峠』を300えんで買い直したな.
片付けをした結果『岩手の峠路』や『京・近江の峠』をコピってたのを発見.後者は使い手がある気がするが,いまの自分が喜ぶような近現代の話は少なかったような覚えもある.
文庫本の『街道をゆく』やら『この国のかたち』は収納ケースに入れてよそにやった.『存在と時間』だけ抜き出してこれ見よがしに置いてみたあたりが小物である.ああ内容はちっとも覚えてないさ.『善の研究』ナイナイしたから許してよ.

画像の説明実質的に機能しているのはこちらの2棚.あれやこれやの本の抜刷.主に地誌,報告書,時に○年史,ほか雑多なコピーの束.始めた当初はクリアファイルに入れて整理していたが,だんだんおっつかなくなってきて,最近はフラットファイルを使うようになった.そうして以前のファイルはラベルがヤニで真っ茶色になってしまっていた.いい加減汚いと思うようになったので全部剥がして貼り直したった.どうだすごいだろう(ドヤァ と主張したくなるほどに快挙である.ただし『村田鶴』と『墓』だけはそのままにしてある.8年分の経年劣化を保存しておこうというつもりである.

この棚でも有益資料が塩漬けになっているのを発見した.『大分県交通史』とか偉人伝で使えばよかったのに.矢ノ川峠の絵葉書もここで発見された.何故か和歌山の地形図(プリンタ出力)を挟んでいたレバーファイルの中に紛れていた.熊野街道繋がりのつもりか>昔のnagajis.

聞かれてもいないのに解説を続ける.左棚の上段は参考文献.人とモノの文化史『石垣』,小野田滋『鉄道と煉瓦』,長妻廣至『補助金の社会史』辺りはそこそこ役立ち,また身になっているように思うが,他は若干持て余し気味だ.『昭和の道路史』はまだその時代まで達してないし,K先生に頂いた『土木人物事典』は宝物だし,『日本百名橋』は東寄りだし(大阪人には『大阪の橋』がおすすめ.今でも書店で買えるよ).小林紫郎『隧道工学』は表紙が取れてほつれてしまうほど読んだので今はpdfを読むようにしている.後列に高等土木工学シリーズの『隧道工学』と三浦七郎『橋梁工学』がある.

その他は琴線に触れた読む用の本.大島亮吉と“ワンデー”板倉の紀行文が収録された『日本山岳名著全集5』,『現代紀行文学全集 山岳編上・下』は直接の参考にはなっていないが思想の糧になっているかも知れない.『虚航船団』も裏列に隠されてる.最も重要なもの,『評伝土倉庄三郎』や『こうだに誌』,『日本の近代土木遺産』,廃道本,辞書の類は右棚上段に並べてある.『道路トンネル大観』『林鉄の軌跡』のコピーは左棚の上だ.

下段に詰まっていたゴミのようなやつらも片付けたった.いまは比較的重要な本や喫緊利用予定の資料が収まっている.最近やっと発掘した『くずし字解読辞典』『五體字類 増補机上版』もこの棚だ.ついでに『篆書辞典』と『寄席文字』もこっちへやっとくか.

この棚にあるものの中で最も読んだのは,右棚上の端っこに挟まっている『標準国語便覧』かも知れない.高校の時の参考書だが,毎月この本を範囲にして国語基礎力テストなるものが行なわれていた.必死で覚えたものだ.お陰で国文学史が粗く頭に入っているのは怪我の功名的幸いである.山川出版の日本史の教科書もよう読んだな.今だにこれが歴史観の基線になっていて,読まないと歴史が思い出せない.

幅を効かせていたパソコン関係の書籍も今朝ざっくり片付けてやった.perlとphpとSQLのポケットリファレンスだけ臨戦状態にして,あとは後列に控えてもらっている.

写真で見ると右のラックがひどく歪んでいるように見える.最初は広角で撮ったからだろうと思ったが,そうではなかった.実際これだけ傾いている.ダンガーである.いつもこの棚の前に棚に並行して布団を敷いて寝ている.地震で倒れてきたらまっ先にわかる仕掛けである.

[] 『近衛歩兵第一連隊歴史』

気をよくして『近衛歩兵第一連隊歴史』のコピーを読み直したりしてみたりしている.そうなんだよな,戦がたけなわの頃に徴集され,1年ほどで日露戦争は終わっているのだった.その後M41までいたのは兵役期間の関係だ.

近衛歩兵連隊は第一大隊附属,入営時期からすると沙河会戦,奉天会戦に参加している可能性が高い.補充大隊(増設第二中隊)に入った兵卒はどういう配属をされたんだろうか.花の梅沢旅団に混じってたりしたら面白いのだが.一応砲兵いたみたいなんだが.体格も良かったというし(確か身長180オーバーだったと思う.背が高すぎて国産の自転車が乗れなかったという).

この書,少尉以上の人事異動に関しては詳しいのだけど,実際に戦地でどういう動きをしたのかは能弁でない.なんかページ抜けてるし(コピーし忘れてるし).これだけではよくわからない.『明治三十七八年日露戦史』とか『機密日露戦史』とか読まないとだめなんだと思う.

[廃道本][宣伝] 越前市中央図書館から御礼状

対・公機関は投げっぱなしを覚悟してたので吃驚した.そういうフォーマットがあるみたいだけども,やっぱり礼状がくると嬉しい.そういう自分は礼状を出したことがない非道の極みである.

[廃道本][宣伝] 堀さんに献本

『日本の分水嶺』でお世話になった堀さんに報告がてら献本しにゆく.半ば押しかけたようなものだが快く迎えて下さったうえに秘策を授かってしまった.なるほど,そうするべきなのか.

画像の説明2000年に山と渓谷社から出たこの本,ご存知の方も多いんじゃないだろうか.日本の背骨に相当する稜線「分水嶺」を隅々まで紹介したもので,テーマとして取り上げられたのは書籍史上初のはずである.確か3刷が出るほど売れた.そして間接的に日本山岳会百周年行事へつながっていった.大分水嶺辞典をやってた自分は写真と情報を提供したくらいで何もしちゃいないのだが,初めて本づくりに関わった一冊なので非常に思い出深い.ついでに情報提供者として名前を載せて頂いている.自分の名前が書籍に載った最初は『偉人伝』でも『廃道をゆく』でもなかったりする.

画像の説明ここしばらく品切れ状態が続いていた(一時はAmazonのマーケットプレイスで1まん5せんえんの値がついてたこともあるらしい)が,今年の秋にヤマケイ文庫で再刊されることになったそうで,ついでだから加筆・写真入替するということになり,ウチにもご連絡を頂いた.というのが今年の6月か7月のこと.その時に偉人伝の話をしていたので,無事完成しましたを報告に行ったのだった.

初版第一冊から11年,いつのまにか堀さんの真似事をする身になったが,到底及ぶものではない.堀さんは本来ビジネス書籍を主にしていて,趣味でやってた山歩きの延長で書かれたものだという.それでも売れたというのだから真に力量がないとできないことだ.

しかしながら密度の高さに吃驚していただけた(って変な書き方やな).『偉人伝』の1ページの文字数は今時のふつうの本の1.8ページ分ある計算になるそうだ.それを考えるとお買い得なのかも知れない.内容はさておき.

で,紀伊国屋のWebの検索で「道を拓いた」で検索しても出てこないことも発見された.“”つけても同.著者名で検索してやっと出てくるという(たぶん「偉人伝」なら出てくるとおもう).どういう事だ紀伊国屋.前回檸檬ゴッコをした罰か.

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ TUKA [本棚の前で寝てるのか。危ないなあ・・・。 311、ウチでは最下段の一列残して全部落ちたよ。]

_ nagajis [なんとかしたいんですけどね・・・.壁が石膏ボードだから固定具取り付けられないし,突っ張り棒も使えないし(余計に平行四辺形化してしまう) あ,JIS男はKilroyの要領で隠れてます.]


2013-12-29 この日を編集

[きたく] 六甲

画像の説明

2014-12-29 この日を編集

[][煉瓦] 兵庫県商工労務部『赤煉瓦産地診断報告書』

昭和35年頃、兵庫県下の煉瓦工場がJIS認定を取得する目的で「産地診断」を受けた。その報告書。当時はマル秘扱いの資料であったらしい。産地診断というのは聞き慣れない言葉だが、要するに産地(この場合は煉瓦製造業者)が生産性や生産効率を高めるために行政機関など第三者に依頼して自身の業務の問題点・改善点を指摘してもらう、という取り組みの模様。何となくだが生産性本部とかが関係してるんじゃないかと勝手に想像している。

この報告書を読むと当時の県下の煉瓦製造業のありようがよくわかる。県下の、といっても大杉窯業など数軒を除いてみな高砂市域の工場だから、旧印南郡のそれだと考えていい。後半の作業工程とか窯温度の測定結果とかはいずれも印南のあれとかこれとかだ。また生産性向上を眼目にしているから、例えば成形作業者がどんな移動をしているから無駄だとか、作業範囲37cm最大67cmだから土を取るとき手伸ばしをせずとも済む工夫を導入すべしとか、燥場に車を押していく際の地面が凸凹なせいで摩擦係数が高くて無駄にエネルギーを消費しているからこれを平にするだけで何キロカロリー節約でき成人の一日摂取カロリーと比較してこれくらいになり過剰労働にならないとか、そういった視点で全作業が検証されている。さすがにワイヤで小引くとか枠ひっくり返すとかいう微細な工程は書かれていないけれども土取りから出荷までの工程がかなり明確に解る。こういうのが知りたかったのだよ。

興味深かったこと

●採土~成形~乾燥、焼成、窯出し~荷造り~出荷のそれぞれの行程が独立した請負制になっていたこと。これは播煉のIさんの証言のとおり。父親が土を取ってきて、こねて、Iさんが成形して、姉と母親が乾燥して、という感じで、家族が捌いた煉瓦の個数に応じて賃金が払われていた。それは要するに家族で作業を(作業工程の一部を)請け負っていたということだ。んで、そんな請負制がどの煉瓦工場でも当たり前になっていた。このような請負制は作業者の都合で作業できてよいように見えるものの、数多く作ることが至上命題になって質は2の次3の次になりやすい。また個人裁量でできるカイゼンしかできないから「作業のスピードアップ」「作業時間の延長」くらいしかできず、結果として労働環境が悪化しやすかった。Iさんも時間が勿体無いからといって立ったままでおかゆを掻き込んだりしてたそうだ。会社がそれを強いたわけではないのだけれども、請負制を取る限り起こり得ることで、そういう無理をせずとも済む環境を会社は整えるべきであった。そんな「各人の名人芸に頼る」ような生産ではJIS指定を受けることは不可能、と報告書は言い切ってる。

●この頃どこの工場でも機械成形機を導入していたようだが、それと平行して手成形も行なわれていた。理由が意外。機械成形煉瓦は品質が悪く、それよりも見た目のよい手整形の煉瓦のほうが消費者に好まれたからだという。機械成形のほうが綺麗にできそうなものなのだが、そうでもなかったようだ。
機械成形煉瓦の質が悪い原因次のように考察されている。粘土を押し出すとき、絞り口に接するところと中央付近とで押し出される速度が違うため、長手方向に弓なりに残留応力が生じ、それを乾燥させたり焼成したりした時に応力が開放される結果煉瓦が反り返ってしまうのではないかと(大阪窯業のアレと同じで平の面を切り出す格好に押し出される成形機械を使っていたようだ。てか、それがデフォルトだったはずだが)。なので絞り口の形状を変えて小口を切るように押し出すよう改良してはどうかとの提案。これは確か「日本煉瓦史」にあった広島の松本煉瓦の機械がそうだったような気がする。改良の結果なんだろうか。

●表3-1と3-2の製造工程(3-2も機械成形となっているが明らかに手抜き)。機械成形はピアノ線2本で切断、できた2個は小板に乗った状態でベルコンで送られ、板ごと台車に乗せ、32個になったら乾燥場へ運び、その状態で一時乾燥、その後長板の上に5個ずつ立てて乾燥させる。手整形の場合は成形時に長板に5個とり、それを乾燥場に運んで以下同。手成形では平を下にして取るから、それを縦に起こして立てていたということがミソ。これもIさんの聞き取りと符合する。翌日ひっくり返して裏っかわを乾燥させ、それから屋外の乾燥場に積み上げて乾燥させたという。&、第一次乾燥のときに煉瓦をひっくり返すのに使う板に刻印が作り付けられていたと聞いた。報告書では打刻のことは書かれていないから、この時期にはすでに打刻をやめてしまったのかも知れないし、ひっくり返す作業に丸め込まれているのかも知れない。型枠に詰める作業のことは書かれているけど小引く作業については特段触れられてないし。

この板が鉄板みたいな薄い板だったらどうだろう。長手の側から差し込んでハネアゲルとあの筋がつくんじゃないか。しかし立てた煉瓦に筋の側に打刻するのは困難だ。二枚使って挟む? 表側はある程度乾いているから触れる? いや、二枚で挟むほうが煉瓦を動かせるな。ということは表と裏で刻印が微妙に違う可能性があるぞ。あとで小島の刻印確認の助。

●I工場とかB工場とか環窯を有していたけれども、ホフマン窯のキモとなる構造がなく、厳密にはホフマン窯ではない、とされていること。外壁沿いのG.L(グランドライン:地表面のことか)に管が通されていて、それで余熱袋に燃焼空気を送って余熱を効率的に行なうのが本式みたいなことが書いてある。しかし日本煉瓦の現存窯も中川煉瓦の図面にもそんな送気管は描かれちょらん。ひょっとしたら大高が発明した改良ホフマン窯の「改良」がそれなんじゃないか。大阪窯業が特許を持ってたから使えなかっただけじゃないか。

また、楕円の端の袋では真っ直ぐなところと比べて熱の回り方が変わるため、窯の外壁側に煙道口があり、房の地下を通って内側の大煙道につながっていた(まっすぐな袋は内壁下部に煙道口があって大煙道につながってた)。そんな地下煙道が詰まってたり、ひどい所では水没してたりしたらしい。また窯が古くてヒビが入ってたところさえあった。そういうところは窯が高温になりにくいから温度調節はやはり職人芸に頼らないといけなくて、そのへんも「報告書」はカイゼンを求めている。

●焼成温度1000〜1100℃で急激に焼き締まる。機械成形煉瓦ではそれより若干低い温度で焼いた。理由は不明だが水分量の違いか?

●窯の中に積み上げる時の積み上げ方も各会社で微妙に違う。地面に近いところに縦長のすき間を開け、上部はよくある井桁積み。中川煉瓦の再現とも違う。もしこれが関西地方で普及してた積み方なら、高さによって二段積み三段積みにが混在することになり、長手につく型の数で会社を推測することは不可能となる。むしろそれは煉瓦の等級が反映されるんじゃないか(上の方にある煉瓦ほどきれいに焼け、下の方ほど生焼けになりやすい。窯温度測定の結果も上高下低の傾向を示してた。んでよく焼けた煉瓦ほど上等になりやすい)。


結局のところ、煉瓦産業は品質管理・生産管理の近代化(現代化)が遅れたため消滅したという言い方ができるのかも知れない。今でも煉瓦を作っている讃岐煉瓦とか松本煉瓦とかはそれに対応したので生き残った。トンネルキルンを採用して半自動で焼成→窯出しするとかね。

[煉瓦工場] 明石窯業株式会社@明石郡魚住村中尾

『大日本商工録』大正14年版に屋号の掲載がある会社。「吉」を○で囲ったものだったらしい。 現在の行政区でいえば明石市中尾、JR魚住駅の近くに所在してて、兵庫県立図書館から駅2つだから、ついでに足を伸ばしてみることにした。

念のためにと思って図書館で調べてみると、魚住駅は戦後にできた新しい駅で、駅周辺はそれ以降に発展した新興住宅地だということがわかった。大正12年頃の旧版地形図には駅東方の宮ノ前(これは魚住村ではない)と山陽線附近の中尾本村くらいしか集落がなかったようだ。その2箇所を重点的に歩いてみた。

画像の説明

画像の説明宮ノ前では在所入口の駐車場でさっそく刻印煉瓦を発見した。岸和田煉瓦の古いタイプの刻印(線状の×)だ。しかしこれはJR線由来かも知れない。踏切近くに煉瓦製の逆サイフォンがあって、南西側(海側)の枡しか残っていなかった。その残存枡に使われていた煉瓦に色目がよく似ている。

画像の説明 画像の説明

細い路地が入り組んだ在所の中をほっつき歩いてみると、さすがに古い集落だけあって古煉瓦をよく目にした。大正煉瓦の手成形だったり和田煉瓦の「ワ」だったり。煉瓦積みの腰壁の民家や煉化積みの焼却炉を見かけたりもしたし、中尾へ向かおうとしてJR線を渡った所の民家で古煉瓦を山積みにしているのを見かけたりもした(いずれも手成形で、最後の一つなんかはひどく歪んだものだった)けれども、○吉は見つからずじまい。

画像の説明

送信者 関西地方煉瓦刻印
明石窯業とは関係ないが、ポーチに耐火煉瓦を敷き詰めた家があった。山陽の伊保駅近くで見た耐火煉瓦製の内科建物に見られるやつとほぼ同じラインナップ。出処が一緒だったりするのだろうか?

画像の説明

六角形状の囲いの中にYの字が入ったマークは黒崎窯業。近デジ『耐火物年鑑』の広告にある。

画像の説明

別の路地でこんな耐火煉瓦も見つけた。手書きで「YFB」と書かれてある。FBはFire Brickのことだろうが、Yってどこだろう? しかも手書きって。

画像の説明大字中尾はこんなかんじ。丘陵に挟まれた狭い谷があって、その谷に沿って集落が発展したところらしい。写真はその谷を横断する道(たぶん山陽道)から谷を見下ろしてみたところ。

中尾にも古い民家が見られたし、いくつか古煉瓦を見かけたりしたのだけれども、○吉は無論その他の刻印も見つからなかった。ただ一つ「‥」という刻印らしからぬ刻印が見つかっただけだ。判断材料に乏しく、ドコのだとも推定しづらい、扱いに困る刻印だ。ただし曽根のセンチュリーアミー;大正煉瓦阿弥陀工場跡で同じものを見つけている。

画像の説明

むしろ印象に残ったのは、陶管や陶器の花瓶らしきものがよく転がっていたことだ。墓前に設けられていた花立ても陶管のミニチュアみたいなやつだった。明石窯業は大正6年創業、昭和8年に明石陶管と名前を変えているから、後年は陶管製造がメインだったと思われる。その頃の製品だったりしないだろうか。

ついでながら魚住村には西海製陶合資会社という会社もあった(T10工場通覧に掲載され、 明治40年創業と書かれてあるけれども、出てくるのはこの年度のみ)。あちこちで見た窯業製品の一部はここが作ったものかも知れない。街道沿いには「さいかい」という商店の仕舞屋や西海石材店なんかもあったので、それが関係しているのかも知れない。いずれにせよ中尾本村と関係が深いのは確かそうだ。

画像の説明中尾で見かけた「なんちゃって土塀」。煉瓦壁を塗り込めにしてある。こういう用途も多かったのだろう---それが解体されて煉瓦転石になるんだろうと思った。奈良の延寿堂も煉瓦塗り込めの土塀だ。

[奇妙なポテンシャル] #面倒

NHKラジオ第一の番組に「ムーンライトシャワー」というのがある。同チャンネルの数ある番組の中で最も謎な番組だと思っている。一応Wikip.にページがある。

イージーリスニングは悪くないし、不定期な放送なので、たまたまその日に当たるとちょっと得した気分になるのだが、Wikip.云うところの「岩崎の一人コント的なトーク」がひどく遣る瀬無い。こんな感じである。

娘(の声色で):「お母さん、頼まれた買い物に行ってきたんだけど、『豚のコカンセツ』売ってなかったわよ」

母(の声色で):「『豚のコカンセツ』? さあ? そんなもの頼んだかしら?」

娘:「だって、買い物メモにそう書いてあったじゃない」

母:「どれどれ……。……ああ、真由美、これは『豚の小間切』って読むのよ

…こんな調子のコントが2、30分繰り返されるのである。ケツの穴のちょっと上のあたり、サルで言えば尻尾の付け根のへんがむず痒くなって仕方ない。


2017-12-29 この日を編集

[独言] 膝がいてえ

まだいてえ。

[煉瓦工場] 旧周辺

工場通覧のテキスト化とExcel集計を終え、熊本、長崎、佐賀の統計書から拾い集めつつある。長崎の明治20・21年の統計書には西彼杵郡に無数の極小工場が載っていて翌年には消える。長崎には識別印的雑刻印が多い印象があるが(慶応の構造物にもあるやつ)その末羅片鱗を伺ったような思いがした。

熊本は自助株式会社の工場が興味深い。会社自体はM14設立で29-30頃に二つの工場があった。鉄道建設に関係するものだろうか。佐賀も唐津鉄道の会社と並んで煉瓦工場が出現する(北多久村・南多久村)。そういや馬神隧道もこのへんだったっけ。

[独言] ?

福岡県統計書. 明治26年。石橋業愛会社の職種欄に「?」とある。自分の知る限り「?」記号をいまの意味で使った最初期の例。発行は明治28年。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/808006/129


2018-12-29 この日を編集

[独言] 実印みつかる

別件でどうしても実印が必要となる事態に陥ってしまい、焦る頭で記憶をまさぐってみると、確か昨年の今頃に年末調整の提出物に押すため持ち出した気がする、と思い至った。ならばあのコートの中だろうかと引っ張り出してみれば備後であった。この件はなんというオチもなく解決。しかしそれに引き続くあれやこれやで年末年始をモヤモヤとして過ごさねばらならないのがつらい。せめて部屋くらいは片付けてスッキリと年を越したいものである。

30は図書館に行く気に傾いている。年末年始は寒波らしいから家で過ごすべく資料を溜め込みにいくのである。

[D] 12/28

起きた直後は夢を見たような気もしなかったのだが、働いているうちに不意に内容を思い出した。台風で吹っ飛んでビニールシート被せただけ・ままになっている天井をようやく修理してくれるという夢。青いシート越しに職人さんがワサワサやっているのを下から見上げているシーンであった。そうして現実には修理される気配もない。年を越すだろうという予想は的中する可能性大。

[煉瓦工場] 東京府統計書+日本帝国興業要覧

東京府統計書は結構妙な作りになっている。M16・M17は所在町村までちゃんと書いてくれているのにその後数年間住所記載がなくなってしまう。そうしてM16は固有名詞がなく煉化工場とあるだけ。M17の固有名詞+住所の工場をM16掲載工場に名寄せするのが困難。豊島村?のものは資本金額で突き合わせられたがもう一方の村のはわからずじまいだ。その後すぐに消えてしまうが、どうも廃業ではなくサブマリンになっているだけのようで、M22の日本帝国興業要覧の煉化生産者名一覧に引っかかってきたりM35工場通覧に引っかかったりしてくる。データ点数が多い/古い割にびしっとキマらないのはとてももやもやする。

日本帝国興業要覧は結構適当な作りで、名寄せすればするほど信頼性が落ちていく。特に東京府以外の工場。南岩手郡には狐森村が存在しないし松戸駅は千葉県だし三戸郡は二戸郡だし。東北諸県に工場が散っているのは日本鉄道の建設と関係があったりするんだろうかと思ったりしたが青森はちょっと早すぎるかも知れぬ。

それよりも監獄内製造所がいくつも出てくるのが意外なような当然のようなで興味深い。水戸上市の茨城監獄、青森の青森監獄、岩手盛岡監獄、と矢継ぎ早に並んでいる。業として製造をやっていたのは他にも小菅や堺や膳所や堀江とか。京都も蹴上の疏水事務所工場を買い取って囚人煉瓦を作ろうとした痕跡がある。小菅巣鴨の前身・小石川石川島も「石監」の印を使って煉瓦を作っていた。監獄で煉瓦を作るのは朝飯に卵かけご飯を喰うくらいの茶飯事だったようだ。

煉瓦製造は単純作業の繰り返しだし結構力を要したし刃物類を使うことがなかったので囚人就労にはうってつけだったのだろう。逆に民間企業の煉瓦製造がどれだけ大変なものだったかが囚人多用のことから推し量られるかも知れぬ。

本日のツッコミ(全7件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ nagajis [2018.11.2の記事は入力中のテキストを保存したもので、まだまだ 未完成な状態です……。もう少しお待ちいただけましたらExcelで整理したものを公開できると思います。 最終的には(中部以西の工..]

_ nagajis [私も、煉瓦工場にかぎらず、過去に存在した工場のデータベースがあると、近代史や技術史の研究に役立つのになあと思っています。TPPがらみで著作権保護期間が延長になったため、国立国会図書館デジタルコレク..]

_ スマホライターM [いろいろとありがとうございます。 このブログの隅々まで目が行き届かず、追々拝見させて頂きます。 そこで、サイトのデータを利用させて頂くのをご了解頂けないでしょうか? 実は、1軒発見というか、昨日..]


2019-12-29 この日を編集

[][煉瓦] "B&B" 日本→アメリカの煉瓦輸出

意外なことに、1875年(明治8)にはアメリア宛の煉瓦輸出が行なわれていたそうである。しかも価格の安さと品質の良さが評価され「世界を席巻できる」と評されていたそうだ(p.47 出典:"Scientific America"(1875))。20%の関税がかかっていてもなお太刀打ちできるような良製品を、明治8年という最初期に作れていたというのはまったく予想外のことである。残念ながら産地や使用先はわからない。

↑はサンフランシスコ宛の輸出だったが、1889年(明治22)にもワシントン州Puget Sound(ピュージェット湾)宛に煉瓦が輸出されている。1888年4月13日に4万トン、1889年に97211トン、1890年にも99900トンの煉瓦輸入が、横浜港からPuget Sound custom distinctあてにあった(custom districtちうのがはっきりわからなかったけど、湾の商圏みたいなものだろうか?)。そうしてスポケーンからセントルイスまで鉄道で運んだ記録があり「現地の煉瓦製造者ではおそらく作れない」プレス成形煉瓦であったところが買われたようである。1889年の2月3月には兵庫から耐火煉瓦が約30万トンずつ運ばれている。以上トンはlong ton。1016.0469088 キログラム。

カナダ領事館から日本の煉瓦買いたしの照会があったのは1888年10月のことなので、春に買われたやつが好評なのを聞きつけて、という流れなのかも知れない。カナダからは木材を送り、その帰り荷に煉瓦を積んで帰るという計画。実際にどうなったかは不明。バンクーバーはピュージェット湾の北辺にある。

[][煉瓦] "B&B" アメリカの煉瓦規格

煉瓦サイズを測定することで考古学的に役立つ情報を得られないだろうか、と考えるのは古今東西に共通する発想であったらしく、かつそれがうまくいかない気味なのも同左であるらしい。B&Bには「それが科学的っぽいから」測定されるけれど・・・みたいなことまで書かれてある。

19th~20th centuryのアメリカの場合、1886年にNational Brick Manufacturers Association(NBMA)が煉瓦サイズの調査をしてcommon sizeとして8-1/4x4x2-1/4inchというのを採用した。これは普通煉瓦のサイズ。1889年にはFace Brick(表張りの化粧煉瓦)について8-3/8x4x2-3/8inchを採用、さらにRoman BrickやNorman Brick、Pave Brick(舗装用煉瓦)なんかにも規格ができ、はたまた化粧張り煉瓦の協会ができて独自規格を作ったり、其れに対してNBMAが新規格を作ったり。とにかく規格が乱立してわけわからんことになっている模様。結局のところ製造された煉瓦の大きさは、その煉瓦を製造した工場がどの協会・組合に所属しているかによって違い、なおかつ規格に拘束力がなかったものだから、規格などあって無きが如しであった感がする。例えば1922年、United States brickyardsの調査によれば、39とか36とかのサイズが存在したらしい。これではサイズを何かの指標にしようというような気が削がれるというものだ。

日本の場合は一寸違うかも知れない。煉瓦という概念がほとんどなかったところへ煉瓦製造技術が輸入され、センチとかインチとかの単位を尺寸に読み替えて作らねばならなかったので、最初に採用したサイズ、あるいはある時に規格として示されたサイズを金科玉条的に作り続けたんではないかと思う(その結果がM39の大高表の5種類)。むろん例外はあっただろうけれども、アメリカに比べたらまだ絞られておる。そんなだから、煉瓦寸法の追求が煉瓦製造技術の伝播経路を跡付けすることに繋がりそうな気がしている。


2022-12-29 この日を編集

[きたく] 御所田川暗渠 MM12.2.

画像の説明

自分のプロットの正確さに我ながら感心した。

そうか、廃止区間に残る唯一のオリジナルなんだな。谷口村暗渠はM20に作り直されてる。


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