nagajisの日不定記。
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「Pokémon GO」が日本でも解禁になり、案の定な騒ぎなので、便乗して「Jisüo GO」とか考えてニヤニヤしている。意味もわからずウムラウトをつけてある辺りにパチもん臭がプンプンするのがまずいい。阿久さんて牛。
・屋外のどこかにジスオがいる。
・生きづらい行きづらいところにはレアなジスオがいる。廃道の終点とか廃隧道の奥とか。
・見つけたら石を投げて倒す。
・倒したら草が生える。
ただそれだけのゲームである。ジスオだから捕まえても仕様がない。養う金なぞ無い。倒すことによってポイントが溜まったりするような特典はつけないほうがいいな。ジスオ狩り代行とか商売が起こりそうで気に食わない。
そうしてレアなジスオスッポトは電波圏外という嫌がらせをする。GPS座標に紐付けすりゃいいだけなんだから原理的には可能だろ。
「Bríck GO」でもいいぞ。
・屋外のどこかに刻印煉瓦がある。
・レアなやつだったら拾う。そうでなかったら記録する。
・1外出につき5個が限界。
・たくさん集めて自慢する。
いやそれ、スマホ必要ないから。近づいたら振動するとかだったら便利かも知らんが。
書いたものを通して自己の思想とか、その言葉が大げさに過ぎるなら「考え」でも別段構わないけれど、を表明するために書いてるのであって、それが共感を得られるか、はまた別の話なんではないか。認められることを望んで書いたものが認められたところでそれは自己正当化の謀略が成功しただけちゃうんか。例えばの話、自分の経験を題材にして人間の醜さを深く掘り下げてものしたところで「あるある」と認められたとしたら、自分の醜さが意外と誰にもある普遍的な醜さだと認められたことになって、自分は少し救われるかも知れぬ。が、そのために書いてるんだったら何だかなあだ。こういう人間を認めてよという認知の押し付け。エンターテインメントとして描いた極悪な人間像が人気を博せば「ワルでいいんだ」ってなる。その繰り返しがワルを実在させる。筒井御大がいってた「虚構が現実を侵略する」ってのはそういうことなんじゃなかろうか。
自分は自分を善き人間とは思っていないので他人にもそう認めてもらいたくはない。自分の思想はどうでもよい。ただ発掘してきた事実とか第三者の生き様とかは伝承しておきたいと思う。そこに自分の思想が混じって絡まってくる(取捨選択した時点でそうだし書くという行為の本質からして自己の思想から離れることはできないに違いない)故におかしくなるのだ。それがわかっていながら切り分けられないところにnagajisの救いようのなさの根源がある。自己を否定しながら書き続けて何のために。疲れて眠るためか。それもマタハリだなあ。
阿久さんて悠
でも全然構わないのだった。
アブサンをキュー
とか。だんだん山号寺号みたいになってきたな。清子さん水前寺。
パチモン:「パチッとモンスター」の略。モンスターを描いた駒で行なう将棋に似たゲーム。あるいはジップロックの袋で捕獲するゲーム。不思議と叩き潰すというのが浮かんでこないのは根が小心者だからだろう。潰したら可哀想やん。片付けが大変やん。体液とか粘液とか。