nagajisの日不定記。
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りん時外出しキツジ〔吉次〕峠をこえ河内に出て百貫石に出ず二時半より十七時まで、実に十五里に及びたり。きつきこと此の上なく、あとに三里は歩くこと能わず。河内のあたりはみかん畑二三里つゞく。命日井の行事にふさわし。又よくも昔の人みかんの木を植え、手入れしたるものかな。
〔欄外朱:よき鍛錬なりき〕
〔nagajis:「命日井」は心許無し〕
父の命日。
部長殿の御注意に曰く、白梅の如く高貴なれ。と。誠にヽ我等一層自覚せざるべからず。
月例身体検査
身長 一・六三七米 胸囲 八一・五糎
体重 五二・〇瓩 呼差 五・〇糎
未だヽ不充分なり。体格良ければ術科をなすに当り何事も進歩向上するなり。此の点我は不可なり。之れ自覚して努むべし。
学班切磋会をなし、剣術大会を論じて後三学班の欠点たる「元気無し」とに付き口論す。要するに唯底力ある声を出し態度を厳正にするにあり。
しかし今日は頭が痛いので明日にさせていただきます(莫。MLのほうも>ごめんお二人
昨日で生活時間をリセットするつもりが失敗。2時間も眠れなかった。この不規則な生活が、というよりも人間の生活リズムが25時間周期らしいことが嫌だ。なぜ24でないのか。人間生理に従って暮らせば必ず不規則になるというあり得ないテーゼ。かといって人間をやめて明日から石になることもできぬ。貝になるのはたやすいけれども。
こういう頭の痛い時は何を考えてもネガティブになっていけない。例えばこの下に出てくる「リンク元」。「謝罪文」「書き方」でこの部録"がヒットしているらしくてしかもその検索ワードでここに至っている人が複数いてはるらしい。確かに(公式には)謝罪文しか載ってないような場所ではあるが、それはまあともかくとして、まともに謝罪文が書けた例のない自分にとってみればこれ以上にない皮肉である。そのうえ来た人には全く益にもならない隧道話だの一人で盛り上がっているCDだのの話ばかりが上に来ている。せめて過去の中学生以下作文が上にくればいいのに。そうすれば反面教師くらいには役に立つだろうにと自虐的になってみたりもする。そもそもあれ自体が自分を貶すために書いたものだ。
そのうち実はこれは仕組まれた罠なんじゃないかと思うようになってくる。余りに数が多くしかも毎度毎度のことだから何処からかrefererを偽装して飛んでくるbotがいるに違いない、そうに違いないのだそうやってnagajisを貶しめ真棉でじわじわと首を締めるような真似をしている輩がいるに違いないのだけけ怪しからぬのだとありもしない第三者へ矛先は向けられ出す。
そうかと思えば現実から目を背けて架空の世界に身を置き出す。いくらrefererが偽装可能とはいえyahooばかりなのはおかしい。おれならばgoogleとかlycosとかgooとかseek.jpとか適当に混ぜてもっと徹底的にするだろう(かどうかは実際にやったことがないからな)。やはりこれは日本人口1億6千万人のうちの0コンマ何%の人間はつねに謝罪文の書き方を知る必要に追われていてさらにその0コンマ000何%の人物が非日常的火急的速やかに書かねばならぬ焦りからIEデフォルトのYahooを使った上でこんな瑣末なサイトにまで訪れてしまっているのだ可哀想なのだいわば彼らは自分の仲間なのだと終いには他者に同情すると見せかけた嫌らしい攻撃までし始める始末だ。
結局、根本に立ち帰るのはいつも最後になる。悪い癖だと思う。実際にクリックしてみたが検索結果一覧にココが出て来なかった。あれおかしいなとキーワードに「ORJ」を加えてみたら、確かにあった。本文中にもあるにはあるのだが、どうもyahooの検索が「リンク元」のリンクの中にあるエンコードされたクエリーとしての「謝罪文」という文字を拾っているらしいのだった。つまりは無限ループしているのだ。こことyahooとで。
おそるべしインターネット。おそるべしblog。たった一度の悪行(というときっと語弊があるが今は無視する)も決して逃さないのか。天網恢恢疎にしてして漏らさずとはまさにこのことではないか。web2.0どころの話じゃないし接してなどと書きそうになった自分がさらに情けない。
そうしてここに書いてしまった以上、無限ループはさらに激しく回り続けることになるのであった。回れ回れ。回って回ってバターか円ひろしにでもなってしまえ。
そういう訳でいま猛烈に頭が痛い。後で消すからな。くそ。
@15日PM10:32
@15日PM11:35
KINIAS経由で案内をもらってて,確か明日だよなと再確認したら,午後6時30分から8時30分迄という奇妙な時間帯だった.そのほうが一般の方も参加しやすいのだろうか.寝過ごすことはないと思うので参加してみようと思う.大阪公会堂3階会議室にて.
えっと,どこでだっけか(爆
場所:京都私学会館2F (京都市下京区室町高辻上ル山王町566)
時間:午後1時〜5時
冷やかしのつもりだったけれどもアレとかコレとか依頼しておこうかしらん.少し慌てないといけないけどな.
原稿で忙しいから書かないっていうのを真に受けた自分が馬鹿だったというだけだ.
発行直前になって次号予告を作り忘れていることに気づき,慌てて思いついた新淀川新橋を入れてみたけれども,そういやTRDBを連作にするつもりだったんだよな.しばらくは細いのを多めに書くことにしようと思っている.大きなネタはないし.
Defragはやっぱり中途半端なまんまになった.埋草的実験記事なので評価はいらない.使い途のない写真を使うという以外に,全体を通して何かテーマなり構成なりを考えられたら,もう少し興味深いものになったんじゃないかと思う.けれどもそんな第二軸を思いつくことができなかった.最初は説明的な説明文章で始めて,それがだんだん壊れていくとか時制が変わっていくとか暴走し始めるとかいう細工をしてみたかった.2004で終わっているのもそのせいだというのが正直なところ.無論そればっかりじゃない.2005年以降は写真量が激増するから選択が難しいし,必然的にORJを始める前後の話をしなければならず,愚痴ばかりになりそうな予感がしたからだった.記事に使わなかった写真で裏話的なことを書けばそれなりに意味がつくだろうが,そうする前に愚痴になりそうだと.や,書いたわけじゃないけれど,想像したら真っ先にそんな姿を想像してしまった.そういう時はどう頑張ってもそうなる.
結局のところ「写真供養」でしかなくなったわけだが,全く無駄というわけでもない.いろいろ思い出したし,再訪したいところがあったのも思い出した.予定通り行くことができたら入れ込む.但馬と絡めて行くか.今年は暖冬であってほしい.
新淀川新橋を夢幻にして,旧橋は別に入れ込むかな.龍ノ渡井.いやいや,CEHも書きかけだった.
「偉人伝」の宣伝は改めてここに書く.今回は紙面で広告する気になれなかった.書くんならちゃんと書いとかないと.あ,いけね,補足ページ作りかけだ.さっさと作っておこう.動画と,後に入手した絵葉書と,使用写真のpdfと...
ずいぶん前に掲げていたやつのもう一枚.上の駅.何だかよくわからない白い粘性物質がついているのが惜しまれるが,所詮100えんなのだから仕方ない.あちこちで絵葉書を探すようになって,朝熊山とか比叡とか摩耶山とかは山のように見かけたけれども,能勢妙見ケーブルのは未だにこの2枚しか見つけられない.そういえば愛宕ケーブルも見たことがないな.
今は伊香保ケーブルの陸橋が写ったやつがほしい.ケーブルを集めたいというわけではなく,このケーブルカーの橋に用がある.
ようは廃隧道ェ・・・と書こうと思っただけだ.ないかも知れないが.栃原にも行ってみたい.
川辺なので風が止まないことが判明。ペットボトルで風よけを作るとかなんとかしないと無理。あとまだ紅葉してない。駅近くは見頃だったのに。なんでだろう。温泉のせいで水が温いのか。日が差さないから寒暖差が生じないのか。
18時を回ったころにすべてを終えてトップページも確認したところで503祭が始まった。そんなに慌てなくても廃隧道pdfは逃げやしないのに、といつも思う。転送量の約8割はアレだからなおさら勿体無いのだが痛くも痒くもないので放置している。そんな暇があったら落ちてるゴミを拾うか頭の上の蝿を追えばよいのにね。
隠し持っていた文庫本をごにょごにょして読み始めた。一時期こればかり繰り返し読んでいたことがあったから懐かしくてたまらない。ビッチバードのコンパス。 異常色欲の糊。ただ数を数えるだけの存在であるナンバリング。ナルシストな赤インク。大なり小なり自分の性癖と通じるところがあって、それを拡大して見せつけられているような感覚に囚われ、しかしそれをニヤニヤしながら読んでしまった自分をふと思い出して、おどりゃ今自分を嘲笑っただろと思う。読むことで自己を客観視し、要らない部分をそぎ落とし、切り捨てることができる。これほど身になった本は他にない。
第二章の鼬史にさしかかるとがくんとスピードが落ちる。やはり自分は生き物よりもモノのほうに感情移入しやすい質のようだ。
初めて読んだ文庫本は引っ越しの時に後輩が引き取ってくれた。その後古本屋で投げ売りされていた単行本を入手したよなあ。これで三冊目だ。アホだ。
と書いて思い出した。単行本はまだ手元にあったのだった。箱付き傷み汚れありだが初版第一刷な単行本が。ダボが。
サンデルせんせの「これからの正義の話をしよう」を読んでいる。完全に理解できてるとは思えないし今更感たっぷりなので[読]タグつけまいとしたのだが読んでる事実は確かだしなと思い直して[読]に入れた。
世の中には様々な主張があり其々の立場から物事の正否を論じている。どれが絶対的に正しいということは言えない。主張の正否があるわけではない。そこに正否とか優劣とかを見出そうとしてしまうのが(絶対的な正しい事があると思ってしまうことが)間違い。主張と主張が小競り合って、優勢になったり劣勢になったりして、そこからまた新しい、より多くに受け入れられる主張が生まれたりする。それを果てしなく繰り返している世界。そこで生き残る?ために必要なことは結局のところ自分自身の確固たる意見、揺るがない信念、あの人はああ言っているが自分はそうは思わないと打算なく言えること、なんだろうなと思った。だからよその国では自己を主張することというか旗色を鮮明ならしめること立場を主張することが確立してるんだろう。単に主張するのではくてその相剋に意味があることを知っているんだろう。
私たちはそこが弱い。例えばテレビの言っていることを鵜呑みにすること。テレビでやってたから正しいのだと思い、こぞってバナナを買ったりキムチに走ったりすること。メディアで取り上げられたからといって有難がること。本に書かれていることを毫も誤りのないことと信じて疑わないこと。そういう傾向を感じる。優劣だけで判断したり、断じた発言・文章に付和雷同する傾向。そういう意見・ものの見方があると知って自分の考えと擦り合わせてみたり一致する点や相違する点を考えてみたり論を戦わせたりすることが真に必要なのではないか、というのを今更のように考えている。国会の論戦を見て、不毛な茶番劇をやっていると感じるのではなく、そうやっていることの意味というか、何故不毛と思うのか、だったらどうすればよいかを考えてみる、そんなふうな習慣になっていない。だからますます茶番に見える悪循環。メディアは答えを提示しているのではくあくまで事象の一側面を伝えているに過ぎず、それをどう吟味して摂取するのか、情報は素材として与えられているのだということをもっと若い頃から知っておくべきだったと思う。小学校で教えたら……と書きそうになってそれはさすがに責任逃れだなと思ったのでやめる。
もし自分が本当に廃道を流行らそうと思うのなら、本当に大事なものなのだと思っているのなら、そういう論を張ればよいわけなのだが、それが結局優劣判断されるだけに終わるから(終わるだろうという予想があるから)虚しくなってできないのだろうな。やってないうちから言うばかりでただの負け犬の遠吠えなのだが。
そもそも流行らそうという気はないのだった。自分が正しいと思うことを・よいと思うことをし続けていたい、追求してみたいと思ってやっている。大事だとは思うがそれを人に押し付けてまで主張したくはない。同意を得るためにやってはいけない。そう考えることが間違っているのかも知れないし自己正当化でもあるのかも知れぬがそこはどうしても譲れない。譲り方を知らない。
てな感じに内容とはまったく関係のないことが読後感(読中感か)としてある。あと何年かしてここを読み返した時どう感じるだろう。
結局サブ記事は長くなる事必至なほうを取ってしまい必死の抜歯で書き上げてなんとか形にすることができた。疲労した頭で空腹を取り繕おうと思い財布を握って階下へ降りたがコンビニまでの100mの間にサッポロ一番みそラーメンが残っていたことを思い出しそれでいいかと思い直して引き返し野菜を煮始めたもののいざ麺を投入するという段階になってそんなラーメンなどないことを知った。お前こないだ無理矢理食ったじゃん。肉無いからっていって卵二個ぶち込んでさ。それで結局またコンビニへの100mを歩んで袋入りラーメンを買ってくるという醜態を演じた。しかも一袋189えんもする高いやつを。これを敗北と言わずして何と言うのだ。
そんなこんなの出来事を含め、まこといつも通りの15日であった。
問題はここからだ。25日までにプレゼン資料を作り上げ喋る内容を固定して移動手段と宿泊場所の予約をし多分追加調査と写真撮影をしなければならぬ。1えんの儲けにもならぬことを、ならぬこと故に心底真面目に途方もない手間をかけて仕上げねばならない。
nagajisの幸せは一体どこで手に入るのだろう。山のあなたのなお遠く住んでいるのはサイワイという名の怪物だと聞いているからその方面に求めようとは思わないが、内に宿した外なる宇宙に分け入ったところで手に入る気もしない。それで手に入るんだったらすでに16個くらいは入手してウハウハ言っているだろう。煉瓦とか犬釘とか古絵葉書とかな有形物に求めるのも間違っているだろうしましてやスマホゲーのレアアイテムみてえな無形物ではあり得ぬ。スマホでゲームなんかしないからな(そもそもゲームからしてしないし)。
いろいろ列挙して否定しての儀式の果てに何も残らないことを再確認するまでが一連の様式美、ならぬ様式醜。結果フィルターに濾し取られたナニカは何だ。本当に何一つ残らないようだったら、それこそ何で生きてるん?何でホタルすぐ死んでしまうん? になってしまう。節子それ飴玉やない、幸せや。食うたらあかん。
いろいろと考えた末、徹底的に出張ってみることにしようと今は考えている。この機会に乗じて自己主張してみようと思っている。そうして真面目に、勝つ気でいる。そんな自分の鼻柱を自分で殴って折ってみるのも良いだろう。ああほんと、幸せってなんだ。
(だから以前言っただろう、現状にどれくらい満足しているかっていう自己認識の指標でしかないということは)
勢いであの画像を使ったものの、次号前編ではそこまで辿り着かないかも知れない。探索を思いついた経緯と資料蓄積と道の背景説明でかなり手間取るはず。そうして現場へたどり着くまでが長い。かといって油坂峠までで終わると後半が短くなる。一気に書いてしまうか程々のところで嫌らしく<つづく>しないといけない。そうして次号製作期間のつまり具合からして後者にせざるを得ないと思っている現状。あ、そか、そこで呆然として<つづく>すればいいのか。
だとすると勝山編が浮いてしまうかな。どうせあれは美濃街道ではないのだから扱いに困るんだけど。