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2019-09-25 [長年日記]

[独言] めがさえている

M23第三回内国勧業博覧会やM28第四回内国勧業博覧会やM28第四回内国勧業博覧会の出品物を見ていると、大阪の工場で長230mm・幅110mmを超える煉瓦の出品が目につく。堺附洲、関西煉瓦、三栄組、大阪煉化石、いずれも要塞建設以前に設立された工場。阪府授産所煉瓦、鐘ヶ坂隧道ポータルの厚煉瓦もこの系統。

して、このサイズは「煉化石及モルタル試験報文」『分析試験報文 第1号』にあるイギリス北部形がいちばん近い(厚さは減じられているのが多い。中には厚さまで寄せてきているものもあるけれど)。造幣寮建設のときに持ち込まれた煉瓦がイギリス北部形で、それを規範として煉瓦を作ったストリームが最初期にはあった。それはおそらく造幣寮建設に源流をもつ。

一方、作業局形は、おそらくロンドン・ストックの標準形を元にしている。19世紀ロンドンストック形の厚が若干薄いやつ。鉄道技術がイギリスから持ち込まれたものであるから、その際にイギリスで一般的だったものを寸法ごと持ってきたものか。それでも厳密には厚さが1/4インチ減じておる。もしかしたらイギリスの鉄道の基準サイズがあったのかも知れないし、イギリス北部形を薄くしたのと同様の理由があったのかも知れぬ。そうしてどうも厚さを厳密に考える傾向があった。長さと幅はよほどの誤差を許容している(M24時点の話。それ以前、関ヶ原線とか湖東線とか作ってた頃=M22前後には慣例を破って厚74mmとか80mmとかいう肉厚煉瓦をよく採用していた。これは山陽型の影響なのか?? 山陽型の流用ではあるまい、あちらは68mm、目地込み3インチであって素の煉瓦が3インチとかじゃないもの)。そんな鉄道系製造技術は村井属が天竜のあたりまで持って行っている。その後はどう?

そしてまた、東京形サイズはスタッフォードシャー形に近似しているという。だとすると東京の基準になったのはまた別のイギリス製煉瓦だったということになる。なるのだろうか。単に表中のこれが一番近い形だとしているに過ぎないかも知れない。なるのだとすれば、銀座の煉瓦街を建設する時に規範とした煉瓦がスタッフォードシャー形だったということになって、大阪のロンドンストック形と相容れなくなる(どっちもウォートルスが関わっているはずなのに)。

大阪並形はこれらとはまた違う経緯で出てきているように見える。M22~23の最初期の要塞建築でフランス形(小)を基準とし、そこから出発したものだと仮定しているところ。由良要塞建設に当て込んで創業したと見られる由良の中村重次郎工場、和歌山煉化石の工場なんかはフランス形に近い。実際に由良要塞で刻印が見つかっている工場は並形を作っていたことが、第三回・第四回内国勧業博覧会出品からもわかる。個人的にはちょうどこの頃新旧工場の世代交代があったように感じていて、由良要塞に煉瓦を供給した工場とそうでない工場とで生死が決まったように見える(堺煉化石とか三栄組とか。いや三栄組はM34製造業組合結成の頃までいたんだっけ。丹治はどうだろう、刻印ないけど)。供給した会社は比較的長続きしている。若井煉瓦や旭商社もM30台初頭まで生きていたし。そしてM40以降の六大工場時代につながっていく。それらが作っていた煉瓦がデファクトスタンダードになり得た。

とは思う一方、作業局形をよく焼いたら縮んで並形になりそうな気がする。作業局形を作るつもりで焼いて、縮み過ぎたのが並形になったとか。そもそもだ、何で「並」なんだ? 「並」があるなら「上等」「下等」があったんか? あーでも吉牛だって普通サイズが「並盛」だもんなあ。

大高表を信じて三辺比率を計算すると、0.986361637、0.972502291、0.944741533となって、厚が縮み過ぎているように見える。もし厚が1.8寸なら最後が0.97幾らになってまあ近い。<この計算はあまり意味が無いな。大高表が特別なのはすでに判明していることだ。

「並形」あるいは「大阪形」という名称の初出はいまのところM29『建築学提要』。「東京形」はその名称で旭商社が第四回内国勧業博覧会に出品している。第三回時点で並形類似のサイズの出品はない。M28第四回からちらほら出てくるわけだ。して、第四回講評で煉瓦サイズまちまちな件が指摘されている。各地で違うサイズを作っていることがこの時に再確認されている(初めて指摘ではなかろう。東海道線すでに繋がってるんだし、違うことがわかってたから旭商社が「東京形」と称して出品できたのだ)。一般的なレベルで認識され始めたのがこの頃なんじゃなかろうか、そして「並形」という呼称もこの頃に。

銀座煉瓦街を作る時に大阪からも煉瓦見本を提出した(けど採用されなかった)っていう話、どこで読んだのだっけ・・・。

[きたく] なら中部

薬水橋梁に思い違いを正しに行き、そのついでに付近を少し歩き回った。薬水橋梁に桜刻印はまったくの思い違い。裏積み基礎積みの手成形煉瓦に堺煉瓦があるだけだ。ただし追加でいくつか見つけたのと薬水在所で同じものの転石を見つけたのでよしとしよう。 画像の説明

吉野口で乗り換えのついでに駅前をうろつき、高田で見つけていた‘ヤマ’●の類似刻印を検出。向こうのにhヤマにツノが生えていたがこれには何もない。純粋なヤマ記号。それに少々不鮮明な●がついてる。ヤマボシとか何とかいうべきな屋号で、同じものを新聞広告で見たこともある。業種は全く違うけれども。

画像の説明御所の旧市街地には結構な数の手成形煉瓦があり、刻印があれば必ず小島煉瓦という状況。さすがは小島のお膝元という感じがする。高取よりも御所のほうが明らかに大きな街だ。

御所って環濠集落なんだと改めて知る。寺内町の方では刻印を検出せず。小さな箔押し工場の中でギッコンバッタン仕事しておられる音の響く旧家町並みがよかった。

左に掲げたやつが興味深い。刻印の底にはほとんど砂が付着していないがそれ以外には大量の砂がついている。砂のついた状態で打刻したのではなく、打刻してから平面に砂が付着したわけで、形取り師が詰めた直後に自分で打ってひっくり返したことがわかる。小島煉瓦のは裏表に打刻されているのでこうういう役立ち方をする。同じ観察は日本煉瓦や岸和田煉瓦でもできるはずだがここまで鮮明な違いが見られることは少ない。

そうして休憩中にスマホを落としてタッチパネルを割ってしまう。手帳型ケースに入れていたのに開いた状態でガラスを下にして落ちやがった。上1/4斜め半分が使えず、スマホとして使えないわけではないが、とてもいやだ。今度はタッチパネルだけ買って交換してやる。

JRで御所から畠田まで行き(待ち合わせで馬鹿みたいに時間食った…だから和歌山線は嫌いなのだ)、そこから山を越えて大輪田へ。昨年やり残した宿題を片付けるつもりで。持ち主の方が親切に応対してくれ大変有難かったが煉瓦を再確認する時間がほとんどなく、任せてしまうことにした。昨年の見学会でお渡した資料や話も無事伝わっていたようだ。ただし追加で判明したことはなく、畑の南側に知り合いの家があっただけだとのこと。取り壊してしばらく経ってから現持ち主さんが買い取りはったそうで、その頃には草生した土山があるばかり、それを畑に作り変えた時に地面の下からたくさん出てきたのだそうである。とすると元の家の基礎に使われていたものか、その1つ前の家の何かなのだろうな。ここに工場があったとは先ず思われない。

実質的な収穫はなかったけれどもいろいろな話を聞けてよいひとときを過ごすことができた。あとは川向かい神南の孫七という瓦屋さんくらいしかアテがない。Hmm…そこは斑鳩町になるからなあ。大輪田じゃないのだよなあ。でも技術がそちらに伝わっておるやも知れぬしなあ。


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