nagajisの日不定記。
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意識の混濁は軽減されたがまだ鼻水が出る。寒い中自転車で走ったりなどすると覿面に出る。粘い鼻水である。いつもの調子で手鼻をかんだら頬から顎にかけてべっちょりと飛び散ってしまったりして阿鼻叫喚である。まさに阿の鼻が叫ぶ喚くの状態。そのてかてかした状態で悠々とゆうゆう窓口に立つnagajis。
瀬戸内町の教育委員会さんが持参してくださった煉瓦。右奥はウォートルスが上海で製造したという煉瓦で、これを参考にして奄美大島でも同型のものを焼いたそうだ(左手前)。上海のはよく焼けていて平の凹みも両側にある。対して奄美で製造したものはかなりボロボロで凹みも片面しかない。いかにも煉瓦製造濫觴期の煉瓦という態をしている。
この二つの煉瓦は馬鹿みたいにでかい。左奥に見えるやつが日本で普及したサイズに近いもの。体積比でいったらその3倍くらいはあるのではないか。
上海製造煉瓦は10inch×5inch×3inchというサイズ。inchメジャーで測ったのだから間違いない。そうしてこの寸法は非常に意味がある。以前書いた煉瓦税のときに定められた上限サイズなのだ。これ以上大きく作ったら二倍税になるというギリギリのサイズであり、M13蘭均氏土木学で示されている寸法もこれであったりする。そうしてそれを真似た白糖工場煉瓦は厚さが微妙に厚い。150inch3を越えている。だって煉瓦税関係のない日本で作ったやつだもん。
それを縮小した左上の煉瓦が東京形だったり並形だったりしたら面白いのだけれど・・・現物は63mmを超える感じですんなりとは腑に落ちない。ここらへんは報告書を拝読して考えなければならぬ。こいつだけが特別厚く見えるだけで他のは60mm前後に収まっていたりするのだろう。
美麗に書こうとかイイこと書こうとか思わないこったな。言葉で世界が変わるような魔法は持ち合わせていない。押し付ける言葉はもっと要らない。
瓦礫を処分するために夜の府道を歩いた。想定していたルートを歩いたのだが初めての道ゆえ目的地までの距離感を持たずに歩いてひどく寂しい思いをした。車も人通りもあったけれども自分とは一切無縁の人々であり車であり、自分の通行を見咎めたり記憶したりされることなどないのだろうな、と思う。センターの建物が妙にバカでかく、威圧的で、入れるものなら入ってみろと嘲笑している気がした。
昔は夜歩くのが好きだった。外灯も持たず無闇矢鱈と歩き回ってみたり、そういや初めて吸った煙草も夜に登山した山頂でであった気がする。あの時もライトは持っていなかった。吸った煙草はCamelのライトだったけどな。
明かりなしで歩いて平気だったのは、それは知った道であったからで、あとどれくらい歩けば目的地なのか(あるいは目印となるものの地点につくか)がうすぼんやりとでもわかっていたからで、初めて歩く道・町・街ではそうもいかない。自分の今いる位置がわからない、把握の外にあるということが怖い。わかったつもりで歩いていって、急に間違えていたことに気づき、わかったつもりであったことを悟らされた時の遣る瀬無い絶望感。今日もあやうくそれにはまるところだった。川に直角にぶつかるものとばかり思っていたのだが、気づいた時には川に沿って歩いていて、そのままでいたら永遠に川に着かないところだった。
夜のポートアイランドで方向を見失い彷徨した時のあの感覚。津守で北上しているつもりがいつのまにか南へ向かっていたアレ。岡町住宅地のなかでも気を抜いて見ず知らずの路地に入り込んでしまい明後日の方角へ行ってしまったことがあった。そういや豊中北郵便局辺から家に向かっていていつのまにか熊野町にいた自分もいたな。いずれもあまり思い出したくない記憶だ。
誰も助けちゃくれないのだ、という認識ほど、心を寒からしめるものはない。このまま闇に飲まれてしまうような気がする。例え、実際には12時間もじっとしてれば朝が来て周囲の状況を把握できるだろうにしても、助けてはもらえない現実は朝日の後でも続くわけで、結局のところ自分でなんとかしなければならず、そうして生きてきた割には「路頭に迷っている自分」の立ち位置に慣れない。まことに勝手なものである。
あの、たった3ヶ月の流浪の旅の間は、そんな心持ちにはならなかったんだけどなぁ。どこまでもどこまでも、果てしなく、彷徨っていける気がした。そこには一応未来があった。明日の自分が思い描け、それのためになすべきことがあった。今はそれすらもない。
ミスのリカバリほど慎重にしなきゃいけないって何度経験したらわかるんだ>あほjis