nagajisの日不定記。
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意外なことに、1875年(明治8)にはアメリア宛の煉瓦輸出が行なわれていたそうである。しかも価格の安さと品質の良さが評価され「世界を席巻できる」と評されていたそうだ(p.47 出典:"Scientific America"(1875))。20%の関税がかかっていてもなお太刀打ちできるような良製品を、明治8年という最初期に作れていたというのはまったく予想外のことである。残念ながら産地や使用先はわからない。
↑はサンフランシスコ宛の輸出だったが、1889年(明治22)にもワシントン州Puget Sound(ピュージェット湾)宛に煉瓦が輸出されている。1888年4月13日に4万トン、1889年に97211トン、1890年にも99900トンの煉瓦輸入が、横浜港からPuget Sound custom distinctあてにあった(custom districtちうのがはっきりわからなかったけど、湾の商圏みたいなものだろうか?)。そうしてスポケーンからセントルイスまで鉄道で運んだ記録があり「現地の煉瓦製造者ではおそらく作れない」プレス成形煉瓦であったところが買われたようである。1889年の2月3月には兵庫から耐火煉瓦が約30万トンずつ運ばれている。以上トンはlong ton。1016.0469088 キログラム。
カナダ領事館から日本の煉瓦買いたしの照会があったのは1888年10月のことなので、春に買われたやつが好評なのを聞きつけて、という流れなのかも知れない。カナダからは木材を送り、その帰り荷に煉瓦を積んで帰るという計画。実際にどうなったかは不明。バンクーバーはピュージェット湾の北辺にある。
煉瓦サイズを測定することで考古学的に役立つ情報を得られないだろうか、と考えるのは古今東西に共通する発想であったらしく、かつそれがうまくいかない気味なのも同左であるらしい。B&Bには「それが科学的っぽいから」測定されるけれど・・・みたいなことまで書かれてある。
19th~20th centuryのアメリカの場合、1886年にNational Brick Manufacturers Association(NBMA)が煉瓦サイズの調査をしてcommon sizeとして8-1/4x4x2-1/4inchというのを採用した。これは普通煉瓦のサイズ。1889年にはFace Brick(表張りの化粧煉瓦)について8-3/8x4x2-3/8inchを採用、さらにRoman BrickやNorman Brick、Pave Brick(舗装用煉瓦)なんかにも規格ができ、はたまた化粧張り煉瓦の協会ができて独自規格を作ったり、其れに対してNBMAが新規格を作ったり。とにかく規格が乱立してわけわからんことになっている模様。結局のところ製造された煉瓦の大きさは、その煉瓦を製造した工場がどの協会・組合に所属しているかによって違い、なおかつ規格に拘束力がなかったものだから、規格などあって無きが如しであった感がする。例えば1922年、United States brickyardsの調査によれば、39とか36とかのサイズが存在したらしい。これではサイズを何かの指標にしようというような気が削がれるというものだ。
日本の場合は一寸違うかも知れない。煉瓦という概念がほとんどなかったところへ煉瓦製造技術が輸入され、センチとかインチとかの単位を尺寸に読み替えて作らねばならなかったので、最初に採用したサイズ、あるいはある時に規格として示されたサイズを金科玉条的に作り続けたんではないかと思う(その結果がM39の大高表の5種類)。むろん例外はあっただろうけれども、アメリカに比べたらまだ絞られておる。そんなだから、煉瓦寸法の追求が煉瓦製造技術の伝播経路を跡付けすることに繋がりそうな気がしている。