nagajisの日不定記。
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昨年届いたB&Bとはまた別の同題の本。著者と発行元が違う薄い本である。本当に知りたかった情報はこちらのほうにあった。
同書p.23に、Hoffmanの設計事務所が描いたというホフマン窯の設計図面が載っている。1875年にLilleshall Companyのために設計したものだ。これには確かに副煙道が描かれている。次ページにある典型的なRectangular窯の図にも"HOT AIR"を通すトンネルがある(長方形のプランで中央縦方向に一本の副煙道と一本の沿道)。この副煙道で熱を輸送するところにホフマン窯の特許のキモがあったといってよいはずである。
一方、このような副煙道をもつ窯は日本に現存していない。日煉の窯も下野の窯も中川煉瓦のもそう。播州のだってことごとく副煙道なしだった。センセーショナルな言い方をすれば「日本にホフマン窯はなかった」ということになりかねないのだ。
んじゃあM21の農商務省の分析報文の解説は何だったのか。なぜホフマン窯は普及しなかったのか。特許期間の関係かとも思ってみたが当時ドイツの特許権は3年か5年かそこらで切れるものだったらしいし(https://system.jpaa.or.jp/patents_files_old/200801/jpaapatent200801_029-042.pdf)、日本で煉瓦製造が本格化するのはホ氏特許の10年後なのだ(特許は1858年取得、明治元年=1867)。考えてみたらそうなんだな、日本で、当時この窯を何と呼んでいたかといえば、「輪環窯」とか「輪窯」とかなんだな。独り大阪窯業の大高が「改良ホフマン窯」の特許を得たくらい。