nagajisの日不定記。
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神戸又新日報がデジタルで見られるようになったと知り&小見出し検索で関西煉瓦の廃業記事なるものを見つけ、目をつけていのをコピーしにいく。ついでに砂子橋でも撮ってくるかと思ってカメラを持っていったのが幸いした。
図書館窓口でなぜか「こうべまたにちしんぽう」と言ってしまい、恥ずかしい思いをしたが、親切に意を汲んで下さりマイクロのほうを案内してくださった。デジタル化したものは粗い画像だし複写ができないのだという。で、確かに目当ての記事はあったけれども、よく考えてみればこの会社、明治31年まで存在を確認しているのだ。記事は明治25年のものである。
●関西煉瓦製造会社の廃業 両三年前に資本金十万円を以て設立したる明石郡垂水村の内山田村の同会社はその製造に係る煉瓦の完全ならざると一方には土木事業一寸下火となりし世間一体の有様なるとのため販路兎角捗々しからず為めに利益を株主へ配当することも叶わず夫等の事情より株主中にも彼れ此れ紛議を生じ居りしが此程遂に廃業に決し同工場は他へ売却することとなり目下数名の残務委員が詰切りて処分をなし居れりと
(神戸又新日報 明治25年9月28日)
関西煉瓦の名前は「兵庫県治一斑 第2回」(M31)にも出ているし、M30、31の大阪毎日新聞に決算報告がある。この決算報告のときの社長は相変わらず和田半兵衛で役員筆頭には難波二郎三郎もいる。M25の前後で何も変わってはいない。どういうことだろう。
他には市川橋梁・加古川橋梁の建設につき、いくつか。開業時には確かに仮橋だったようで、改修工事を行なっていた最中のM22.9.12に大雨を食らってさあ大変という記事が見つかった。市川橋梁は杭打ち機の木材が流された程度で済み、加古川橋梁は橋台の煉瓦積みをしようと堤防を切り下げていた最中だったのでアワヤ破堤という状況になったようだ。つまりこの頃はまだ下部工は煉瓦積みでなかった。姫路駅転車台が古く、市川橋梁はその翌年以降に作られたと考えれば、市川橋梁で□+カナ印が見つからなかったという状況に意味が生まれる。はじめ□+カナを使っていたのが□+漢字に移行した、のが姫路駅転車台の頃だということになる。
その後砂子橋に行くつもりであったのに何故か烏原貯水池の麓にいる自分を発見してポン引きした(ドン引きとまでは行かない小規模な落胆である)。布引堰堤と勘違いしていたらしい。まあいいや、烏原の堰堤は見たことがないからそれでも見てこようということにする。そんなテキトーな感じで始めたつかの間の神戸散歩だったのだが、山手のあちこちで古煉瓦を発見したり、天王谷川水路橋に出会ったり、たいへん素敵な切り通しに出会ったりした。
その切り通し。あとで調べてみると烏原古道という古い道であるそうで。いまの行政地名でいうと石田町から天王町へ越える道筋で、それほど需要があったようには思えないのだが、以前はその奥の寺院に向かう道として使われ、平清盛辺りも越えたのだという。
風化花崗岩の薄い峰を10mほども掘り下げている。ノミ跡あらわな壁もいいし、掘り窪めた肌に石仏が祀られているのもいい。台座には「□化十一年」と刻まれてあって、元号と年数とで判断すると文化11年しか該当しないようなのだが、どう頑張っても「文」には見えなかった。石仏も蓄髪坐像で胸の前で手を重ねているような感じ。ピンクレディー「UFO」の始めのポーズを思い出したのは多分罰当たりである。この切通はまたどっかで書くことにしよう。
天王谷川水路橋も素晴らしかった。そういうのがあるとは全く考えていなかったので(川辺から堰堤が見上げられないかと思って天王谷川沿いに登ってみたのだ)、その分衝撃が倍増した。いまは烏原堰堤とともに近代化遺産に取り入れられている。最初の烏原堰堤の時代からあるものだとすれば明治38年頃竣工ということになり、RCアーチ橋としてはかなり早い時代の作品だということになる。
見つけた古煉瓦もそれなりに面白かった。貝塚煉瓦?と思った井桁菱が同じ溝に使われていた朝日窯業の日の出マークのお陰で大正6、7年頃のものであり和泉煉瓦であるらしいと気が付かされたり、装飾用にわざと焼き損ねられた機械成形の煉瓦に三本線大刻印を見つけたり。三津浜煉瓦なのか播煉なのか断じ難い。サイズはJIS近似で小口幅が5mmほど狭い傾向。
讃岐煉瓦の「キヌサ」+英数字もあった。印影がはっきりしなかったのが残念だが二桁のものらしい。10の位は2に見える。
神戸の山手の住宅街、特に傾斜地に沿って民家が立ち並んでいるようなところは、等高線を垂直に切る方向に流れる溝に煉瓦を敷いたものが多い。山手通の辺りでも同じものを見た。土のまま放っておくとどんどん洗掘されて深鋭な溝になってしまうのだろう。それを防ぐために底にのみ煉瓦を敷いてある。モルタル目地さえなくただ並べて埋めているだけというようなものでも一応は機能していたらしい。そうしてその溝が現代的なものに作り替えられた時、見てきたような煉瓦転石たちになるのだろうと思う。本当にこの一帯は、思わぬ所に煉瓦転石が現れて飽きさせない。