nagajisの日不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad
東洋組製品と他の製品をと見分ける方法を発見して独り興奮している。東洋組西尾分局の胎土には大量の雲母が入っている。そうして刈谷の後年の製品や新川辺の煉瓦には雲母は含まれていない。他の工場でも雲母を含むものは少ないので雲母の有無で簡単に絞り込むことができる。
西尾の胎土に雲母が含まれることは横須賀市教育委員会さんから頂いた猿島遺跡の調査報告書(2002)に書かれてあった。そうか雲母か、と思って手持ちの煉瓦を確認してみると確かにキラキラ輝いていた。石英結晶に光が反射して光っているものもあるが、ライトでまんべんなく照らすか、光源をまともに受ける位置から煉瓦をくりくり傾けると違いがよくわかる。これを言語化しないといけない。金銅色に面で光るのだ。キラキラが揃っているのだ。粘土を型枠に放り込んでギュウギュウやっているうちに劈開面が型枠面に沿うようになるのか、あるいは小口長手と平行なやつが特に劈開して面を見せているのかわからぬが、いずれにしても顕著にキラキラと輝く。このキラキラを探せば西尾分局製を見つけることができる。
西尾の東方に八ツ面山というところがあって、そこにかつては雲母の鉱山があったそうである。そうして雲母を含む土は西尾から岡崎・豊橋方面に分布しているという。ん? ならば岡崎で採取したあの煉瓦も? と思って見てみれば確かにこれもキラキラ光る。直径1~2mmくらいの金雲母さえ確認できた。乙川沿岸の堆積土に含まれているかどうかによって、あれが西尾から持ってきたものなのか、それとも岡崎分局製(あるいは三工舎製)なのかが言えるかも知れない。
さらに興味深いことに、西尾士族生産所時代の製品には雲母が含まれていない。鉄道省の大型煉瓦を作る頃には原土を替えていたらしいのだ。確かに発色は全く違う。生産所時代の煉瓦は堺の煉瓦かと見紛うほど充分に赤い。胎土が違うということは西尾分局の後継工場の製品だと推測するその推測が間違っている可能性もなきにしもあらずではあるが、精成社→生産所の頃の往復書簡にこの頃ようやく鉄道省の求める色合いに焼けるようになったと南隼太が報告していた箇所があったはず(うん)。ずっと火加減によるものだと思っていたが原土を変えたと考えてもいいわけなのだ。
しかも興味深いことに〝□+カナ〟刻印煉瓦だけは雲母を含んでいる。微細な粒になっているが確かに雲母だろうと思う。石英結晶の光り方と違うもの。もしかしたら刻印の違いは使った土の違いなのかも知れない。以前の土では高火力で焼いても発色がよくないためにイロハ印の厚煉瓦は安かったのかも知れない。
雲母の有無で西尾の土と判断できるのであれば、「愛知名古屋/東洋組瓦磚/製造所之印」を西尾以前新川時代の印と考える推測の判断材料として雲母の有無が使えることになる。これはかなり画期的であり直截的であるだろう。ただし生産所時代の煉瓦も含んでいないわけなのでそのへんの言い訳を考える必要がある。
有り難いことに、雲母によるキラキラは長手や小口でも確認することができる。むしろそっちのほうがわかりやすい。型枠にまぶした砂に含まれていたものだろうか(もちろん胎土断面にも含有を確認できるがキラキラが揃っていない)。そういうわけなので平の露出や東洋組刻印を探さずともいい。
といったようなことを昨日発見し、それ以来誰かに教えたくてムズムズしている。これを知って喜んでくれるような人に伝えたくてたまらない。しかし残念ながらそういう人が周囲にいない。
つくづく思う。人はなぜ新知識をひけらかしたくなるのだろう。見つけたものや目にした後継をSNSにアップしたくなるのも同根の、人間に備わった人間的な欲のひとつなのだろうと思うが、そう考えると書いたり伝えたりする行為の虚しさのほうが先に立って萎えてしまう。聞かされたり読まされたりする側の気持ちになるとそう積極的になることができない。その前にnagajisが人かどうかを吟味する必要があるしな。