nagajisの日不定記。
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朝食前運動場を周りしが大変気持良かりき。毎朝続ける覚悟なり。十三時より拾六時まで愛校作業行う。きつかりき。教育総監部総務部長、本校を見学され会食をなす。
掃除なりしがふるって走る。
午後は工作ありて愉快に明解に掛林教官殿の下に授業出来たり。随意運動時は生徒監殿注意ありて費す。今日の所感は特になし。
予残念なるが四月二十日(月)より特別下級品を受くる事となる。牛乳なり。外出名簿の出現。
〔nagajis:「特別下級品」→特別下給品か〕
国漢乙にて小林教官殿より頑張れと励まされたり。午後自習、十五時半より赤痢第二回予防接種あり。〇・九ccなす。夕食時一年は相当痛いとて参っていたり。二〇時半に消灯。此の前より相当痛かりき。予は此の時十分眠らんとす。
今号のREAR TYREで予告していた件。やや写真過多なのはご了承願いたい。
小生、FujifilmのFinepix S9100というデジカメを使っている。Finepixは6900zの頃から愛用していてそれなりに好きだ。画がいいとか発色がどうのとかハニカムCCDの威力云々とか言うより、使い勝手や映り方がわかっているから、なんとなく惰性で使い続けているといったほうが事実に即している。少なくともデジタル一眼以下コンデジ以上という中途半端な立ち位置のデジカメである。(そういうのが好きなんだけどね)
で、現在メインで利用しているS9100。ふっと気づいたら電池蓋のツメが折れていた。気づいたのは先月半ばのことだ。
丸で囲んだところと矢印の位置に蓋固定用のツメがある。このうち赤丸のところにあるツメが折れている。根元のツメが残っているので蓋が閉まらないことはなく、事実折れていることに気づかず長い間使い続けていたらしい。
元の形はサブ機として残してあるS602を見てもらうとわかりやすい。グリップ先端に近い位置にツメがあって、ここに電池蓋裏の凸ツメが引っ掛かるようになっている。蓋を倒してスライドさせて固定するわけだ。そういえばS9100の電池蓋は購入当時から頼り無い締まり方をしてたような気がする。カチッと閉まらないというか、フシャッと閉まるというか。不完全な位置で閉めようとして折ったのだろう。
ともかくこの状態だと微妙ーに隙間ができてしまう。何かの表紙でスルッと蓋が外れたりもする。データ保存中に外れたりしたら一大事だ。それだけでなく、埃が入りやすいに違いないし、残りのツメには余計な力がかかっているわけで、これが折れてしまったら一巻の終わり二巻発行未定な状況に陥る。てな感じで、一度気づいてしまうと余計に気が気でならなくなる。
本体側のツメなので少々ややこしい。ネットで調べれば同様の破損が多いようで、修理に出せばボディ交換となり諭吉さんと一葉さんが一人ずつ飛んでいってしまうという話だ。当然そんな金はない。
どうしたものか。先月号の追い込みの最中にいろいろ考えた。もちろん考え続けていたわけではなく、合間合間に思い出しては意気消沈しつつ対策を練っていたわけだが、折れた箇所をつらつらと眺めていて、ふと解決方法を思いついたのだった。
TACTICS
鉄板か何かでツメを作り、電池室の壁に沿わせて埋め込めばいいのではないか。
幸いなことにツメの位置は電池室のすぐそばだ。室の壁辺りからツメを出せばちょうど届きそうな感じ。薄い鉄板でツメを作り、根元の面積を大きく取って、瞬間接着剤で貼付ければ何とかなるだろう。鉄板の厚みは電池室の壁を削って吸収すればよい。
問題なのは、薄くて硬い(ツメになるような)鉄板、というのが思いつかなかったことだ。この間のねじりまんぽで使ったステン板の切り残しがあるが、こいつは柔らかすぎて使い物にならない。厚みのある鉄板を使って強度を出す手もあるだろうが、電池室の壁を削る量が増えてしまう。何かいいものはないかと考えることさらに2日、オペ中にふっと目に止まったものがアレだったのだ。
ここでダブルクリップが登場する。彼は鉄板だった。あれば不用意にくにくにやって遊んでしまいたくなるダブルクリップの靭性の高い本体部分。使えるのではないか。しかも限りなく薄い。ノギスが彼を測定したところ0.4mmという実測値を得た。
硬いということと加工しやすさとは相反する。特に電池室のカーブに沿わせて曲げること、およびツメ部分の折り曲げが可能なのかどうかに一抹の不安があったが、やらねばこちらがやられるのだ。というわけで本日、作業にかかったわけである。製作にあたっては100円ショップで大形ダブルクリップを購入しておいた(写真のもの)。材料費消費税込み105えん。5個入りだから幾らでも試行錯誤できる。
電池室の曲線に合わせて曲げる作業には工夫が要る。ペンチで曲げるなどもってのほかだ。ここは極めて原始的な方法を取った。
次にドリルの刃が登場する。彼は直径10mmの穴を開けられる大型刃であったが彼が収まるほどの大型チャンクを持つドリルがなく実際にドリル刃として使われたことはない。にもかかわず工具箱の中に入っていた理由はわからない。そのうえドリル本来の役割果たすために登場したのでもない。哀れである。
TACTICS
合板に溝を彫り、その上に鉄板を載せ、さらにφ10ドリルの刃を載せてハンマーで叩く。叩く叩く。いやもう叩くことしか考えられない位に叩く。そうすれば限りなくφ10に近い曲面を持つ鉄板が出来上がる。
に違いない。
ポンチ絵ではきれいな曲面を描いている合板の溝だがこんなにきれいには彫らなかった。手を抜ける所はとことん手を抜く主義のnagajisだ。
鉄板はあらかじめ大きく切り出しておかないとこの作業の時に大変な思いをする。本来ならもっとスマートなやり方なり固定法なりがあるはずなんだが手近にある道具ではこれが限界だ。
手を痛めながら叩きに叩いて曲面を得た。しかしやはり端のほうまできれいなカーブにすることは難しい。なので最もうまくいった場所を切取って使うことにする。
次の問題はツメ部分を曲げる作業だ。できるだけ曲線を保ちながら曲げるため、φ10ドリル刃と一緒に万力で挟んでハンマーで叩き曲げることにした。しかし一回目の試行では見事に失敗。素材の靭性が高すぎて、直角に曲げると折れてしまったのだった。調子に乗ってポカポカ叩いたのもいけなかった。ここはじっくり、45°曲げて、少しずらして、また45°曲げて、というような微細操作が要求される(しかも万力で)。
曲げたものを再度φ10ドリルとハンマーで整形。折り曲げた箇所はさすがにうまく曲線になってくれなかったが、サンドペーパーで磨いたり何とかしたりして、ブツが出来上がった。
この曲線を出すのにどれだけ苦労したことかブツブツ。
で、実際はこんなに長いツメは要らない。あとは現物合わせでツメの長さを合わせてやればいい。ここからが大変だ・・・。電池室の壁は恐らく1mm程度、下手に削って穴開けたりしたら元も子もなく、また取り付けたあとでツメ長過ぎた&飛び出過ぎたなんていう事態になっては目も当てられない。一日仕事を覚悟した。
・・・そのまえにちょっと合わせてみよ。と思って差し込んでみたところ。
すっぽり入ってしまった。
曲線が思った以上に電池室にフィットしたうえ、素材が薄かったおかげで、電池と電池室の隙間にスッポリ入ってしまったのだ。しかも外れない。あわわ。
・・・待てよ。これ、このまま使えばいいんじゃね?
ザ・発想の転換。ツメを着脱可能な部品にしてしまえばいい。電池交換するたびに差し込んでツメにする。この状態、電池室と電池によってかなり強固に固定されている。要は電池蓋根元のツメに負担がかからなければ良いのだからこの程度で構わないのだ。無くしそうにも思うが電池交換なんてそうそう慌ててするものでもないだろう。
・・・というわけでイキアタリバッタリズム全開のままフィナーレへ。ツメの長さを現物当たりで調整し、しっかり閉まるような長さにして、完成した!の図。色を塗ったらいかにも当初からこの姿だったかのような錯覚を与えかねない(訳がない)
蓋を閉めた図。冒頭辺の一枚と比べていただきたい。
同様の症状でお悩みの方。これで直るよ。
ちょっと先行で嬉しいのだがじっくり読み込む時間がない。そもそも木っ端図か敷くて手に取れない。洗濯しながら写真を撮っていたらどこぞのお母さんに興味を持たれてしまったのも羞恥の情を加速する。さすがに「これ書いたのボクですよ!!!」とは言わなかったがそうしそうになったnagajisには上段回し蹴りを浴びせておきたい。3冊も戴いたので早めに川上村と飯能市に送り届けよう。
s9100、思ったより色目がよくなかった。今回はほとんどいじらなかったからなあ。。。
個人的にはこいつが採用された時点で満足し切っている。「廃道をゆく1」で没ったJIS男。そうして誰かにしたり顔で「一つだけヒョウタンツギでした!!!」と報告されることを希望している。その程度の存在感である。
パラパラめくってさっそくERRATAを発見してしまった・・・ある種の業だろう。確かにこれは一見しただけではわからないし、ゲラでチェックできるものでもない。あ、nagajisが載ってるのがそもそもの間違いというのは不可。
誤解なきよう追記しておくが本が出来上がったことは素直に嬉しいし皆さんの力の賜物であると心から感謝している。これでもう少し生き延びることができそうな塩梅なのも有り難い。本当に言いたい思いは感情丸出しでは書けないという迄である。
_ TUKA [手塚プロが寛容で良かったですね。 これがディズ●ーだったら・・・。]
やっと一息つける...
見学会は尼崎.最初は阪神電車の発電所.明治末に作られた煉瓦造の建物.いまはその隣の施設に役目を譲って空っぽの状態.よく焼かれた真っ赤な煉瓦が印象的.
駅前を東へ行って,かつての小学校前を通り,尼崎城の本丸があった辺りへ.元女学校だった建物はいまは尼崎市の文化財の収蔵庫になっている.この中でお話をきいた.
京阪神の工業地帯の要のひとつだった尼崎市は全国に先駆けて産業遺産の保存活用を検討したところだ.1986年だったかに産業遺産(当時は産業記念物という呼び名)の保存活用に関するシンポジウムを開いたりしてる.しかし入れ替わり立ち代わりが激しい工業地帯であったゆえに群として残っていない.尼崎の象徴だった火力発電所もすべて取り壊し撤去になっている.臨海部の工業地帯は早くから緑化を手掛けたけれども,それがかえってテクノスケープ的景観でなくなる結果となり,いまの時流にも乗れていない.云々という話.なかなか上手くいかないものだ.
もと技術室だった部屋に発電所のタービンの一部が保存されている.第二火力発電所の第二タービンの高圧タービン部分.重さ6tもあるデカブツだ.タービンの羽根はふつうの羽根だと思っていたのだがそうではなかった.脈動タービンと呼ばれる(だったっけ?)断面が^の字になったもの.尼崎火力発電所は戦前最大の火力発電所で,一基で7万kw/hの発電力があった(数値うろおぼえ).
この向かいにあるのが旧尼崎警察署の建物.芦屋の警察署と同じ置塩章の設計で,こちらのほうが古い.建物は阪神大震災で被害を受けて以降あまり積極的な保存はなされていないけれども,倒壊しない程度に補修が加えられ,市民グループの活動の場になっているそうだ.
地下には留置房なんかが当時に近い状態で残っている.独房の壁には放りこまれた囚人の落書きがいっぱい・・・.いついつ入ったとか,女性の名前とか,カレンダーとか・・・.出られる日を一日ずつ消してった跡があって生々しかった.
その後あましんの博物館で解散.午後から中小企業センターで総会・講演会・研究発表会.総会は特に何もなく穏便に終わってほっとした.講演会では尼崎の産業遺産の歴史を.最初に紡績業が起こり,続いて重工業が起こりという流れは日本の近代化の縮図といってよい.前述のような産業遺産調査も早い段階に始まった.おそらく日本で最も早い事例.しかしその後が続かなかった・・・.残念な話だ.確かに難しいところはある.活用の難しさ,展示場所の確保(収蔵庫も最近やっと広い場所が確保できてタービンの展示なんかもできるようになった),現業との兼ね合いetc.etc.単に「いいものだ…(遠い目)」では済まない現実的な問題があることを再認識させられた.
会合終了.事務局がリセットされたお陰でかえって進め方がはっきりしたのかも知れない.
自分がわかっていないだけなのかも知れない・・・そこは委員と調査員の立場の違いをはっきり踏まえてない自分および事務局が混乱のもとなのか? 委員は分野でものを言うvs調査員は調査する立場でものを言う.はじめから正確にして手間を省きたい(省きたいというと若干ズレるがぴったりあてはまる言葉が思いつかぬ)・漏れをなくしたいvs行ってみないとわからない.みたいな.加えてなぜか事務局の立場で考えてしまうnagajisが面倒を増やすのだ.まとめ役が一番大変だと思うもん.
天満橋.全長100m超,中央径間60mという都計事業最長のゲルバー桁.隅田川の言問橋とよく対比される.設計者の元良勲も「のびのびとした,鳥が翼を広げたような形」と自画自賛する名橋.
なのだけれども,見る角度によって「?」と思えてしまう.上の写真ぐらい離れて見た時や,隣の天満橋の上から真側面を見た時には,なるほど名橋と呼ばれるだけあるなと思えるのだが,橋たもとギリギリから見た時の姿が納得いかない.
こんなかんじ.一枚目の写真も本当は左のほうが若干納得がいかない.
設計にケチをつけるつもりは全くなく,なぜそう感じるのか,どこを「?」と思ってしまうのか,が不思議でならない.言問橋も近づけば似たような「?」を感じる(Wikipediaの引用写真とか)が,天満橋は格段にそれを強く感じる.nagajisは何が変だと感じるのだろう.それを考えながらしばらくこの場に座り込んだ.
橋脚(支点)より向こうがひどく寸詰まりに見える.手前の桁(ゲルバーの側桁)がきれいな直線で飛んでいくのに,橋脚より向こうで「ひょろっ」と曲がって見える.直線とその「ひょろっ」の部分とのバランスが変なように感じる.なおかつこの直線が,桁の上端(路面側)と下端(川側)がぴったり平行になっているように見えるから,その奥の曲がりが余計に目立つように思われる.対岸の側桁も直線に見えるのであればまだ印象が違うのかも知れない.
そもそも並行に見えるのは目の錯覚で,縦断面は橋たもとのほうが狭く,中央に向かって太くなっているのだが,それを細い方から見ているせいで,太くなっていく比率と遠近法で小さくなっていく割合とがたまたま同じになっていて並行に見えているのだった.それと同時に,対岸の側桁が太→狭になっていくのが遠近法によってより強調され,突然きゅっと細くなるように見えている.その組み合わせが「?」に繋がっているようだ.手前の桁だけを見ていると違和感がなく,むしろその力強さに圧倒され,いいな,橋らしいなと思う.そんな力強さ・勢いの先が尻すぼみになって見えるから,余計に違和感を感じるのだろう.
上のような見え方のせいで「重さが偏っている」ように感じるのも違和感の要素の一つかも知れない.こちらにしか重さがないように見え,こちら側の桁だけで支えられているように見えてしまうからバランス悪く感じるのではないか.
だとすると,桁縦断面が細→太→細と変化するゲルバー桁橋はどれも同様のことが起こり得ることになるのだが,例えば日吉橋の場合,
かえって変化が豊かなように見えて心地いい.
二つの橋が決定的に違うのはその長さだ.日吉橋は天満橋の半分もない.遠近法的圧縮がさほどかかっていないから,縦断面に近い形を見ていることになる.それから,このゲルバー桁は断面変化がストレートで,それが良い方向に作用しているように思われる.向こう側の桁の狭まり方,特に下端を持ち上げている辺り,勢い良くピンと跳ね上がっているように感じられ,橋脚周辺に「重さ」が感じられる.それが手前の橋脚辺りの「重さ」と吊り合っている.ように思われる. < p>天満橋も,離れて見れば左右均等に重さが感じられて安定して見えるようになる.ずっしり重くて安定しているというより,動き・軽さがあって安定しているというか何というか.吊り桁の細さや橋台側の細り方のお陰で動きがあるように見え,その太細のバランス,連続的な変化の仕方,橋面の曲線の具合などが複合的に絡まって良い具合いに見えるのだろう.元良技師の「のびのびと翼を広げた鳥」という表現もなるほどなと思える.都鳥の飛ぶ姿に近い.
上から2つ目の写真は無理にこの写真を撮ったわけではなく,橋詰からこの位置に降りてくる階段があって,そこから撮ったものだ.橋から大川河川敷の公園へ降りる時には必ずこの構図を目にすることになる.そういう見方をすることは想定されていたんじゃないか.それで桁がこの位置から見ると並行に見えるようになっているのかも知れない.そう思う一方,自分はそれを「?」と感じる.そこまで織り込んで設計するのも難しいような気がする.
結論はない.強いて言えば「ゲルバー桁は単純じゃない」.
おまけ:きれいに感じるゲルバー桁の例.鉾流橋.
Hが都道府県の頭文字だと気づいてから、それが兵庫県だと思い至るまでに一週間もかかったのはさすがにどうかしている。広島とか北海道とかはすぐに思い浮かんで、確認して消去して、HukuokaとかHukusimaとか、博多とか姫路とかいう可能性まで思い及んだにも関わらず、Hyougoが出て来なかった。そうして答えはそこにあった。関西煉瓦株式会社、明石郡垂水村、明治21年3月創業。細かくはまだ追っていないが明治33年頃にはすでに廃業していた模様。
ハンター邸(前の持ち主が明治22年に築、40年頃移築、昭和30年代再移築)、小野田セメント徳利窯(明治16年建造、32年まで使用)、大阪紡績工場(明治19年稼働開始)、 神戸居留地発掘現場(明治中期)で見つかっている。
ハンター氏が煉瓦製造と輸出を計画、それが形になったのが関西煉瓦とされるけれども、関西煉瓦=B.C.△H.J.とは特定されていないような。現段階では「それがハンター邸にあった」という繋がりしか見えてこない。ハンター氏邸移設工事の報告書にもそのへん書かれてなさげだし。まあしかし、英国流のプレス整形らしいこと+わざわざ「大日本」なんて入れているところ+「B.C.H.J.」っていう表記は外国を意識したものであるだろう。
明石は造兵厰工事の時の煉瓦を焼いた場所の一つ。うまく行かなかったみたいだけど。
そうじゃねえかなあと思って見に行った阿振川橋。明治33年末にはすでに完成していた深山軍道第一部にかかってる。根っからのコンクリートアーチの可能性がある。ホントにコンクリート橋だったら日ノ岡11号橋より本河内低部堰橋よりも古い。
型枠の跡がなく塗り込めなのは昭和45年に拡幅した際にアーチも塗りあげたからだという証言を得た。齢80のこの方が記憶する限りでは昔からコンクリートアーチだったという(それでも遡れるのは戦前昭和が限度だけど)。で石アーチの塗り込めでないことは石橋台幅がそのままアーチになってるところから推測。大谷川とは違うのだよ大谷川とは。
T12に県道移管された時、深山軍道第一部は幅5m、第二部は4m。阿振川橋梁は幅5mで大谷川橋梁は3m〔Ref.C03012149200〕。合うねぇ。阿振川橋だけ広いのは係船場から深山連隊への通路にあたるからだろうな。
C07071895400 どっかで引っ張ったっけ。
日曜日。気合入れて朝6時に出発したのに岡町駅に折り畳み自転車のネジを忘れてきてしまってW.B.ショックレー、というところから一日が始まり夜8時までレール柵に取り付いていた馬鹿である。
野田尾の全柵を調べ終えた。期待していたような古いレールはなかったけれどもWENDELが出てきてフランス枠が埋まった。英国米国独逸国に白耳義仏蘭西が出揃ってそれだけでなんか楽しい。あと野田尾隧道の入口柵は32Kgの満鉄レールだった。こんなところにまで広がっていたのか>MR。
現役の福知山線を全線調べたらさぞ面白いことになりそうな気がするけれども、沿線で最も難所だったのがこの廃線区間なのであって、他ではそんなに使っていないようにも思われるし、しかし阿草があれだったのだしなぁと思うと捨て置くこともできず。テイのいい泥沼である。渓谷沿いは怪しんだほうがよいのかも知れぬがこれ以上範囲を拡げるつもりはない。
どこで区切りをつけるか迷う。残すは北山隧道の辺りだけなのだが、あの辺りにある柵はどれも新しい柵で、その作りから察するに大正以降のレールがメインになっていると思う(事実そこにBSCO STEELTON>CONTESCO<を見た)。そこまで調べるとしたら少なくともあと一日二日は通わなければならないし柵図の作図だって馬鹿にならぬ労力だしそのくせ出発点の気概というか狙いというか、要するに「こんな古いレールがまとまって存在してた!」という発見の驚きと喜びとを希釈する方向にしか作用しないように思われてためらわれるのだ。しかも深入りすればするほど説明が必要になるわけで、レールの製造の話だとか規格の変遷だとかいうバックグラウンドの説明までしなければならなくなることは必至であり、首を突っ込み始めて間もない自分が自分以外に懇諭し尽くせるほど理解できているわけでは決して無いのだ。打ち切っても進めても泥沼の中であることに変わりがない。
午後から武田尾へ移ってCAMMELL 1874の拓本に挑戦する。長い上に肝心の年号のところに金具があって、なおかつ「4」が欠けている。苦労して作った割にはさっぱり役に立たないものになってしまった。まあいいこれも練習だ。Darlingtonの平底レールはそれなりに綺麗に取れたけれどもこれも年号が欠けている。B陰刻がとれたことに満足しておくか。そうそうこの柵の年号不明CAMMELLが1874であることを確認できたので都合3本の残存が確認できたことになる。CAMMELLの平底は他に1878があったっけ。考えてみたらこれも曲者だな。その頃には大阪京都間できてたでしょ。大津より東なのかな。
ついでに夜間雨中探索のとき落とした手拭いを回収することができた。ズズ汚れた汚ねえタオル、と思ったらそれだった。
先日大津へ行った時に見かけた看板。赤字が退色て読めなくなった、よくあるタイプの「穴埋め問題」看板。元は銭湯の中に掲げられてあったものらしくその場における注意事項が書かれてある。 なかなか難易度が高い。
最後のこの穴がどうしても埋められなかった。パソコンで「うきん」と入力し変換すれば答えが出てくるに違いないのだが、安易にわかっても身につかないだろうと思い控えている。そうしてここ二三日事あるごとに考えているのだが、やっぱりわからない。わかりそうでわからないのがいやらしい。
みなさんもどうか答えは教えないでいただきたい。
_ マフ巻 [素晴らしい。売れ。]
_ nagajis [材料費一個20えんだからなあ・・・儲からないかも。 そのまえにs9100/s9000使ってはる人が居ないような予感。 とりあえず欲しい人はメールくださーい。]