nagajisの日不定記。
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夕食までは常日に同じ。夕食後軍歌演習。自習時間は始は真剣ならざりしが、後になるにしたがいて真剣味加る。今夜より「カヤ」をつる事となる。朝の中は昨日の事が気にかゝりて授業はぼんやりとすごす。以後は忘れろと心に決めた為、忘れかけていた。未だ気弱き事を知る。頑張れ!! 〔欄外朱:幻を追うこと勿れ 町田印〕
春㬈に似ざる寒き日なりき。故に夕食後台上に於ける切磋会の際湯ざめの点も原因なれど鼻水出づ。
午後は作業(手榴弾の構造機能)あり。其の力偉大なるを知る。自習時間は物理に全く費せリ。物理は全般的に不解。又やらんとする勢出でず。
〔欄外朱:勢を出さずば益々不解〕
四・〇〇非常呼集ありて全校生徒棒倒しを実施したり。大牟田市見学の為五・〇〇集合す。三池染料工場は実に化学工場にて九割は直接・間接的に軍需品特に爆薬なり。次に亜鉛精錬・亜鉛板製造を見学し科学の力に驚きたり。次に三池炭抗を見学したるも抗内に入れず残念なり。そこにて昼食す。時に十三・四五なりき。学校着十六時半。科学工業の如何に大切なるかを感じ又大牟田の町がきたなきを知りたり。十八・一〇広幼一年訓練旅行にて来り迎う。今夜一泊す。点呼後森の弟等三名の佐中出身者に遇う。広幼は慥かに厳格なりき。松浦の二回目の命日にして点呼後雄健神社に詣ず。
穴に向かって内向的な叫びを叫んだら気が済んだので寝る。そうしてNeXTのキーマップを確認して安心する姑息さも忘れずに。マイノリティであるのは変わらないんだけどな。そのうえ同系統だし。ちなみにアンケートの王様は全13種類。みなさんコンプリートしましたか?
昨日はふと思い立って写真をひとまとめすることにした。間違って買ってしまっていた60GBのHDDに、バックアップ画像をすべてほうり込んで。これで今後の作業が楽になる(以前はいちいちバックアップから取り出していた)。Picasaはないけど純正のビューアが結構使い物になるからG4・400MHzのClassic Macでもしばらく戦えそうだ。
画像はもう少しあるかと思っていたら20/60GB程度だった。そんなに撮るほうじゃないし、そんなものかも知れない。
アンケートでご指摘いただいていた苔縄をやろうと思う。写真は撮ってきているので背景調査を進めている(上郡の役場に尋ねたら町史編簒室の方が親切丁寧にお教え下さった。有難いことだ)。現状では竣工年と正確な撤去年月日を把握。どなたか当時の写真をお持ちではありませぬか。
というか、この企画、「喪われた道」という割には隧道ばっかりだよな。我ながら考え物だ。
夏に向けてORJTシャツを作りたい。唐突だがそう思う。
…ええと着るTシャツが無くなったからだとかそうゆう貧しい理由ではありませんので念のため。自分が在籍していた自転車部では毎年夏になる前にTシャツを作る習わしがあって(侮る無かれこの風習、1966年の創部頃からあるという由緒正しいものだったりする)、その癖?が抜けなくて、ちょうど今頃に何か作りたくなるのです。以下続く。
反省すればきりがないのだけれど、とにかく無事終わってほっとしている。参加者は自分も含め11人、少数精鋭の廃道巡り。
てるてる坊主の効果は確かにあって(感謝!)、柱本と旧池田に行っている間は本降りになることはなかった。一瞬パラパラと降った程度だ。さすがに市街へ戻ってきた頃には激しくなったけれども、ズブ濡れになるようなことはなく、ただしその雨のせいで駆け足になってしまった感じは否めない。まあ、仕方ない。隧道入れば雨凌げるしね。
自分の廃道ツアーは隧道を鑑賞するというところにウェイトを持っていった企画だったので、解説することに徹したわけなのだけど、それで良かったのかなあという反省はある。みんなでワイワイやるタイプでもないしなぁ。そのへんはヨッキ氏のツアーに任せようかと思ってみたりしている。
個人的には旧池田が見違えるほど整備されていたのには驚いた。北側の道は踏み跡がつけられてるし(お陰で脚立が楽に運べた)、南側も遊歩道的なものが作られてるし、隧道周辺の草木もきれいに刈られててて、写真の構図に困るようなこともない。5年前、初めて出会った時から別物かと思うくらいにきれいになっている。それはそれでとてもいいことだと思う。これくらいの価値のある廃隧道は、多くの人の目に触れてこそ真価を発揮するだろう。
もう一つ、隧道の真上に峠があって、そこに経塚があったことも驚きだった。ずっと松峠(だったか志野峠だったか)にあるものが6番経塚だと思っていたのだが、そうではないらしい。帰りにその経塚への案内標識が(最近新しく)つけられていることにも気づいた。(新説)とあるので定説のものではない=経塚自体が最近見つかったものなのかも知れない。やはり1度行っただけじゃ見過ごすものが多すぎる。何度も足を運んでこその廃道。
商業的には決して成功とは言えなかった第一回なのだけれど、注目度としてはそこそこ良かったそうだ。やはり中途半端に都市部に近かったことと、行けばあることがはっきりしている(行き方もはっきりしてる)ところばかりを持ってきたのがネックになったみたい。ほらそこ、nagajisだからって言っちゃだめ!アタリなんだからっ!
あとは参加された方がどれだけ満足してくれたかだよなあ。廃隧道を見て何を感じたか。ただの廃物件だと思われただろうか。それとも唯一無二の良いものと、思ってもらえたか。
そうだった、写真置き場を作ろうと思って忘れている。こういうのにメールを使っても大丈夫なんですかね? 規約読み直さなきゃ。
ともかく、最大の仕事が終わって、肩の荷が降りた感じで、気が抜けている。次回は梅雨明け。まだやるつもりかって? もちろん! 今度は一泊二日で計画しちゃる。とっておきの廃隧道+廃林鉄を一気に陥れるからッ!
今回のツアーの反省の意味も込めて、今月末、彦根の佐和山隧道でOFF会をしようかと思っている。日の目を見なかった第一案を実行するのだ。自分は扁額の拓本採りたい。現段階では5/31(日)、雨天順延。土曜日のほうがいいかな?
帰ってきてから37号、終わってすぐさま廃道巡と、息つく暇がなかったのだけれども、地味にGWの収穫が凄かった。上谷上道は奇跡の里道だし、土倉道はアンクロワイアブルだし抜け抜けだし、隠し玉は炸裂するし郡道だし。大杉谷林鉄はヘタレてほとんど行けなかった。水越線だけ行ってきた。レールのジョイントパーツを片手にタイムアタックしてきた。余った時間で再訪した荷坂峠も明治道だった。何ということだ。これ抱えたまま東熊野街道進めろというのは拷問だ。
本当はもっと死ねる計画だったのだが、やはり無理なものは無理なのだ。軽いテントとコンパクトなシュラフがないと駄目なのだ>大杉谷林鉄
さらに国東。廃隧道ツアーと銘打つならこちらのほうが相応しい。OFFとはこうでなければならないと学んだうえ、それ以上をすることが不可能というのを見せつけられて17日だからなあ。参りましたホント・・・。
ゆえにポテンシャルもやや低め。道の駅かみきたにて。何のためらいもなく捨てることができたのは缶コーヒーを買ったからだった。500mlペットボトルを買ってたりしたら途方に暮れただろうと思う。
なんとなく、同じ間違いをしそうな気がする>自分。この間違いが気づかれていないだろうこともうすうすわかる。
六甲OFF、東熊野街道、廃道巡ツアー、GW、・・・。ORJもそうだがKINIASも進めないといけない。GW中泊めていただいたお礼とか。書かなきゃいけないこと・しなきゃならんことが溜まっている。
そういう時ほどココに書くことが減る傾向にある、と書こうとして「本当にそうか?」と思ったり。ここ1カ月ばかり重圧でうんともすんとも言わなかった分だらだら書いてしまいそうでもある。事実そうしてダラダラ書いている。金にならないことを$$と書いてる。それがいちばん気楽でいい。
いまのうちにガッツリ書きためておくのがいいんだろうなあ・・・いやこれはORJの話。昨年のG.W.OFFもそんな感じだった。5月末にはもう戸倉書いてたものな。しかし今回ばかりはちょっと量が多くて書きはじめるのもためらわれる。東熊野街道だってルポはまだ構想段階だ。全部出し尽すにはマジで年末までかかるだろう。それ(ネタ)が読者的に面白いかどうかはさておき。
写真だけは何度も見直して反芻している。このヌケはどのラインを取ったか、次のカーブは何だったか、倒木の右と左と、どちらを通ったか。ちゃんと覚えていられるだろうか。飽きずに読んでもらえるものが書けるだろうか。不安と同時にワクワクでもある。
昨年の今ごろ、GW前なんかは特に、全くもって不安しかなかった。ネタが尽きるんじゃないかという不安。飢えで体が持たないんじゃないかという不安。しかし奇跡のG.W.OFFに助けられ、廃道本に助けられ、今年は今年で廃道ツアーに助けられでまだ生きている。幸せなことだと思う。どれもこれも、本当にみなさんのおかげだ。こっそり秘密裏に陰で何気なく感謝してますから。その分働きますから。最後まで。
www.the-orj.orgとcore.the-orj.orgがごっちゃになりつつあるのでcore.the-orj.orgのほうにもリダイレクトをかける。無料号以外のダウンロードページはまだチェックできてないのだなこれが。あ、とするとあれか、ひょっとしたら動画リンクが機能しないか。チェックしよ。
2byteファイル名の扱いに慣れようとしたのが余計に混乱した。Aタグで呼ぶ時は2度rawurlencodeして入れる必要があるようだ。imgで呼び出す時は1度でも2度でもダメっぽいのは、なしか。仕方なくimage.phpを噛ませてあるがひどく無駄なことをしているような気がする。
とりあえず公開した。1号価格=募金額を指定できるようにしてはという意見もあったがバックヤードがこん柄勝手炒るので弄るのが恐い。額の設定はたぶん「購入しますか?(y/n)」の画面でしてもらえばよいのだろうが・・・その後の処理がややこしげだ。クレカで1号購入の場合はどうするの?(手数料は?)とか。
基本的に過去記事の寄せ集めなので長くORJを読まれている方には魅力がないかも知れない。仕方ない。むしろ最近読み始めて過去記事のことをよくわかってない方にいいかも知れぬ。追加で新しい記事を書こうにも私にはネタがないしな。
今後何か関連するような記事が出てきた時に追加するつもりにしている。TUKAさんと受付に頑張ってもらおう。
官報. 1888年10月26日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2944837/4
関西煉瓦会社にジョン・ウェィクフィールドなるイギリス人を雇い入れたという告示.関西煉瓦の煉瓦が英国系だということの証左になるか.
農工商 ○煉瓦製造教師 兵庫県明石郡山田村関西煉瓦会社にては本年九月より明年三月迄の期限を以て英国人ジョン,ウェクフィールドを煉瓦製造教師として雇入れたり(兵庫県)
官報. 1894年10月05日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2946650/2
濃尾地震を受けて行なわれた煉瓦煙突調査の中間報告.
官報. 1925年09月18日
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956071/3
官公庁に納入する煉瓦の規格を定めた告示.210x110x60mmという旧JES規格が採用されてる.工業品規格統一調査会は大正10年設立.
明治大正大阪市史. 第7巻
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1237186/28
造幣寮建設の由来記がある.かなり詳細.輸入した器機が火事で焼けたため工事が遅れた.
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1839414/296
ほか.関西に関係あるもののみ抽出.太字は筆者のメモ用強調.
(P.507)
第一 明治初期時代
我が邦に於て耐火煉瓦製造工業の著しき発達を来たしたるは明治二十年前後なり.明治初年東京及び大阪に於て政府自ら本業を開始したる時より明治二十年前後を以て,之を斯業創始時代と見做すべきなり.明治の初年政府事業として耐火煉瓦の製造をなしたるは,東京なる赤羽工作分局,深川工作分局及び大阪なる造幣局の三社とす.
造幣局は明治元年八月大阪市外淀川畔に起工し,一時事業を中止し,更に二年五月工事を続行し,四年二月工を了へたり.二年五月英人技師ウォートルス来着するや,江川某をして後年の大阪砲兵工廠所在地たる鴫野に登窯を築造し,自己監督の下に建築煉瓦及び耐火煉瓦を焼成せしめたり.建築煉瓦は数百万個を焼成せしも,耐火煉瓦は成績良好ならざりしを以て廃絶したり.然れども之れ維新後に於て新進の学理を応用し,耐火煉瓦を製造したる嚆矢なりとす.越えて五年には四分六法と称し,英国製耐火煉瓦使用後の破層を適宜の粗度に砕きて得たる不粘質物の六分に,所謂焼粉或はシャモットと称する摂津西宮産の粘土四分とを配合し,之を成形したるものを骸炭窯上にて乾燥し,更に此窯内にて焼成せしことあり.西宮粘土を耐火材料としての使用は此の時に始まれり.明治三年起工に係る大阪砲兵工廠は,当時普通建築用煉瓦は造幣局製造のものを使用したりと雖も,諸金属熔融爐及び其の他諸窯に必要なる材料は造幣局と同じく皆外国製を採用し,内国製を主に使用するに至りしは明治二十五年頃とす.然れどもこの一局一廠が夙に耐火煉瓦を本邦に輸入し,諸金属溶融爐及び骸炭窯等に使用し,又石炭によりて強度の火力を得ることを知らしめ,大阪地方の工業者に対し,其の用途を実地に示し,更に進んで耐火材料の実地研究をなし,之が製造方針を直接間接に民間に教え,我が邦に於ける斯業の解説を輔けたる事実は大なり.
(P.516)
大阪地方
大阪に於ては造幣局及砲兵工廠に於て耐火煉瓦需用の事起るや,之に促されて最も早く斯業に従事したるは田中盛秀にして,明治九年西成郡福島に工場を開き,之を盛秀館と称せり.之を大阪に於ける個人経営に係る耐火煉瓦製造工場の嚆矢とす.爾来継続営業し来りしも,明治二十四年に至り廃業せり.盛秀に次ぎ斯業を起したるは明治十六年岡崎,高原外四名の合資を以て,造幣局砲兵工廠其他硝子製造工場に耐火煉瓦を供給する為,西成郡西野田に工場を置き,五成舎と称したるもの是れなり.耐火煉瓦製造所に於て泰西の新教育を受けたる邦人の専門技師を招聘したるは該舎其の始めにして,其の製品も優良のものを出したるに,他の事情の為,明治二十五年解散の悲運を招けり.
明治十六七年頃より耐火煉瓦製造を企つるもの漸く続出するを見たり.明治十七年硝子用坩堝,冶金用耐火煉瓦,亜爾加里用耐火煉瓦等製造の目的を以て,津枝三雄工場を北安治川に設け,製々舎と称せり.而して原料には備前産蝋石の使用を開始し,殊に硝子用坩堝の製造に心を傾けしかば,従来専ら使用せられし信楽焼坩堝は,為に大なる影響を蒙れり.十八年九月には渡邊貞助及び西村徳兵衛の両人資金を合せ,貞徳舎と称する工場を北区梅ヶ枝に開き,主として硝子製造用の目的に供する耐火煉瓦並に坩堝の製造に従へり.然るに業務拡まらず収支償わざるに至り,二十二年工場管理者大野半助に其業務全体を譲渡せり.二十一年西区湊町に広瀬倉平の工場起り,硝子用坩堝及び耐火煉瓦の製造をなし,翌二十二年七月には中臣吉郎兵衛(n注:丸三耐火煉瓦)亦た工場を南区難波に設け,技術に関しては斯業研究の為,嘗て独逸に遊学したる杉山昌大の指導を受けたり.後,二十五年十二月に至り,横山善三の工場亦た難波に起れり.創業当時は自己の本業たる銅及び雑鉱の精錬に使用する目的を以て耐火煉瓦を製造したるが,後には広く之を販売するに至れり.
(P.531)
大阪に於ける個人経営の耐火煉瓦工場は広瀬倉平,横山善三両工場の外,北村市松,筧繁之助,藤本喜三郎(n注:製々舎)の三工場あり,二十二年貞徳舎の工場を譲受けたる大野半助は,二十九年また継続営業者たる北村市松に譲りて廃業し,北村は尚お貞徳舎なる商号を用い,工場を東成郡鯰江村新喜多に置き,耐火煉瓦及硝子用坩堝の製造を兼業す.三十年七月中臣吉郎兵衛の死去と同時に彼が難波の工場は,筧繁之助之を継承して後日に及べり.丸三耐火煉瓦製造所は創立者吉郎兵衛の命名したる所にして,後の営業者亦,之を襲用す.次で三十四年津江三雄の逝くあり.其の子葆父の業を次ぎしが,三十九年十二月之を工場の管理者藤本喜三郎に譲りて廃業せり.喜三郎は翌四十年工場を南区難波に移し製々舎なる商号を襲用し,硝子用坩堝の製造を廃し,専ら耐火煉瓦の製造に従い後に至れり.此の外北区同心町に工場を有せる正盛館中辻萬造も硝子用坩堝の製造を主業とし,傍ら耐火煉瓦の製造をなせり.
斯の如く,大阪の耐火煉瓦製造業は明治三十年を過ぐるも著しき発達を見ざりしが,二(n注:三)十六年四月に至り品川白煉瓦会社の支工場南区木津三島町に起れり.品川白煉瓦会社が工場を設置するに至りたるは,当時新に獲得したる伊賀島ヶ原の広大なる原料を利用して,大阪の工業界及び筑前八幡なる製鉄所に製品を供給し,進んでは清韓其の他東洋市場に新販路を開拓せんとする業務の根拠地たらしめるものなり.この工場は三十七年八月に至り,諸般の設備全く成りしかば,之を大阪支社と名づけ,直ちに各種耐火物の製造に着手せり.而して京都三重兵庫岡山の一府三県に亘り,新に原料産地を取得し,之を大阪支社の採掘地に供し,その設備に就てはメンドハイム最新倒焔式瓦斯連続窯即ち十四室より成り,一室並型七千個を焼成し得るものを築造し,原料の粉砕,練成及び成形には総て機械の力を応用するに至り,関西の斯業界は為に一新生面を開くに至れり.
(P.544)
第六節 建築煉瓦
建築煉瓦の名称は,時に妥当を欠く場合あり.普通煉瓦の呼称も亦,往々にして誤解を招き易き場合なきにあらず.茲には建築煉瓦を以て耐火煉瓦に対称するものとし,又普通煉瓦は装飾煉瓦に対称すべきものとして,共に之を建築煉瓦中に配属せり.
第一 普通煉瓦
煉瓦の語は,早くより煉化石と称し或は(n注:セン)字を用うる場合もあり,明治の中年頃まで,博覧会等に於ては専ら煉化石の称語を用いたるも,民間に於ては夙に煉瓦の略名を慣用し来り,今日にしては全く普通の名称となりたり.而して一般に所謂普通煉瓦とは,重に耐火煉瓦と区別せる名称にして,或は白煉瓦に対して赤煉瓦と通称することあり.
此の煉瓦製造の濫觴は,安政四年幕府が長崎飽浦に製鉄所を起し(後の三菱造船所)蘭人ハルデスの監督により,長崎の瓦屋に命じて右工場用の煉瓦を焼かしめたるに起る.夫より維新後に及び,明治二年には大阪造幣局の設置あり.播州明石の瓦屋をして,同工場の煉瓦を焼かしめたるも,其の結果不良に終りしより,更めて大阪の瓦屋に命じ,英人オードロスの監督の下に,焼製せしめたり.又其の翌三年には,大阪造兵司分工場の大砲鋳造所を椎口に設くるに当り,同所の中島成道は,其の工場用の煉瓦を堺にて焼製せしめたるが,此の際同地の瓦屋原口忠太郎の担当にて,極めて堅牢のものを得たりき.
(P.548)
尚お関西地方の創業に関しての諸井の所説を参照するに,其創業は関東よりも稍早きが如く,明治二年春阪神間の鉄道敷設に際し煉瓦の需用起りて,始め堺市住吉通りなる旧函館物産会所及び姫路物産会所跡に,工部省鉄道寮にてダルマ窯を築き,外国傭技師の下に地方労働者を使役して其製造に従事せしが,右工事の終るに臨みて之を鹿児島人原口某に払下げ夫れより明治七八年頃に及び,原口製造所の外にも二三資本家の合同によりて稲葉組と称したる煉瓦工場の設立を見,爾来両三年毎に一二個所づつ漸次に小煉瓦工場の数を増加したるも一ヶ年の製造高は合計二三百万個を出でざりし,而して琵琶湖疏水工事用のために山城国山科に登り窯式煉瓦製造所を設け明治十九年七月製作に着手し翌二十年の一箇年間に六百万個を作り出したるは当時に於ての記録なり.又日清戦役後即ち明治二十八年より三十年までの間に於いて同業の勃興最も著しく,同年末の大阪府下には会社組織のもの三十二ヶ所,個人経営のもの十九ヶ所ありて,其の他尚お素地成形のみに従事するもの亦,数ヶ所ありしと云う.然るに同年十月より翌三十一年に亘り,経済界の逼迫を極むると共に,煉瓦業も亦大恐慌を来して,同三十三年頃には前記の三分の一の工場を存せるのみ.而して大阪方面に於て最も早く輪窯式を採用せしは,明治二十一年頃の大阪窯業会社にして(同社は明治十五年創立,同三十二年堺に移る.所謂「窯業」の称語は同社を率先とするが如し)其の他にありては広島に至る関西地方を通じて,同三十三年頃輪窯を有せるもの八ヶ所にして十二座を見たるのみにして,他は皆手抜製を用い居たり.
明治工業史建築編の造幣寮のところではウォートルスが英国から輸入したものか等とテキトーなことを言っている.耐火煉瓦は輸入だとしてもな.ちなみにこの本にブリキの語源説の一つが載っている.
Whois情報が変だから凍結しといたYO!言われた……。おかしいんだったら移管完了した時にゆうてーな。と無知を棚に上げて愚痴る。
FAX番号の表記がおかしかったのと市町村名番地建物名の辺りに空欄があったのがいかんかった模様。仕方なくマンション名部屋番まで記載するはめに。お陰で個人情報ダダ漏らしですわ。まあ10年前からなんだけどな肝心な所は。
青い。あれ、つい先日に一個見た気がするぞ。
本当は湖北に行くつもりであったのだけれど例によって目覚められなかったので変更した。結果、凄まじく行き当たりばったりな旅になり、そのくせ収穫は大きかった。
私が探索に出る時は、長々と暖めていたネタに向かっていくことが多い。最近は特に。資料集めて吟味して、よし確実に記事になるという段階になって、最後の仕上げとして現地訪問するというパターン。しかし今回はネタ発見から解決まで24時間かからなかったという超短期決戦であった。といっても、情報自体はちょっと前に拾っていて、それをすっかり忘れていただけだ。昨日の晩にふと日記を見直して、拾っていたことを思い出したのだ。そうして朝寝過ごしてしまい急遽代替として行ってきたわけである。
あってほしいものがあり(ただし京都鉄道社章だとは全然思っていなかったんだけど)、300m登って300m下ってまた引き返して完全確定さえできたし、序にフィーレンディールな保津峡橋を拝んだ上に落合橋まで行ってくるという暴挙までしでかした。念のために書き添えておくがトロッコ列車の軌道を歩いていったわけじゃないからな。そんなことしたら保守点検か再開予行練習やっていたあの列車に刎ねられている。唐櫃越から降りたんだ。
そうして落合橋の下の川原に買ったばかりのLEDライトを落としてきた。今ならまだあるはずだが今日明日の雨で流されてしまうかも知れぬ。
トロッコの保津峡駅。PM7:00頃の雨の駅舎、誰もいなければ電車が着くこともない寂しい場所。自販機すらない。小さな折りたたみ傘でビショビショに濡れた私がひとりいただけである。
そうそう、これこれ。福島区海老江2丁目の府道に面した公園の。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/54/5_54_185/_pdf/-char/ja
京都製瓦 今熊野町雀の森に白地工場
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/56/5_56_265/_pdf/-char/ja
中國鐵道株式會社の煉瓦工場
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/57/5_57_290/_pdf/-char/ja
津守煉瓦株式會社 當地東區の樋口六右衛門、水落義平、宮本利右衛門三氏外二名により出願
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/57/5_57_290/_pdf/-char/ja
讃岐煉瓦會社 金森清之助君は先月來同會社に勤務中なるが豫て同會社は本會員わる海福悠君の設計に係る輪窯の新築中
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/58/5_58_339/_pdf/-char/ja
煉瓦事業 東筑坂井村字大野田は目下工事中の篠の井鐵道冠着隧道の入口なるが今度東京鹿島組にては此附近鐵道工事の需要に應ぜんとて去月上旬より此所に三町八反歩の地を求めて人夫百餘名を役し既に六七十坪の工塲二箇所を建築し今や窯の築造中の由にて同窯出來上り次第更らに人夫二百名を增し盛んに之れが製造に從事する筈なりといふ尚鹿島組は鐵道工事のある地方には隨所煉瓦工事を設け其需要を充たさん計畫次りという
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/5/60/5_60_407/_pdf/-char/ja
名古屋監獄署の煉化石 名古屋監獄署の囚徒が製造する煉化は實に上等品にして全國各地の製造所に於て製出する煉化中稀に見る處ものなる由なれば今回鐵道局にては同署と約束を結び鐵造用に使用することゝなしたるよし
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/61/6_61_454/_pdf/-char/ja
京都大學建築用の煉瓦に就て。府下の煉瓦が粗悪とて大阪堺の煉瓦に限るとした。不満続出。ついでに山城煉瓦も。鹿背山の福島弓太郎外三名の發起。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/64/6_64_584/_pdf/-char/ja
東京附近煉瓦製造業者の困難 鉄道建設に伴う小工場の簇出
大阪近辺の不況。
淡路國津各郡岩屋町にて営業中なる岩屋煉瓦株式會社
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/65/6_65_635/_pdf/-char/ja
京都大學使用の煉瓦 第一工事の際京都奈良堺等各地方の製造者に入札せしめたる結果一個一錢三厘六毛の割合にて堺、奈良兩煉瓦會社協同にて百六十三萬個を引受けしむる事となり
香川縣下の煉瓦業は近頃頓に其頭數を增し隨て競爭起り相塲次第に下落し一時一個一錢二三厘の品目下五六厘位に降り時しも物價騰貴職人の賃錢高く今の處到底持切れされはとて廢業を企つる向もありと聞く
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/68/6_68_787/_pdf/-char/ja
大坂に於ける煉瓦業の不况
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/6/70/6_70_890/_pdf/-char/ja
堺市煉瓦業の盛衰
M30頃の煉瓦不況があったものだからか、煉瓦関係の記事が極端に減少してしまう。まーそうか、新しい商売のタネには敏感、潰れていく会社には何の価値もありますまいて。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/7/77/7_77_176a/_pdf/-char/ja
大阪窯業株式會社煉瓦製造の改良
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcersj1892/7/84/7_84_446/_pdf/-char/ja
大阪商況
入り口にからと越の看板→石垣を何度も見る→かなりの傾斜→登り上げ右に折れ石垣の下→尾根に取り付きその先端をじぐざくにのぼる→左に巻いて→谷筋を登るので洗掘進んでいる→一度尾根にもどってまた谷筋→この辺り背丈を下る木のトンネルで薄暗い→洗掘が右に行くところで左上に空→草木に覆われ気味なそっちへ行くと標識の立つ暗部。たぶん唐櫃越の端ではない。そこから左の尾根の側面に沿ってつらつら→基本的に尾根の若干下を右側を行く→不明瞭になった頃杉林、よく下刈りされているので見通しがいい→「境」の標識が端、植生、左から右に越える細道→沿って行くとまた下刈りの杉林、勾配があがって→右方に送電鉄塔。ここで鉄塔方面へは灌木バリアだがこっちのほうがわかりよいかも→尾根を辿り続ければガレが目立つようになる。まるでズリ山→そのまま杉+灌木帯をずるずると落ちていく→現行トンネルの真上に出る→そこから水平に左で地蔵第一。地形図の水平道はこの辺りに見当たらず。レールフェンスの水平には道がない。もっと上で水平に巻くか?
現行トンネルの真上からは水平道なし。その東の谷で水を得て帰る→小さな滝になっているのを上り超えた辺りで水平道が。朝日トンネル方面へは行かず。
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