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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1941-05-18 この日を編集

[陸幼日記]五月十八日 日曜日 曇後晴

昨日の母よりの手紙に十八日に熊本に来ると記してありたる為、我は上熊本駅へ十一時まで行く。それまで写真を受取り、川野と共に教導学校へ行く。十一時列車致着、少しぼんやりしている処を母と妹の目に入る。一月お目にかゝらなかりし為、嬉しかりき。直に階行社にて昼食をとり、その際、写真帳と、父と華族の写真を受取る。以後母は用事なる為生徒監殿の自宅へ行く。我は妹をつれて水前寺の動物園へ行く。特に「マンドリル」「インドカモシカ」が目ずらしかりき。急ぎ生徒監殿の自宅へ行き母と共に帰る。市電にて熊本駅へ行きしが遂に乗りそこねた。その際は泣きたき様な気持す。十六時なりき。我はそこで別れをつげしが名残惜しさにたまらざりき。子飼橋の前まで市電にて来し時はすでに十六時二十三分、急ぎに急ぎて徒歩にて帰りし結果、三十六分かゝりき。往復徒歩なりき。今日は母と妹に会い実に何とも言えぬ感深き賢張した日なりき。 〔nagajis:賢張した→緊張した、か〕


1942-05-18 この日を編集

[陸幼日記]五月十八日 月曜日 曇

比較的涼し。午後は訓育学科・自習・柔道あり。柔道の際は接種のあとが抑うると痛かりき。腕をも痛めたり。上達せんには非常なる努力を要するを知る。


1943-05-18 アッツ島戦 この日を編集

[陸幼日記]五月十八日 火 曇

幾何考査あり。化学は写真を台上にてとりたり。起床時よりふらヽせるも授業七時間を通しがんばりたり。故に唯今頭の働明ならず。運動神経鈍し。昨日より独乙語補修授業が第三班にのみ行われ、昨日の結果単語を五割しか知らず残念なり。単語を知ればこそ独乙語を知るならんか。本月十二日よりアリューシャンの熱田島(アッツ島)にて敵数ヶ師団と我が軍の激戦中なり。ガダルカナルにも劣らぬものなり。学年切磋会あり。二訓は和して流るゝ勿れと。


2007-05-18 作業報告 この日を編集

[ORJ] 喪われた〜初校up、張子の虎さん寄稿四校

 追加の情報が手に入らなそうなので諦めてpdf化。元々の原稿から大きく変更になったのはそのせいだけじゃなく。読みにくいし構成悪いし。誰が書いたんだあんなもの。今回もあまり出来のよくない物語で申し訳ない。

 でも、アンケートの要望にお答えしてちょっと短めの7ページ。背景も軽い一枚画像にしましたので。16号の末席汚させて下さいまし。

 張子の虎さんの寄稿も四校目。修正しがいがあるぜ!

 残りはhyとTRDB。頑張れば江浪峠。その前に、最近全然触れていない近世以前土木のリストを仕上げてしまいたくもある。

[独言] にしても16号

 すごいよね。もうそんなになるのか。10とか15とかいう切りのいい数字でなく、16という中途半端な数字に積み重ねを実感しまった連日作業3日目。それはたぶん16進数でどうのとかいうものとも違う。ちょっと今までなかった感触。あれ、作業は4日目だったっけか。頭はいつまでも悪いまま。

[奇妙なポテンシャル] #7

 先日使い切ったトイレットペーパーの芯を何気なく見たら「毎度ありがとうございます」と印刷されていた。この言葉は果たして適切なのだろうかとしばし思い悩んだ。

 最後の一巻きを剥し使い切って初めてこの言葉が現われる以上、最後の一人に向けて用意されたメッセージと見るべきであろう。そうして「毎度ありがとうございます」という言葉からはこのトイレットペーパーを「購入」した者に対して向けられた感謝の念であることが想像される───使い切ったことに感謝するものでは*決して*あり得ない───。しかし必ずしも購入者が最後の一巻きを使うとも限らず、例えば複数の居住者がいるような一般家庭では購入した者以外の者が最後の一巻きに当たってしまう可能性が常にあり、居住者の人数をn人とすればその確率は(n-1)/nという高確率になるうえ、トイレの回数が多いお姉さんや不必要に巻取って遊んでしまう坊やなどのファクターを考慮すればより高くなるだろうことが容易に想像される。公共施設で用いられたりしようものならなおさらその感謝の念は行き場を失ってしまう。折角の配慮、ささやかながらも卑下だというのに、その成就への道が確率論的であるというのは、少々むごい話ではないか。

 ここはやはり、「最後の一人」に向けた言葉を印刷すべきであるだろう。紙が切れてしまったというある種の非常事態において現われる言葉なのだから、人の冷静さを失わないような、そんな言葉がいい。

 ここでいくつかの文例をあげて笑いを取ることは可能だが、それでは「奇妙なポテンシャル」のカテゴリで考察する意味が無い。ずばり提言したい。

 「紙が切れましたね」というのはどうだろう。


2008-05-18 修正 この日を編集

[ORJ] 25号、24号修正

ご指摘いただいた修正を反映させた版を作成。「焼過」か「過焼」かの件は、古い本の記述だと「過焼煉瓦」になっていて、そのほうが個人的には好きなのだが、JIS的には「焼過レンガ」というのが正しいもののようだ。いつも混乱する。今回は他の場面で「焼過」が2回出てくるのでそれに合わせた。

ついでに24号も修正版をつくる。今号の廢毒を作成しながら難漢字の読みを間違えていることに気づいていて、それをいくつか反映させる必要があった。漢字の間違いも一カ所ある。大変失礼した。また、発行後に心斎橋へ行く機会があったので、撮ってきた現況写真を追加させてもらった。こういう場でないと使わないような写真だしな。

購読期間を3カ月とさせていただいた結果、一番得したのは、実はnagajis自身なのかも知れない。慌てて更新する必要がなくなり、落ち着いて追記していくことができる。

そうそう、最新号のerrataは「メールで受け取る」のチェックを入れていようといまいと送りつけられる仕組みになっている。今はまだいいが、次号が発行されると送られなくなってしまう=購読期間なのに更新があったかどうか解らない、という事態になりかねないのでご注意いただきたい。最新号を購入されたらチェックボックスのチェックをお忘れなく。

[ORJ] TRDB原稿

逢坂山トンネルの記事を書き始めたら、案外膨らんできて、ここへ書く文章のタッチに影響が出るくらいにのめり込んでしまった。井上勝も国沢能長も面白い明治人だと思う。伝記があればぜひ讀みたい。

文章量に比して写真がないのが最大の懸念。周辺情報は少しばかり膨らませられるだろうが、それ以外の写真、足りるのか(西口の碑はとっちょらんけんね)。


2010-05-18 この日を編集

[KINIAS] 5月22日(土)大仏鉄道見学会

近畿産業考古学会プレゼンツ。廃線跡を歩きます。たった9年しか使われなかった線で、隧道1つ橋梁跡いくつかしか残ってないけれども、現地が再開発真っ最中で近日中に撤去され尽くしてしまうかも知れないということで、チェキラ!

詳細はhttp://kinias.jpへ。私も行きますので参加希望の方は私あて(nagajis_at_the-orj.org)にメールくだされ。

[Web] サーバ移転

検討の過程でほげふがをぴげなみょんしたらアカウント越しにサブアカウントが設定できてしまう上にdb接続できてしまうことを発見した。有り難いことは有り難いのだが、こいつぁせきゅり的にどうなのよ。

数年前の古い号と無料号、pdbtdbはそちらに移して、ということを考えたが、じゃあここはどうすんのさ。s23鯖に入れたら分離の意味ないじゃん。(503になるのはアカウントの転送量に対してなのか?ドメインに対してなのか? たぶん前者だろうな)

[独言] 楽天のばかー

オークションで落札したいものがあるので仕方なく会員登録したったらその後になって携帯で認証しないと入札できないとか抜かしやがる。携帯を持たないおれを馬鹿にした仕様だとしか思えない。くそ。ああそうさそうやってひとを小馬鹿にしてりゃいいさ。小馬鹿だし。

[企画] 勝手に探索OFF

近々高見山の軌道探索したいと思いTELしたら速攻で情報。更新。「禁忌の山と谷」もとい「近畿の山と谷」の図にあるごとくであった。ただし設立年ほかは不明也。吉野側へ出したということは東吉野絡みかと思いこの方面にもTELしたが掠りもしなかった。

1人で行くなら大和上市から走ってゆくかな。2、3日泊り込みで。木津隧道とか請取峠とかも見てみたい。

もしくは八鹿町へ。アクセスどれくらいかかるだろう・・・大阪からだと3時間ってところか。薮がまだ薄い頃のほうがいいだろうな。こちらの場合はやまあそさんを誘わないといけない。

てすtろ

徐々に移行中。redirec permanentで飛ばしているので(orj.s9.xrea.comが5/25で消滅するのを除き)特にリンクを書き換えていただく必要はなさげ。こっちはさーばを変えたら絶対パスを書き換えないと動作しない。当たり前だっちゅうの。動的清々したファイルがSAFEMODEに引っ掛かるし。すげーめんどくせー。

[企画] ふんふん

柱本Tシャツ予約フォーム完成。前回使ってたのの流用じゃがね。

画像の説明オブっぽい所で喜ぶJIS男Tシャツはボディの色決め打ちだからさっさと受注した。これが届いたら表で販売しようそうしよう。そのかわり送料分ちょっと多めに頂きますよ・・・(あ、写真撮ってねえ)

[Web] てすと

[独言] ふはは

さっそく間違えたぜ! 独逸のお隣さんごめん。kyudoではなくkyudouな(この崩壊したヘボン式表記が気に入っている)。

本日のツッコミ(全5件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ 渡邉 [入金がされていないという罠#7です。ハイ]

_ iso [おお! ただ「花」だったのが「蕨」に変わっている! ということに感激して一点追加しておきました。もたもたしてると転送されてしまうという時間制限つき投稿欄もまた罠。]

_ iso [あれ? さっきまで「注意喚起標識」だったのが「ほげふが」になってる。と思ったらまた「注意喚起標識」に。これ、2枚あるのね。そして蕨とワラビーが連続して出ないと寂しくなる予感。]


2011-05-18 この日を編集

[] 地図をかく

書きながらいろいろ足りないよなぁと思い始める。両郡橋の煉瓦サイズ。姉妹水の件。舟木橋の親柱。深瀬橋(だったっけ)の橋脚も調べられたらいい。そういや大宮町史はほとんど読んでいない。完全解明に至らないことは着手前からわかっていたことなのだが、一度書いてしまうと追加が面倒。ではある。

一旦提出して意見を求める・・・という想定はアンケが返って来ないだろうからあんまし意味がない気もしてきた。要するに次号担当分で適度なものがないから持ってこようと思い付いたまでで、なんだ。

今から追調に行ったら尾鷲迄行きそうな勢いだしな。それはちょっときつい。


2012-05-18 この日を編集

[] 指定府県道

戦前にも主要地方道のような位置づけの県道があった.以下覚書.

大正9年内務省令第6号「道路法第52条但書ノ規定ニ依リ監督官庁ノ認可ヲ受クルコトヲ要セサル件」第1条第5号の2
内務大臣ノ指定スル府県道以外ノ府県道又ハ其ノ附属物ノ新設又ハ改築ヲ為スコト」>内務大臣が指定する府県道の存在.本来は府県道=府県知事が認定するが,産業経済上国家が関与すべき重要な(県道)路線があるという考えから,上記のような「指定府県道」が存在した.国が補助金を出して改修.これは昭和初期に何度か樹立され,完遂することのなかった道路改修計画(昭和4年『産業道路改良計画』指定府県道のうち6000kmを10年間で改良<昭和恐慌で頓挫 昭和7年『道路改良計画』昭和11年度までの5ヶ年で5000kmを改修)なんかと関係がある.
指定府県道の路線採択基準
大正15年9月決定『指定府県道路線採択基準』
一 府県庁所在地より隣接府県庁所在地に達するもの
二 府県内指定枢要地より之と密接の関係を有する指定枢要地,指定港湾又は枢要なる鉄道停車場に達するもの
三 府県内指定港湾より之と密接の関係を有する枢要なる鉄道停車場に達するもの
四 国道又は前各号の一に該当する府県道より分岐し数個の枢要地を連結する重要なる幹線にして指定枢要地,指定港湾又は枢要なる鉄道停車場に達するもの
〔注〕
一 指定枢要地とは市又は二千以上集団戸数を有する地区を謂う
二 指定港湾とは大正十一年内務省訓令第六号第二条に規定するものを謂う
三 枢要地とは府県道の起点又は終点たるべき枢要の地として既に採択したるものを謂う

 で,大正15年9月1日内務省訓令第832号をもって指定が行なわれているらしいのだが,この原文が見つからない.昭和11年に改正された時のもの?は松波さんのところにある.

 指定府県道は各都道府県ごとに号数をつけて指定された.例えば奈良県の指定府県道第2号線は宇智郡五條町から尾鷲までということで伊勢街道+上市木本線みたいなものになっている.西熊野街道も指定府県道第6号ということになってる(S11時点).指定府県道は昭和27年の新道路法で二級国道になったものが多い.

 実際に指定府県道が指定府県道指定を受けたことで得られた恩恵はあったのだろうか.東熊野街道の沿線には昭和10年代の改修物件が多いのだが,特にこの頃改修対象になっていたという話を聞かない(把握してない).指定府県道指定に伴う改修があったと考えたらいいのかも知れない.

くそう,『道路の改良』にあったのに半分しかねえ.その前の号にも載っている。テキスト化したもの20130326へ。

田中好による『所謂指定府県道に就て』(道路の改良第9巻第1号)

T15の成立の背景、指定府県道の考え方はこれがいちばんわかりやすい。T12に郡道が廃止された結果、いまいちな府県道が増えたため、府県道の重要性・位置付けがあいまいになってしまったので、府県道の中でも特に(国にとって)重要な府県道を選び出し、積極改修の途をつけようという魂胆。(しかしT15のは訓令止まり。T16から1/3補助で改修する案も立ち消えになる。そうしてやっと10に第6号が改正された結果S11に告示される?)

あと神戸大学新聞記事文庫にもわずかだがあり。

道路公債法

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453029/507

旧道路法成立の直後に成立した道路改修計画。国道、軍事国道、主要府県道を国の補助で大改修。しかし関東大震災でポシャる。

第六号の修正 官報 1935年04月04日

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958952/2

昭和11年の路線告示の前段階として?「内務省が指定するものの他」が入る。そうそう、大正9年に出た第6号には「の2」がないのだ。


2013-05-18 この日を編集

[独言] ゆうゆう窓口

最寄り郵便局の時間外窓口が8:00~22:00に変更されていることを知らなかった.迂闊だ.

[独言] 可能性の論外

そんな言葉を思っている午前0時半.高望みと訳すべきか無茶とするべきか.

[煉瓦] 手整形煉瓦に関する発見

ここ1ヶ月ほど手整形の煉瓦を触り続けてきた結果、面白いことを発見した。手整形の煉瓦には必ずといっていいほど「掴んだ跡」がある。手整形の煉瓦が手元にある方はぜひ確認していただきたい(滅多にいないと思うが)。

確認方法:長手の面を下にして、横向きに置いた煉瓦を、上から両手でわしづかみにした時、平の面の中指と薬指の当たる辺りに微妙な凹みがある。いかにも自然な位置で、そこを掴むとバランスよく持ち上げられる。微かな痕跡なので指を滑らせて探してみてほしい。見つかったらおめでとう、百年前の職人と同じ手さばきを追体験していることになる。

指先の跡は平の面の平滑なほう(大きな筋が入っていない側=形枠に詰めた時に表を向いていた側;盛り上がった煉瓦をピアノ線などで削り取るため繊細な横縞がついている)にあることが多いようだ。形枠から抜いた直後の柔らかい煉瓦を移動させる時か、乾燥場に並べる時ににそうやって掴んだのだと思う。煉瓦は長手か小口を表に見せるように積むのが前提だったから、その面を触って歪めたりしたくなかったはずで、そうすると親指と残り4指で平の面を掴むほかない。また煉瓦を乾燥させる時は長手を下にして並べればスペースを有効活用できるうえに乾燥も早いだろう。そのような状態にするためには作業のどこかで柔らかい状態の煉瓦を「立てる」必要がある。煉瓦刻印が裏表についていることが多いのも、どこかで煉瓦をひっくり返す工程があったことを示唆している。

この跡は、手整形煉瓦の平の面の片側に目立つ筋がついていることが多いわけ(手整形煉瓦の製造工程)を解明するヒントになるかも知れない。関西地方の手整形煉瓦には平の面の一方に顕著な筋が入っていることが特徴と指摘されていて、枠からはみ出した煉瓦を削り取った時にできたものと説明されているが、自分は疑問に思っている(じゃあ何なんだ、がうまく説明できないのだが)。作業の最後の段階で煉瓦がどちらを向いていたか、この指の位置で読み取ることができるはずだ。

といったことを誰かに伝えたいという思いだけは枯れていない。それが尊いことだという評価もいただいた。それを信じて主張し続けることが、今の自分には要求されている。


2016-05-18 この日を編集

[独言] the-orjつながんない問題

とにかくサポートにメール投げてみた。ちょっと前からDNSがおかしくて緊急メンテとかしてたみたいだからそのせいかも知れぬ。nagajisは寝て待つ。

わけにもいかないのでindexでも作っておこう。kyudou.org以下のフォルダとしてアクセスしたらテス行けるんだ。


2017-05-18 この日を編集

[煉瓦展] 展示スペース諸元

4.4m×7.6mの空間に私説関西煉瓦製造業史を詰め込むのである。

展示数72。最大108。

掲示物 36+1+1+サテライト1.8mx1.8m。と展示名称幕。

正面壁面。

を一時間ちょっとで掲げてしまわないといけないなんて無理ぽん。

中国地方も含め72個に収めることは可能。重複や耐火煉瓦耐酸煉瓦舗装煉瓦やちょっとそれはさすがにまずいだろうというあれとかそれとか会社不明のイリヤマ火とかを省いて尚多少の余裕がある。それらを許容するなら煩悩の数用意することはできる。できるが運べない。あと展示する時間がない。

正面壁面の消長グラフをいかに短時間で張り上げるかにかかっておる。かかっておるのである。

[ph.] 石垣の石臼

画像の説明富田林の寺内町の外れで。石垣に石臼を生け込む?と石垣が安定するという言い伝えがあるそうで、自分が住んでいるところの近くにもあるのだが、ここで見たものは中々本格的かつデカい。直径2尺はあるんじゃなかろうか。こんな大きな石臼をどうやって回したんだろうと思う。廃棄処分と決めるのもなかなか勇気のいることだったのではなかろうか。だって高価そうじゃん。

寺内町ではこのほかにも唐臼の台とか駒繋ぎ石とかもあった。このへんまではまだ想定の範囲内だが意外と煉瓦も多かったりした。やはり古くから保たれている街並みにはどこからともなく入り込んで抜け出せなくなった煉瓦が多いようだ。保存されない住宅地ではこうはいかない。

ここ数年、岡町の住宅街を横断する生活をして、当初思っていた以上に速い速度で建物が建て変わっていくのを目の当たりにしている。気づいた時からすでに壊れかけで放置の態だった古民家が取り壊されるのはもちろん、安泰だろうと思っていた準豪邸が何の前触れもなく取り壊され更地になってしまったり、その跡地にそそくさとプレハブ住宅が育ち素知らぬ顔をし始めるのを目撃したりもする。岡町を知るようになってからこのかた変わった街区の戸数は両手じゃ足りない。下手したら両足使ってもなお不足する。

そういう跡地で煉瓦を採取したこともあるけれども、チリ一つない更地になっていることのほうが多い。ここ何十年かの間に2度3度と建て替えられた結果かも知らぬ。少なくとも戦前を保っている家はごくわずかしかないはずで(両手両足の例えをまた使いそうになった)、その割に煉瓦溝が残っているのは逆に興味深い現象なのかも知れぬ。区画の民家が古いから煉瓦溝も無傷なのではなく煉瓦溝を残して上っ面ばかり更改されている場合も多いようなのだ。どこかに必ず民家跡更地がある状況が定常状態なのであり、至って普通の状況であるのか、それとも特に今が建て替えの時期なのかはわからない。ただ言えるのはそうした改修によって煉瓦溝まで無くなるケースが多いであろうことと、今後も増え続けるだろうということだ。そのうちすっかりコンクリ溝になってしまったらそれはそれで寂しいものがあるけれども、だからといって保存する価値(普遍的に通用する価値)があるかと問われたら否と応えるしかあるまい。どう考えたって煉瓦溝のほうが不便なのだ。破壊に乗じて普段見ることのできないものを見ることができている現状を受け止め感謝しておくほうが建設的でもあるだろう。


2018-05-18 この日を編集

[古レール] 60#-4と60#-5と60#-9

阪鶴鉄道に採用されていたレールは60ポンド第4種・60ポンド第5種・60ポンド第9種という3種類の規格だったそうである(というより国有化後にそう命名された。私鉄各社が各地から輸入した様々な断面のレールがあって、それを整理して第1種~第9種まで分けたっぽい)。60ポンド第4種は所謂ASCE規格。第5種と第9種は図面を見る限り全く同じ形状のように見え、なんで分ける必要があったのか理解に苦しむ。

改めて図面をよく見てみると、レール同士を繋ぐ継目板に若干の違いがあるように見える。穴の位置がわずに違う。60#-5はブッシュの首の付け根から少し離れたところに穴が開いてて、60#-9は首付根に穴の縁がかかっている。でもレールに開けられた穴の位置は同じなのだな。てことはこの継目板の形状の違いのために第5種と第9種を作ったことになるのだろうか?

60#-5の「元山陽新型」と付記されたほうの継目板には、この継目板だけ銘記があって「CARNEGIE 99 (山陽鉄道マーク)」と書かれてある。とすると同じCARNEGIEの1896 HANKAKUが60#-5に相当するのだろうか。だとすればもう一方の6015 ILLINOIS HANKAKUが60#-9なのか。といったことを 書きなぐってみたあとメモを確認したらどちらも60#-4と測っておった。ふむ。

そういやILLINOISには山陽鉄道マーク入りもあった。セクションナンバーは6007。Oさんに頂いた資料を見ると6015と6007で若干違う(当たり前だ馬鹿者)。それが60ポンド第6種「山陽旧型」になるのか。しかし山陽鉄道と思しきSTKはCARNEGIE 96 STKがあったしなあ。うーん、だから断面を調べなければならないわけか……

あ、俺えらい。CARNEGIE 96 STKは60#-5or60#-9と測ってた。だとしたらこれが60#-5でいいんだろう。じゃあ阪鶴の60#-5と60#-9はどこへいったんだ???

ついでに60#-3と60#-4はボルト穴の位置が違うだけで断面形状は一緒であるらしい。そんなん柵に使われとったら判断でけへんやん。時々ボルト穴開いてたのもあったけどそこまでメモしちょらんけんな。

画像の説明

阪鶴線で使われていたものらしい継目板は、じつは一個見つけていたりする。しかし写真を見る限り、軌条及附属品図にある断面とは似ても似つかないかたちをしている。困ったことだ。


2023-05-18 この日を編集

[独言]東洋組覚書

M20.5. 会計課主計係近藤義次の作成した回答案。知事→内務県治局長。2種あり、後者の方がやや詳しい。東洋組は諸工業の試験と実業を目的とした会社で発起人は斎藤ひとり。株主なし。その中に瓦製造会社と煉化製造会社がありそれぞれに定款を定めていた。株主募集はこれら会社についての株。賦金は東洋組に対してのもので、その棄捐の責任を両会社の株主に負わせられるかどうかは法律上の問題。また瓦製造・煉化製造会社は合併して天工会社となった(天工会社株主は東京華族を中心とした5?名)。ここで天工会社が倒産すると事態がさらにややこしくなるため(県の方で)懇篤説諭した結果、東京株主の朝山頼誉が地方税貸金一万六〇五〇円を弁済、愛知株主の粟生重寔が賦金五九〇〇円を弁済することで合意。また東京株主は旧西尾藩士に株を譲り、旧西尾藩士は精成社を新設して事業を継続。朝山の地方税貸金はたしかに弁済したが粟生負担の賦金が未済のまままだったようだ。以上のようないきさつから東京株主に対して賦金弁済を求めることはできないとしている。而してこの時点で「精成社も土崩瓦解するに到れり」で顛末が終わっているが、精成社はM19.3.時点で解散し西尾士族生産所になっているはずなのに書かれていない。而してM19.3.時点で鉄道省御用の煉化を製造していてM21.22.棚卸表がある。粟生負担の賦金を「食い切る」ための精成社であり廃業ならんか。

東洋組発起人は名前は出てこず「資力なきものなり」と埒外。M19.末頃に南部が代納を願い出たり取り下げたりしている間に裁判があった?(破産宣告された?)


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