nagajisの日不定記。
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中期としての授業始まる。午前中学科三時間、及び自習或は術科一時間なりき。午後は午睡一一〇分と自習或は術科一時間なりき。後は前に同じ。起床五時半、朝食六時半、七時半より授業なり。少しのんびりとなりたるが、体がだるく、睡眠不足の感せり。
〇八・〇〇より野田生徒監殿離任式。ビルマに行かれるものなり。ついで入江少佐殿命課布達式あり(四十八期・士官学校区隊長にてあられたり)。四十八が少佐なれば慥か多田仁三さんも少佐に昇進せられたるなるべし。ついで帰省申告を行い、訓示あり。大陸者は直に帰省、東京以北は午後出発す。誕生日会。一〇・四〇より遊泳携行品検査。午後愛校作業。準備気が乗らず。夕食後のみにて終了す。来るべき時は来たり百三十日ありし前期もようやくにして終る。此の喜かくすべからず。一年生の心を偲び、二年前の予を思いぬ。
ソクラテスとプラトンの対話。
ソクラテス「同じ荷物でもリアに積むと重く感じるのは何でやろね」
プラトン 「いきなり何やねん」
ソクラテス「ほら、自転車が後ろに引張られるっちゅうか」
プラトン 「人の話聞いてへんやろ」
ソクラテス「思うにあれ、リヤキャリアやとモーメントが発生するからやと思うんやわ」
プラトン 「対話ちゃうんかい」
自転車旅行では嫌が応でも自転車の重さ(荷物の重さ)のことを考えさせられる。特に峠を登っている時など。自分の食う食物あるいは自分が食うものを作るための道具あるいは自分が一夜を快適に過ごすための寝具が積まれているということは百も承知なのだが、極限状態下に置かれるとそんなことなど構っていられず、彼我の境地を乗り越えてあらぬ方向へ怒りが炸裂する。こんなに載せやがってクソが。誰や米5kgなぞ買うたんは重いんじゃボケ。ハンドル回されへん。次のコンビニで皆なほかしたる。出て来い責任者。と。そういう荷物への恨みつらみが募って余計に自転車を重くする。そうして峠に着き、下る頃にはもう忘れている。
在部時代に「リアに積むより前に詰め」という経験則を得た。リアが重過ぎると「後ろに引張られるような感じ」がして漕ぐ足が鈍った。そういう時、重いものを前に移せばーーー総重量は変わらないはずなのにーーーなぜか軽く感じるのだ。だからブスやピークワンなど重いものは必ずフロントやフロントサイドに入れた。リアはできればシュラフやロールマットだけに。4サイドで旅をする時も無意識に「後ろ一つはゴミ入れ」的な使い方をしていた。わざとかさばるゴミを入れて軽くしていたのだった。
あれは何だったのか。重心が高い故に左右に振る力が必要となるからか。あるいはただの錯覚、リアカーを引くか押すかの違いでしかないのか。見えない所で小人さんが加勢してくれているのか。峠に登りながら何度そんなことを考えたことだろう。
結局納得いくような答えは出ずじまいだったのだが、それが自転車旅をあまりしなくなった昨今、ようやく解ってきた。「モーメント」が作用しているのではないか、というものだ。
モデル化のため荷物を一つの質点と考える。フロントサイドは前輪のハブの辺り、リアはサイドとキャリア上の荷物を勘案して、タイヤの上辺あたりにあることにする。
ソクラテス「で、平地を走っとる時は単に支えとるだけやから、 仕事量はゼロや」
プラトン 「そういってあなたは何人の弟子を騙しましたか」
これが坂道にかかると、荷物にかかる重力は斜面からの反力に拮抗する成分(A)とそれに垂直な成分(B)に分解される。
ソクラテス「いわゆるひとつのベクトル分解や」
プラトン 「ほんまや」
最初はこの力Bが後ろに引っ張る力なのではないかと思ったが、そうではあり得ない。なぜならフロントサイドのBとリアのB'の和は結局は荷物の質量和に比例する。どちらが重かろうと軽かろうと変わらない。
ソクラテス「そこでモーメントですよ」
自転車のハブを支点と考える。フロントの荷物による力成分は支点そのものに作用するため何も起こらない。
プラトン 「適当なこと言うとるやろ」
ソクラテス「黙って聞き」
ところがリアの荷物はタイヤ円周上にある。坂道と水平の成分B'とタイヤ半径Rの積、すなわち回転力が生じるのだ。
ソクラテス「な、モーメントやろ。このモーメントが自転車を後ろ向きに回転させんねん。これが『引っ張られる感覚』の原因やで」
プラトン 「言いたいことはわかった」
プラトン 「で、何でおれがこんなしょうむない談義に加勢せなあかんねん」
ソクラテス「黙って聞き」
この回転力すなわちモーメントは、坂道が急になればなるほど大きくなる。
プラトン 「その前に、あり得へんわこんな坂」
そうして終いには転倒に至る。
ソクラテス「な、転倒したやろ」
プラトン 「あり得へんっちゅうねん」
落ちもなく終わる。哀れ、プラトン。
皆様のおかげで理解が進んでおります・・・。多謝!
御礼にもならなさそうですが、この絵図の秘密、お教えします。
この岩切通のハイライト。実は・・・
こうなってます。右の岩切通しも同様。
岩をも通す信念もさることながら、実況を何とかして絵図に再現しようという気迫の伝わる絵図。失礼な話かも知らぬが、これを見て感服の余りに腹を抱えて笑ってしまった。人間笑うしかない状況ってあるものです。(ちなみに現地でも余りの物凄さに爆笑した)
リンク修正しました
最後のお願い。この絵図の題名は如何。恐らく代官所への提出用と思われるが確証はなし。また(可能なら)書かれた背景も知りたし。
ここまで極彩色に描き、現場を再現して見せなければならなかったのはなぜなのか? 山論などでは絵図の正確さ説明の手際よさが判断の決め手になったという話を聞いたことがあるが、まさか「こんなに頑張ったんだから何かクレ」って書いたわけでもあるまいし。概略資料 では、村の有力者や役人が市蔵の善行を喜び高山代官所へ表賞方を伺うとある(その結果、市蔵は銀5枚、息子の弥吉も銀2枚を褒美として頂戴している)。そのための書か。端書きを解読するか、この絵図の表題が読めれば、と思うのだが…。
いまのところ、こんな感じかと思ってます>表書き
(飛騨?)益田郡中洞村中ノ宿村地(内?)字地蔵尾■■■
(飛騨郡?)高山壱之町村百姓市蔵道造(直?普請?)■■絵図
左端はgreek to me・・・
左の岩切通の辺り(中洞村と中ノ宿村の境)が地蔵尾という地名。市蔵はもと商人であったが隠居して事に当たったということなので百姓でよさそう。出身は渚村だが当時は高山の壱之町村に住んでいたはず。
最終日に左目に入ったゴミを取ろうとして眼球を傷つけてしまった模様。生活に支障はないが撮ってきた写真のピンが確認できない。ううむ。
5日走って3日雨という辛い旅。しかしそのうち1日はまるまる移動日、2日は半移動日であったので何とか生きて帰ってこれた。メインの探索2日分はよく晴れてくれたので助かった。暑かったけどな。
第一期東熊野街道完全攻略。支線探索。予定の出来としてはほぼ百点に近い。プラスアルファもある(後述)。ただ今後、体力的・精神的にこんな自転車旅はできないだろうなというのが今の印象。
まことにどうでもいいがマダニ耐性を身につけたようだ。計6匹。というかやっぱり今まで気づいてなかっただけだよね。ついでに山ヒルとアリともお友達になれた。
雨のしと降る伯母峰峠を登りながら考えた。
ボタンを押すと棒々鶏が表示される腕時計がほしい
もちろん「いま何時?」と聞かれた時のためのギミック。そしてそれだけが唯一のとりえ。ガンジーでも可。やがて替え歌ができて。うれしくなった。
いま何時? そうね棒々鶏
いま何時? ちょっとガンジー
いま莞爾 世界最終戦争論
不思議なものね あんたを見れば 胸さわぎの腰つき 胸さわぎの腰つき 胸さわぎの腰つき
奈良県某所で3000m級の廃隧道を捕捉。末端は確実に閉塞しており身長を越える深さの水没がある可能性大。
ボート必須だが自身の持つ2人乗りを自転車で現地まで運ぶのはまず不可能。車で連れて行って下さる方、および大型ボートを提供して下さる方お願いします。早ければ9月の連休にでも。2、3泊するのであれば東熊野街道の真髄も御案内しますよ。
笑犬楼無事、に掛けたつもりだったんだけどな。くふ。
いちばん大事なことを宣伝しないでどうするよ。実業之日本社「廃道本」の宣伝を兼ねたトークイベントが開催されます。遠くで。(ベタ)
日時:9月6日(日)
場所:TOKYO CULTURE CULTURE
お代:えーっといくらでしたっけ?(獏 確か2000えん前後だったような気が。
廃道とは何か?から始まってココでしか語れないアレコレなども喋ります。ORJの裏側を知りたい方や滅多に目撃されることのないnagajisをじっくり観察して木の枝で突いてみたりしたい方はぜひ。あと物品販売もありますのでnagajisの帰路旅費捻出にご協力ください。
書く途中で落ちたー。奈良県立図書館蔵四両では大正6年開通、9年延長申請、大正10年3月31日着工期限が12年まで伸びて5月21日に免許失効だった。その後伸びた形跡はなし。
十津川の木材が五條に出るようになったのは国道168号が整備された昭和34,5年以降という。初代の天辻隧道はさほど影響を与えなかったということだ。天川周辺はそうだとしても。長殿発電所の資材が運ばれた功績はあったとしてもだ。
自分に無関係なところで話が回ってるそうだ。いつものことだ。どうぞご自由に。
天神津川の天井川隧道は思ったほど膨らませられんかった。せいぜい毛見に言及する程度。頁割が慣れないから原稿が余る&足りない。石製ねじりまんぽの難しさだって想像だもんなぁ。
組積造の構造物が目地に沿って割れるというのは実は稀なことだ。煉瓦でアーチを組んで圧縮破壊させた実験の論文がどこかにあったはず。目地が充分に施行されてれば目地で壊れるのではなく煉瓦が砕ける。石もそうなのかも知れない。コンクリブロックではどうなんだろう。
あまり信頼できない文章の中でだが昭和40年代からという話。これはK1さんの話に合致する。しかし吉野川の砂利採取は昭和42年より禁止。あっても短いものだったのだろう。これも書き直さないといけない。
用木−パルプ材ーチップ。中2の頃チップに。考えてみたらあのお父さん、よう正確に覚えてはるなぁ。自分が中2の時に起こった出来事なんて覚えてねえやは嫁に行き。お里の便りも絶え果てたっと。しかし中越パルプは42年から北米チップ輸入開始となっている。施錠が複雑に絡んでるなー。
新発見とか何だとか騒いでも所詮は一地方史だからな。
動画の手ぶれを後付け補正するソフトがあると知りいろいろ試してる。
使用前:http://www.youtube.com/watch?v=ymEy-_UbP-c
使用後:http://www.youtube.com/watch?v=_slQWI6ow8w
どちらにせよ酔う・・・
豊中まで帰り着いて食った牛丼大盛り+卵がとてつもなく美味かった。これ以上ないという位に美味かった。ドラマやCMで牛丼をもりもりがつがつ食っているシーンがあると思うが、まさしくあんな感じ。どかどかどかっと一気呵成に食えてしまった。はしたなく山盛りに盛った紅生姜の爽やかさ。卵のぬるぬる。濃い味付けの牛肉。すべてが五臓六腑に染み渡り胃や腸ばかりか指先足先にまで行き渡るのを感じた。涙を流さんばかりの勢いでがっつく自分を省みて、ああおれはこれを欲してたんだなと思いつつ一気に嚥下し平らげたことだった。そのうえ完食後に「もう一杯行けるかも」と思ったほどだった。
本当に疲れ、空腹になっている時の食事はうまい。たまらなくうまい。きっとそれは上等肉のステーキとか国産鰻のふっくら蒲焼とか一貫数千円の上トロ寿司とかよりもはるかに得難い食だ。幸せな食だ。わずか490えんで手に入る幸せだ。涅槃だ。越天楽だ。ああ、自分は再びこんな幸せな牛丼を食う機会があるだろうか。きっとないだろう。体調、空腹度合い、疲労感、口寂しさ喉の乾き、様々な未知係数を含む多次元関数の解を試行錯誤なしで探り当てたような快感。今日は偶々それを探り当てることができたに過ぎぬ。毎回答えが得られるはずがない。次回食ったら完食する前に満腹感を感じて食い難くなるに違いない。
N氏と庄原市の公園で食ったカレーが懐かしい。あのとびきり旨いカレーは何度も夢見て挑戦するが再現できた試しがない。トルコみやげのあの唐辛子の酢漬けが見つからない。高級スーパーにあると教えてもらったが貧乏人には立ち入り難い。加えて根本原理として炭火で作らねばならないような気がしている。未だその条件だけは再現できていない。ガス火ではいくら火にかけたところでどろどろになるだけだ。遠赤外線で一気に火を通す必要があるのではないか。 ガス火で長時間煮込んでいると旨み成分や辛味成分が変質してしまうのではないか。あああのカレーがくいたい。
最近いなばのタイカレーの缶詰が旨いと教わった。これはマジで旨い。というかタイカレーの食べ方を間違っていた。少量ずつかけるかルーを先に口に含んでご飯を投入すべきだったのだ。ごはんにぶっかけてしまうとシャバシャバしたものになってしまい哀しいカレーになる。そんなことをしてはいけない。タイカレーの陵辱だ。インドカレーも本来そうやって味わいつつ食すべきものだったかもしれない。しかしもうメタル食品は存在せず版権?を買い取って作っていた大同食品も製品を見かけなくなった。
ああ牛丼はうまい。まるで麻薬だ。疲労し空き切った胃袋に紅生姜たっぷりの汁だくの牛丼を掻き込みたい。しばらく足を遠ざけて、思い出した頃に思い出したように食いに行くといいかも知れない。疲弊しきった体をひきずって。嗚呼。
思いがけず話が膨らみ、積年の恨み疑問が晴れた。なるほどそういう絡まり方をしていたわけか>失業救済事業。手抜きせず資料3を精読すべきであった。結論としては因数分解することは不可能。昭和10年に竣工した隧道を(バックグラウンド掘らずに)時局匡救なのか農村振興なのか判断することは不可能。
一気に霧が晴れた嬉しさの余勢を駆って新規作成ったがオチが思いつかない。残るは命くらいか、というのはあてはまらないからなあ。自分には。
そういうメタなまとめ方はよくねえなあと思いつつそれしか思いつかない。仕方ない。
天網賊烏賊烏曽爾仕手洩らさずというやつだ。そのような罰当たりには 盗んだ銘板の数だけ保安キックと保安チョップを食らわせてやる。それ。うりゃ。恢々。壇家支援。応珍腹芸。
夕方にラジオで聞いた時には中国向けのコンテナを差し押さえて押収というところを聞き漏らしていたものだから、マジで銘板マニアのしわざだと思っていた。
M24達が意図していた 9 x 4-1/2 x 2-1/4 ins. 煉瓦。これを作るための型枠を考えた時、素地の大きさの9割に焼き縮むと仮定すれば、
( 9 x 10/9 ) x ( 9/2 x 10/9 ) x ( 9/2 x 10/9 ) ins.
= 10 x 10/2 x 10/4 ins.
= 10 x 5 x 2-1/2 ins.
とさっくり計算できる。すげえ。そしてこれが8:4:2寸の型枠で作れる。
_ 酷道774号 [ワロタ。面白杉]
_ nagajis [ありがとうございます。頑張って書いた甲斐がありました(汗 しかし、どのへんが奇妙なポテンシャルだったか...]