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旧道倶樂部録"

nagajis不定記。
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1941-10-08 この日を編集

[陸幼日記]十月八日 水曜日 晴

校外訓育あり。往復電車なりき。目的は健軍神社なれど、公設運動場辺にて托磨原戦と菊池氏の代々の勤王につきて下川生徒監殿の話を聴く。子孫に至るまで勤王なりしは菊池氏のみなり。敗けても異にせっず、我々の学ばざる〔ぶべき〕点多き事ありしは誠なり。砲兵の馬の小さきに驚く。

〔nagajis:托磨原戦の「托」を正しく起こせない。手偏に「モ」。針磨原の戦いのことか〕


1942-10-08 この日を編集

[陸幼日記]十月八日 木 晴

昨日より気温4C゜下り冬になりたる感じしたり。然れどいまだ15℃乃至16℃と聞き驚く。歴史の時間は教官殿欠勤せられし故、両洋思想(民主・自由・個人主義)の発達に付き研究す。午後は 御左遣予行あり。我特別十三名の中に入り鉄棒(振り上り)をなすことゝなれり。当日失敗せざらん如く十分に練習せん。以後は明日の教育総監の兵器検査の為手入に眼をまわす。敏速に、且つ徹底して充分なさゞるべからず。


1943-10-08 フィリピン独立 この日を編集

[陸幼日記]〔日の丸を朱書きし〕十月八日 金 晴

大詔奉戴日。「熊農生徒数百見学に来る」校長閣下訓示=戦意の昂揚につきての先日のを具体的に。崑崙丸(関釜連絡船)沖島付近にて五日二時敵潜艦の魚雷に沈没す。我々としても一層敵愾心に燃え目的に邁進せざるべからず〔一層~べからずに朱傍線〕。午後正科の二時間目及運動班運動は運動会準備に鍛う。烈しき運動三時間にして自習時大部眠たし。日曜が待ち遠しくなれり。運動しすぎたる感あり。
比律賓独立す。昨日、日本より帰国せしラウレルが大統領なるべし。独立せんとするもの一度は日本に来るを本則とするが如し。猶独立宣言は十四日なり。アジヤ人愈〃一丸となり米英に対すなり。アジヤの幸も目前にあり。陸軍服制改訂。中隊長以上の長は章をふし航空生徒は右胸に〔二葉プロペラを正面から見たような図〕なる章をつり統帥を明かなるべくするものにて肩章大きく各部の〔陸軍Mマーク〕はやめ襟につく


2007-10-08 作業報告 この日を編集

チャットのまとめ。

昨日はアンケートの話から始まって、いろいろな話題が出たものの、メインの議論は「どういう記事が望まれているか」という話だったと思う。きっかけは「遠方のルポであることとアンケートの回答数が関係するか」だったのだが(これは身近な場所のほうが親近感が湧き、アンケートにも答えやすい、という意見と、それは関係がないのでは? という声があって、後者が優勢)、それが発展していった。

  • ORJにはとっつきにくさがある(特に初めて接する人にとって)
  • それは取り上げられるネタに地域の偏りがあって、自分の住んでいる地域ではないから興味を持てない、ということではなく、何か共通した問題がある
  • それがいわゆる敷居の高さになっている
  • 共通した問題とは。例えば「読む側に(ある程度の)知識が前提条件とされる」。説明が不十分というよりも、読者の理解に頼った書き方をしていないか?
  • 例えば「現地に赴く過程が簡略化されている」。起承転結の起が疎かになって(あるいはここに難解なもの・斜め上を行くものがあったりして)、承、転に力点が置かれているという意味に私は捉えた。
  • で、その「起」こそが、読む側にとって感情移入できるか=楽しんで読んでもらえるものになるかどうかの、大切なこと。なぜ(書き手)がそこへ行こうとしたのか、どんな計画を、どんな思いで立てたのか。そういう過程に親近感が湧くもので、感情移入しやすい=読んでもらえるものになる。

 振り返ってみると、自分が関わる企画(廃道を読む、TRDB、明治隧道project等)ではそういう導入が疎かになりがちだ。情報提供に徹していて、読み手に感情移入する隙を与えていない。ORJの創刊当初はヨッキ氏のルポ、あきら氏のイントロダクション・インストラクションがって、そのおかげで自分が情報提供に徹することができたし、それによって絶妙なバランスがあった。それがだんだんnagajisばかりが書くようになって、結果、感情移入の隙を与えない、情報過多なORJになってきたのではないかと反省する。

 nagajisのルポもあるにはあるが、やはり技術的な観点から見ることが多く、技術的観点は誰もが持ち合わせているものではないから、結果それほどの効果をあげていない。チャットの例えでいえば、誰もが楽しめる「旅番組」になれないのだ、知識提供だけでは。

 今日のチャットでも、これと繋がると思われる話をうかがった。廃道旧道の取りあげ方について。廃道旧道が、いわゆる古道ほどの興味を持たれていないのは、その道が持つ「文化」の掘り下げが疎かになっているからではないか、と。

 例えばその道を作った人、利用した人の思い、ぜひともそこに道を通さねばならなかった理由、そういったことの蓄積が道の歴史であると言える。そうした歴史にスポットライトを当てたいという思いはずっと持ち続けているし、一番大事なものは何かと聞かれれば、それを挙げるだろうけれども、しかし現状のORJではその掘り下げが足りていない。言葉を変えれば道のハード面ばかりに目が行って、ソフト面が疎かになっていると言える。これもnagajisがハード面に偏っていることがかなり関係している。

 nagajisが、というより、ORJ全体のバランスとして、ハード面に偏りがある。ソフトをもっと充実させなければ。それが結論。

10/15発行号作業

 ずっと有料化の話しばかりで、次号のことを書いてなかった。次号の製作もちゃんと進んでいる。TRDBと明治隧道projectの寄稿をいただき、これらはほぼ完成している(最後の確認をまだしていただいていないが、形としてはほぼ100%出来上がっている)。ヨッキ氏の特濃!はちょっと違うパターンで、ただいまレイアウトを作成中。久しぶりにオブロード案内も貰っていて、これはいつもの解説+写真on地図というデザインだが、新しい試みをやってみるつもり(pdf初校は出来ているが、ヨッキ氏遠征の朝に完成したで、ちゃんと見てもらえていない)。「廃道を読む」は全部終わらなかったので中編とし、(完)を次次号へ持ち越す。旧橋紀行もあり。ただし自分の原稿については今回のチャットのご意見を反映したものにはできていない(テーマからして一般受けするものじゃないしな)。最後に残っているは有料化の案内。これはしっかりやりたい。誌のバランスから言えば、できれば脳天気な探索記が一つ欲しいが。

 総じて、全作業の7割が完成。しかし残り3割が重要。それでも15日の発行が遅れるようなことはあるまい。


2009-10-08 うむ台風だ この日を編集

コースをよく把握してなかったが直撃じゃないか(汗

AM3:00 少し風が収まってきたような気がする。気が早いか。

AM5:00頃 時おり風が強く吹くだけでそれほどでもなし。ずいぶん東にスライドしているようだ。

AM6:00頃 ねる

AM9:00頃 うなされて目が覚める

AM12:00頃 青空広がる。追加問い合わせ

PM2:00頃 廃道ぼん概略に苦しむ

PM5:00頃 廃道ぼん概略にさらに苦しむ

PM7:00頃 ふて腐れて寝ることを決意 <いまここ

むしろととさんのエリアが心配。今はTUKAさんところ・・・北上せずに東へ抜けてくれないものか。青森のりんごが落ちるではないか。

[廃道本] うむ

ちょっと詳しい概略とかいいつつマジ書きになりかけているうえ纏まっていない。苦しい。チミはナニを言いたいのかね>nagajis。コンセプト立てたんならその通りに書き給え。

これは今晩中に終える。明日一日は旧橋とpdf修正。

本日のツッコミ(全6件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ nagajis [秋田のほうも大丈夫でしたかね。ニュースを聞いてた限りでは特に何事もなかったような感じですが・・・。台風の西側だから風弱かったかしら。]

_ とと [京都の上津屋橋(流れ橋)流されちゃいましたね…涙。流される瞬間のニュース映像はかなり凄かったですわ…。]

_ えも [こちらは登録してた防災メールが鳴りっぱなしでした。今週末作並行きの用事があるのに野坂と高柵山は現調厳しそうです(現役道のみでレポはできました:汗)。 皆様ご無事で何よりです。 リンゴも無事だと良い..]


2010-10-08 目がショボショボするよ! この日を編集

t/o.

[] これっぽっちも進まない

眼球マッサージすることで少しずつ回復しつつあるが、完全には治らず、合わない焦点のまましかめ面をしつつ書きてありたり。故に、ではないかも知らんがともかく進まない。あれは会と来た陰だけどな。流れがうまくない。細部にこだわりすぎ。

こういう時は書いた所を一度ざっくり消去して書き直すのが吉〜。とか何とか思いながら風呂から上がってみると、そこまで書いてすらいなかった。まだ峠越えてねえのかお前は。

それがわからんと書けんか……聞いて出てくるとは思えんが。


2011-10-08 この日を編集

ようやく8年辿った・・・。長いような短いような。して、まだ続く。残り離散的な8ケ月。

[奇妙なポテンシャル] #256

2^8もの阿呆を繰り返してきた成果が出てきたようだ。今日はついに

離散家族

という言葉にPsを見出してしまった。しかもその中身が、全くもって意味不明だ。訳がわからない。父親、母親、子供、祖父母、が数m感覚で並んでいるという構図(即ち家族が離散的に立っている=連続的に繋がっているわけではない)を想像してニヤけた、というものだ。「これは!」と思っていざ書き始めてみたものの、一体何が面白かったのか、これっぽっちもわからない。そのまんまやないかい節子。ならば全世界の家族はみな離散家族だ。

これが「不射之射」というものだろうか。

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

_ 38kw [飛散家族ですね]


2012-10-08 そして僕は途方に暮れる この日を編集

[独言] 一人称

そういえばいつから「僕」を使わなくなったのだっけ。小学校中学校の時は使っていた。高校の頃も若干の気恥ずかしさを伴いつつ「僕」だったような。同時にそれが「僕」とのつきあい辛さを感じ始めた最初ではなかったか。

大学の頃はあいまいに濁して回避していた気がする。いうなれば無人称。「おれ」は似合わないように思えてあえて使わなかった。自分にとっての「おれ」は筒井康隆の描く主人公であって星新一のエヌ氏みたいなものだった。さあていつになったら「おれ」が使えるようになるだろうなあと漠然と考えたことがあったはず。

そうそう、「じぶん」という便利な一人称を覚えたのだ。部で。どうしても一人称しなければならない時は「じぶん」を使った。この言葉、二人称にも使えるので便利だった。珍しく落ち込んでいるやつに「じぶん今日どうしてん?」とか。

完全に「わたし」に移行したのは卒研発表の頃だったと思う。練習で他の発表者が「ぼく」を使ってひどく笑われ、「わたし」でなければならないと教えられたのが決定打になった。ああこの年では「わたし」を使うべきなんだなと。そうしてやはり少々の気恥ずかしさを伴いつつ「わたし」を連発した。その気恥ずかしさはかすかに覚えているが、忽ちのうちに慣れてしまったことも思い出せる。そうしてTPOに合わせて「おれ」「わたし」を使い分けられるようになった。まちがいなく「おれ」のほうが後だ。

それからもう十何年も経過して、社会から乖離した生活をするようになり、人付き合いも途絶えて、自分を一人称で呼ぶ機会も稀になった。一人称の使い方を忘れてしまった。「おっちゃん」という自虐はずいぶん古くから使っていた気がするが、それが定着することもなさそうだし、そろそろそれが面白くない言葉になりつつある。かといって「わし」も早かろう。それを使わなければならない時期は、「わたし」同様、その時になってみないとわからないに違いない。

「わたし」を意識することはないものの、自分自身を思うことはもちろんあるのだが、そもそも身の回りに自分しかいない環境ゆえ、考えることはすべて自分に関係することであって、いちいち人称を認識する必要がないのだった。「腹減った」とは思うけれども「私は腹減った」とは思わない、そんな感覚がすべてを支配している。楽と言えば楽だし、非人間的と言われても反論できない。ただ生きているだけのようにも思われてくるが、それでいいに違いあるまい。

考えてみると、その点女性は有利だ。常に「わたし」でいいからな。

「自分のことしか考えていない」という言葉があるが、考えてみれば自分という人間が考えていることはすべて自分に関係することであって、自分(に関係する)のことしか考えられないものなのかも知れない、と考えてみる。どのように書けば喜んで読んでもらえるか、伝えたいことが伝わるのか、頭を巡らせるのも、その評価が自分に関わることだから、できるだけ上手くやろうと考えて頭を捻るのではないか。隣のギシアンに苛々するのもそういう機会のない自分の不甲斐なさを思い知るからではないか。公園の子供たちの歓声を微笑ましく思うのも、そういう平和な世界に自分がいることを認識してほっとするからではないか。どんなことも自分を基準にしてしか/自分にかかわることしか考えられないものなのではないか。

資料から情報を拾い、理論を組み立てている時だけは、ちょっと違う感覚があるような気がする。熱中しているうちに自分の存在が薄れていって、いかに矛盾のない心理を、落としどころを見いだすか、しか考えられなくなる時があって、そんな時は自分から離れることができている。自分自身の存在を忘れることができる。滅多にできない感覚だから、それをまた経験したくて資料に傾倒していくのかも知れない。


2018-10-08 この日を編集

[独言] 10/7メモ

明治四十二年四月三日 改修人 辻村嘉○

A1_x108x53
_x107x54
_x107x52
A2224x107x54
225x54x111
226x56x111
両端延伸? A1長手、中央は測れず A2長手はかなり誤差あり
B2224x110x79
(B1)225x112x78
225x114x77
継ぎ目なし
C1223x110x54
224x108x54
223x109x55
C2228x_x56
229x_x58
229x_x58
南側1/3ほど延伸←花崗岩
D1227x107x53
229x109x53
226x110x53
D内218x106x53
220x108x53
221x109x54
D2_x_x53
_x_x55
_x_x53
南側1/3ほどのところに継ぎ目? 外側は石灰岩、内部は石灰岩+花崗岩
藤井測定不能 幅4m
玉(小:子安地蔵)220x_x52
222x_x54
219x_x53
幅90cm
玉(大)225x105x53
226x106x52
229x106x52
幅3m

[独言][ph.] 硫酸瓶

画像の説明

どこかで撮っているはずなのだがいつも見つけられなくなる。必要なときに必要なものが出て来ないのは部屋だけではないようだ。なのでメモがわりにはっとく。ファイル名「DSCF8229.JPG」


2021-10-08 この日を編集

[独言][未消化] 風景論

風景論の本を読んでいろいろ思うところがあったのだが、いざ書こうとすると躊躇のほうが先に立つ。書いて何の意味があるかとか、過去に誰かが言っているはずだとか、うろ覚えに覚えていることがらを礎にして書く危うさとか、その他いろいろの原因に因る。

読んでいてしきりに思ったことは「いい風景ってなんだろう」ということ。風景論を書いたものは明示にせよ暗黙にせよ「いい風景」があることを大前提にして書かれてある。「いい風景」の定義を頑張って書いてあるのもある。でも、それがしっくり来た試しがほとんどない。なんでだろうと思う。

「いい風景だなあ」と思う風景は確かにあるけれども、それをなぜ良いと思ったか突き詰めて考えていくと、結局は個人の美的感覚善感覚によってそう判断していることが多いようで、一般化しにくいと思う。読んだ本では自然と調和した農村の風景を良しとしていたがそれが万人に通用するかというと多分そうでない。自分がいいと思う風景例えば廃道とか煉瓦の転がる路地裏だとかは間違いなく一般化できない。

好ましいとされる風景は、結局のところ、自分の幼少時代の原風景みたようなものに近しい風景でしかないことが多い。とすると、戦前生まれの人が良いと思う風景と、戦後生まれの人の良い風景、現代に生まれた子どもが大人になって良いと思う風景は変わってくることになる。地方都市の郊外のチェーン店街だって懐かしく思われるようになる時代が来るかも知れない。そして人は見たことがない風景を懐かしいもの良いものと思うことはできない。上ツ道中ツ道下ツ道が幅数十メートルの直線道路であった時代の大和盆地を良い風景と言える人は恐らくいない。護岸されていない葦草茂る土土手の川を、良い風景と見る人と、水害の恐れ不衛生の懸念で見る人とがいる。

調和の取れた町並みは美しいと言われる。その感じはもちろんわからないではないが、それは逆に変化に乏しい単調な町と見れないこともない。発展を止め生気を失った町並みにいたたまれない感情を抱く。街道宿の町並み保存は結構だが、古い作りの日本家屋は住めば不便だろうと思うし、元の使い方をされていない建物もあって、良い風景を維持するためにどれだけ不便を忍んでいるだろうかと思わざるを得なくなることもある。何のために保存しているかといえば結局は観光のためだったりする。作られた風景を見に行く観光にいかほどの価値があるか。と思ってみた一方で、そういう取り組みがなされている現代という時代の有り様を実は保存している町並みなのかも知れず、それを見に行く意味はあるのかも知れぬと思い直してみたりもする。

列車やバスに鮨詰めになって運ばれ、目的地で降ろされてその土地をつまみ食いしてわあわあ騒いで東京音頭でも踊って帰っていく寺田センセを悩ませたような団体旅行が観光だった時代はもう二度と帰って来なくてよい。その時代に「よい風景」はあり得ただろうか。日常で見ない風景にははっとさせられるかも知れないが、そういうのでよければ何も景勝地に行かなくてもよいわけで。逆に「いい風景」で客を誘致していた時代が間違っていて、今もまだその余韻を引きずっているところがあるような気がしてならない。「よい風景」を求めすぎて---ありもしない「よい風景」をでっちあげるための風景論だったりはしないかと思う。そこまで言ってしまうと身も蓋もないが。

見慣れない外国の風景---うまく例が出てくるかわからないが、例えば香港の夜景だとか、マンハッタンの摩天楼街だとか、ナポリの港町でもいいか、何か一定の調和のある街並みに「よい」を思うことがある。多くの風景論者もそういうのを念頭に置いている様子。日本の街並み(特に都市の街並み)には調和がないという。外国の街並みはなぜ調和が取れているように見え、日本はそうでないのだろうと思った時、住む人が街を「自分のものだ」と思っているか否かの違いがこう現れているんではないかと思った。自分の街を自分のもののように思い、誇りを持っているから、街をよい風景にしたいという思いがあるから、制約に甘んじて我慢したり、良くする工夫をしたりする。パリとかロンドンとか建物の増改築に厳しい制限があると聞いた。そういうのを甘んじで受けてでも住みたいと思う人の集まった街ならそりゃそういう方向に向かうだろうと思う。日本人は都市=公共のもの、自分の所有しないものと思うのではないか。自分の住む街を好きだと言っても街を自分のもののようには思わないと思う。公共のものは汚してもいい壊してもいいとさえ思っている層もある。公園にゴミが絶えた日があるだろうか。東京に行っていちばんショックを受けたのはゴミだらけの線路だったしホームから平気でゴミを放る人だった。そういう人に限って部屋は小綺麗に違いないのだ。要するに自分の住む場所、周囲数メートル十数メートルの範囲さえきれいでありさえすればよいという人ばかりなために風景は「汚い」。調和などないごちゃとした街並みになる。しかしそういうごちゃとした街並みを見慣れ安心する層だって少なくはないだろう。

昔の日本の街並みをよいと思う思いの半分以上は焦点のあやふやなノスタルジーなんじゃないかと思う。仮に思い切って古くして藁葺き屋根の民家が点在する山麓集落とか、板葺き民家の立ち並ぶ土道の街道筋とかを思い描いてみたとしても、それは意図してそう作り上げたものではなくて、質素倹約を強いたお触れとか簡単にはひっくり返せない村落内ヒエラルキーとか隣近所の目だとかいった様々な制約があった結果そうなったに過ぎない。意図して街を美しくしようとは思わなかったものと思う。だけどもかえってそんな無作為だから自然であり心落ち着くということもあるだろうと思う。丸の内のオフィス街に秩序はあっても心落ち着く感じはしない。強烈に作為的だから。

つまるところ「良い風景」を論じ具体例を挙げるのは容易いけれども、そしてそれに共感を得ることはある程度できるとしても、あらゆる層あらゆる人に共通する良さはあり得ないんじゃないか。美しい風景きれいな街並みで人を呼び集めることは不可能なんじゃないか。特にそれを観光に結びつけ、未来永劫守っていこうとするのは本質的に無理があるように思う。

あと、風景を享受する側にも問題がある。風景を見る側に深い洞察のできる眼がなく、うわべだけしか摂取できないと、自分も相手も悲しい思いをする。真の意味の観光---国の光を観るというあの語のような観光が根付かなかったのは見る側の準備不足というか技術不足というか、そもそもそれが必要だという認識からして欠如していたからではあるまいか。他所の土地での風習を自分とことは違うと認識することは大事だが、その認識を受けてのDoが無駄な卑下だったり嘲笑だったり単なる感動で終止だったりして「じゃあなぜ違うのか」と洞察する方向には中々進まなかった。このへん東海道中膝栗毛とか芭蕉翁とかに幾分かは責を負ってほしく思う。守貞漫稿とか甲子夜話でもいいけれど。

良い風景と実験(経験)とは不可分。自分の足でその場に行き、その場に立って見たからこその風景。絵葉書やグーグルアースでは行った気になれたとしても自分の中に残らない。体験した風景、あとで何度か思い出す風景ほどいい風景、と思ってみてすぐ、なんだ当たり前のことじゃないかと思ったりもした。何度も思い出すから記憶に残るのだ。見た数秒後に忘れるような、二度と思い出さない風景なら「良い風景」と認識するはずもない。


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