nagajisの日不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad
町田生徒監殿陸幼試験乙臨時委員として鹿児島市へ出張さる。午後校外演習あり、三学班は一訓と行動す。然し対抗演習にて、丘候・歩哨をなす。歩哨となり、よく状況わかる。今日も愉快に一日を過ごすことを得。午前二時大地震ありて、一分間続く。驚き四寝室の者十一名は寝台下に避難したり。地すべりの如く思わる。光を発したるは、電線の摩擦なりと聞く。
室外零下三度の寒さなりき。
午後は体操にて朝より全身だるくして本気に精神込めてなすことを得ず。之れ未だ我の体の不甲斐なさ充分鍛錬すべし。又今日の体操の結果随意運動には大会に備えて剣術のみをなすに非ず体操もすべきを感ず。次第に能力低下する如く感ぜし故なり。作業は字号修技にて絶えま〔朱取消線〕ざる努力必要なり。
十二寝室は整頓其の他良好にて誉められたり。兵器の手入等いわれたる事は必ず実行すべし。
前述の如く今日は気力に欠けたり。校則の点は切磋行われて全員之に従う如くなり今や二訓の風気〔朱で「気風」に訂正〕成らんとす。此の状態維持。町田生徒監殿は昨日より大分に陸幼試験乙委員とて出張されたり。下川生徒監殿は鹿児島へ。
第三次ソロモン海戦発表、万歳然し我方の損害を考うると残念なり。米英も漸く本気になり出したる模様なり。
予想はしていたが発行後も忙しさが続いててんやわんやだ。アンケートの仕組みを急きょ変えたりトップページを更新しなければならなかったり入金の管理をしたりetcetc。メールの返信やここへの記入も滞りがちになると思う。 [ToDo]
トップページの修正。ダウンロードまでの流れをもっとスムーズにしなければならない。また、ログイン前後でメニューを変えたいという案もあるのだが、正直、そこまで時間がかけられない・・・。
購読の手引きの書き直し。受付番号=読者番号であること、DL支援ソフトの使用が不可になっていることの告知。
購読号の更新情報を一元的に知れるような仕組み作り。ログインページに情報を集約したほうがよいと思う。
paypalの扱い。恐らくカートを使った購入までは行けない。paypalで送金してもらうだけか。。寄付ボタンはあんなに簡単なのに!!!歯がゆい
mixiのコミュについて。トップページからリンクを張らせてもらっていいんだろうか。(管理者はちぃさん。副管理人toriさん)
そうしてもちろん、次号の制作。pdf化はまだ未着手に等しいが原稿は4割くらい出来ているんだよな。困ったものだ...Postgresqlとphpが使えてDTPできる無償のアルバイトなんている訳がないしな。受付、何とかしろ!
…というネタのために筋トレを始めたのだが、どうもネタじゃなくなってきた。実際問題として筋力が落ちている。
とくに知識はないので下半身中心に必要そうなものを適当に。ストレッチ。OUCC仕込みの掌パクパクを忘れてて今日から実践中。20minリミットランニング×1。腕立て伏せ。腹筋は1日目に少しやったが絶望的にできなくなっているのでパス。最後に10upの階段ダッシュ10本。これを一日10%増量中。おととい昨日はひどい筋肉痛で階段も登れなかったが徐々に適応しつつある。さてOFFまでに常人の体力まで復活できるだろうか。
夜中の大塚公園でハアハアしている人がいたらnagajisです。石を投げないでください。かわりにエサを与えると喜びます。
出典:現行滋賀県布令類纂[第10冊]第5編 上巻(明治24)
旧カナ>新かなに変更。<>は割注。
明治二十年四月十五日滋賀県告示第六十三号《公報四月十六日》
本県々道線路左表の通心得べし
○
街道名 郡名 町村名 西近江路 滋賀郡 大津<上京町より尾花川町に至る> 同 別府村 同 山上村 同 錦織村 同 南滋賀村 同 下坂本村 同 比叡辻村 同 苗鹿村 同 雄琴村 同 衣川村 同 本堅田村 同 今堅田村 同 真野村 同 小野村 同 和邇中村 同 今宿村 同 高城村 同 中浜村 同 北浜村 同 南船路村 同 八屋戸村 同 木戸村 同 荒川村 同 大物村 同 南比良村 同 北比良村 同 南小松村 同 北小松村 同 鵜川村 高島郡 勝野村 同 永田村 同 鴨村 同 西万木村 同 青柳村 同 新庄村 同 安井川村 同 熊野本村 同 饗庭村 同 弘川村 同 福岡村 同 目置前村 同 桂村 同 深清水村 同 大沼村 同 中庄村 同 新保村 同 沢村 同 蛭口村 同 西浜村 同 海津村 同 小荒路村 同 野口村 若狭街道 同 今津村 同 弘川村 同 下弘部村 同 上弘部村 同 藺生村 同 北生見村 同 追分村 同 保坂村 同 杉山村 刀根越 伊香郡 柳ヶ瀬村 北国街道 同 木之本村 同 広瀬村 同 千田村 同 井口村 同 柏原村 同 渡岸寺村 同 高月村 東浅井郡 八日市村 同 速水村 同 高田村 同 小倉村 同 馬渡村 同 小今村 同 唐国村 同 酢村 同 曽根村 阪田郡 森村 東浅井郡 細江村 阪田郡 相撲村 同 祇園村 同 列見村 同 長浜<三ツ矢町より船山町に至る> 同 平方村 同 下阪浜村 同 大戊亥村 同 高橋村 同 下阪中村 同 寺田村 同 田村 同 長沢村 同 宇加野村 同 岩脇村 同 飯村 同 上多羅村 同 中多羅村 同 下多羅村 同 米原村 同 梅ヶ原村 同 甲田村 同 下矢倉村 長浜道 同 春照村 同 間田村 同 野一色村 同 朝日村 同 石田村 同 七条村 同 今川村 同 宮司村 同 小堀村 同 八幡東村 朝鮮人街道 同 鳥居本村 同 古西法寺村 犬上郡 古沢村 同 彦根<外船町より橋向町に至る> 彦根道 同 大堀村 同 東沼渡村 同 西沼渡村 同 岡村 同 彦根<沼渡町より橋向町に至る> 八幡道 蒲生郡 武佐村 同 友定村 同 野田村 同 金剛寺村 同 西本郷村 同 鷹飼村 同 西庄村 ※1 同 鷹飼村 同 大林村 同 八幡<縄手町未より仲屋町中に至る> 朝鮮人街道 同 <仲屋町より寺内西元町に至る> 同 小船木村 同 大房村 同 加茂村 同 田中江村 野洲郡 江頭村 同 十王町村 同 小南村 同 高木村 同 北村 同 永原村 同 久野部村 同 小篠原村 ※2筒井道 滋賀郡 別所村 県庁道 ( 同 ( 同村 ( 同 ( 大津上大門村 ( ※1 欄外注釈「鷹飼村至出原本のまヽ」
※2 欄外注釈「二十一年九月二十一日滋賀県告示第五十二号を以て県庁道の一項を削除し筒井道を更正す其告示は後に出」
出典:現行滋賀県布令類纂[第10冊]第5編 上巻(明治24)
旧カナ>新かなに変更。
○明治二十一年九月二十一日滋賀県告示第五十二号《公報九月二十一日》
明治二十年四月本県告示第六十三号県道表中県庁道の一項を削除し筒井道を左の通更正す
○
街道名 郡名 町村名 筒井道 滋賀郡 大津上大門町<西近江路接続>より別所村を経て大津衛戌に至る
出典:現行滋賀県布令類纂[第10冊]第5編 上巻(明治24)
旧カナ>新かなに変更。
第五百五十五号 甲賀郡より伊賀国に達する道路改称の事
○明治二十一年十月十六日滋賀県達第二百二十九号《公報十月十六日》<甲賀郡役所甲賀郡三雲村より伊賀国阿拝郡柘植村に至る沿道各村戸長役場へ>
甲賀郡三雲村より三重県下伊賀国阿拝郡上柘植村に達する道路名称を新海道と改称の儀嚮に稟申の趣に由り三重県に協議及びたる所同県に於ても異義なき旨に付該改称を許可す
なんとなく知りたくなったのでメモ。奈良、三重県のような土木費支弁制度はなかったのか?
○明治五年壬申十月<日缺>滋賀県第二百二十九号布達
東海道御代参街道中山道朝鮮人街道西近江街道各村町へ 自今人家軒を並べ一町一村を為し候場所は別紙規則に照準し道路掃除可致事 右管内別紙村々へ無洩相達する者也
(後段省略・東海道、御代参街道、中山道、朝鮮人街道、西近江街道の沿道町村名一覧と公布理由、条項)
その後たびたび掃除命令の達が出ている。政府からの達も道路清掃に関するものが最も古かったはず。
○明治六年十二月十四日滋賀県第千百五十六号
水理堤防之儀特殊之御詮議に依て大蔵省より達し之次第有之堤防道路橋梁用悪水路別紙規則の通明治七年より施行条右に付河港堤防道路橋梁用悪水路之等級を分ち官自普請之所仕訳費用之区別等は追て取調の上可及布達候事 右管内へ無洩布達する者也
(以下略・大蔵省達の河港道路修築規則を掲載)
出典:現行滋賀県布令類纂[第2冊]第1編 第2巻(明治16)
○明治七年七月九日滋賀県第七百三十九号布達<栗太郡内村々へ>
甲賀郡石部村小島雄作栗太郡北大萱村白井彦兵衛志那村宇野与兵衛並其外之者共より諸物品運輸弁理の為め東海道筋栗太郡手原村より同郡志那村迄従前之径路を修補し且取拡之義願出候に付其筋に伺之上今般聞届候条就ては右道路新開潰地等之義は小島雄作始其外之者と熟議し不都合之無様可致候事 右管内栗太郡第三区第四区第五区第六区第七区新開道路に関する村々に無洩布達する者也
出典:現行滋賀県布令類纂[第5冊]第2編 上巻(明治16)
○明治八年六月二十九日滋賀県乙第六十号布達<滋賀栗太両郡内へ>
東海道筋滋賀郡大津下栄町より同郡追分町迄道路修繕成功相成候付諸車通行之儀差許候就ては左之箇条に照準し道路荒損不相成様可致注意候事
一 従前之牛車路を以当分諸車路と相定め候条人乗車之外は都而右車路を通車致し人道を通車不相成候事但京都府当県分轄所城州宇治郡髭茶屋町八軒町江州滋賀郡追分町境内之儀は修繕方別段見込之筋有之車路敷石取除候儀に付街上適宜通車可致事一 伏水六地蔵より大津への入込候牛車並軽運車は毎日午前第十一時を限り入津可致候事一 帰り車は午後第一時より通車可致候事一 大津より伏水六地蔵へ運輸の牛車軽運車は午前第八時迄に引出し可申事但伏水六地蔵より之入込車と大津より出車と混雑不致ため一里町境内にて行違所相設け置候間右場所にて待合せ混雑不致様注意可致事一 車路修繕は牛車並軽運車持之者共自費と可相心得候事右管内滋賀郡第一区より第十区迄栗太郡第二区第三区町村諸車所持之者へ無洩至急布達する者也
出典:現行滋賀県布令類纂[第2冊]第1編 第2巻(明治16年)
○明治八年十月二十八日滋賀県乙第百四十三号布達<滋賀郡内へ>
東海道筋滋賀郡第六区下栄町より同郡第十区横木村迄道路修繕相成候付ては諸車運輸取締向当県本年<六月>乙第六十号を以て及布達置候処此節運輸之荷車「モヤイ引」と唱え路上に引揚候者も有之右は兼て布達の通是が為め道路を損し候義に付右様之所業無之様各村に於て屹度注意可致尤以来等閑に打過ぎ候者有之候はば速に当庁へ可申出候事
右管内滋賀郡第六区下栄町より同郡十区横木村に至之各町戸長及諸車所持之者へ無洩布達する者也
出典:現行滋賀県布令類纂[第2冊]第1編 第2巻(明治16年)
○明治九年十二月二十八日滋賀県丙第二百八号布達<滋賀栗太両郡内へ>
東海道筋逢坂峠より横木村迄道路修繕に付ては方今牛馬荷車小関通行致し混雑不少に付別紙の通出入の時限相定候条該時限を不誤様注意通行致す可く候事
右管内滋賀郡第一区より第十区迄及栗太郡第二区第三区第八区迄の町村牛馬荷車持の者へもれなく至急布達する者也別紙
小関越牛馬荷車上下の時限
大津より出
午前第八時限
西京より大津へ
午前第十一時より十二時限
西京より大津へ入の分出
午後二時より
大津より出の分大津へ帰る
午後第四時より
出典:現行滋賀県布令類纂[第2冊]第1編 第2巻(明治16年)
東海道逢坂峠関連。荷車道とは車石のことか? 時間制限があったというのが面白い。
○明治十年七月二十六日滋賀県丙第百十六号達<蒲生郡第五六八九十十一十七十八区神崎郡第六区区長戸長へ>
近江国蒲生郡甲津畑村より伊勢国三重郡千種村までの道路鑿開の義に付三重県下大一大区々長日比重明区長木村周太郎より同県へ申越候右は物貨運輸の便利を得る義に付速に成功為致度仍ては当管下へ右同人出向の義聞届候条当県下関渉の人民に於ても精々協議を遂げ候様致度旨該県より照会有之に付右同人出向の節は精々協力両国運輸の便益を謀り候様注意可致此旨相達候事
出典:現行滋賀県布令類纂[第5冊]第2編 上巻(明治16)
何気に面白い。
○明治十五年一月十日 滋賀県甲第三号布達
改正
・明治十五年一月二十八日滋賀県本局付属通知
・明治十五年二月十六日滋賀県甲第二十九号布達
・明治十五年一月十日滋賀県甲第四号布達
・明治十五年一月十日滋賀県甲第五号布達
出典:同上
○明治十五年二月二十七日滋賀県甲第四十三号布達
土木事業中出願允許を経べきもの及び着手竣功の上届出べきもの左の通相定候条此旨布達候事
○
第一条 河川堤防川除の類道路橋梁養悪水路並堰樋管溜池等を新設変更若くは廃毀せんとする者は本庁へ出願允許を得て後着手すべき者とす但十四年<二月>本県甲第二十号布達は本条と抵触せず且樋管等新設の為め道路を掘割ものは着手の際別段道路取締規則第一条の手続を為すべし第二条 河川堤防川除の類は破損所の修繕と雖も本庁へ出願允許を経べきものとす但臨時出水堤防破壊の際一時水止めの工事は本条の限にあらず第三条 東海道中山道北国往還北国脇往還西近江路若狭街道御代参街道朝鮮人街道米原道<番場より米原に通ずるもの>塩津道<塩津浜村より敦賀港に通ずるもの>刀根越<柳ヶ瀬より刀根村に通ずるもの>筋の道路橋梁は破損箇所修繕と雖も本庁へ願出允許を経べきものとす但橋梁流出又は朽腐し若しくは路面特に毀崩し往来の支障を生じたるとき仮橋を架し道路の凹凸を補理する如きは本条の限にあらず第四条 第一条第二条第三条の允許を経たるもの及但書の場合に於て一時の水止め其他補理を加えたるとも竣功の上は出来形精算帳に着手竣功の年月日を記し本庁へ届出づべきものとす第五条 第三条の他諸道路橋梁及養悪水路樋管井堰溜池等の破損所を原形の如く修繕せんとするものは着手の際戸長役場へ届出置竣功の後出来形精算帳に着手竣功の年月日を記し郡役所へ届出べきものとす第六条 工事着手の際従来官吏の出張を乞又は他村他人の立会を求め或は通報を要する等の慣例あるものは総て其慣例の手続きを経べきものとす第七条 第一条第二条の手続きを経ず恣に施工したるものは二日以上五日以下の拘留に処し又は五十銭以上一円五十銭以下の科料に処すべし
出典:現行滋賀県布令類纂[第2冊]第1編 第2巻(明治16)
○明治十八年三月五日滋賀県乙第十一号達<郡役所、戸長役場へ>
明治十五年<二月>本県甲第四十三号布達に係る事業にして町村費起工は町村会議決の旨を詳記し戸長より協議費起工は其協議者総代より数人の篤志出金に係る起工は其発起人より一己の私費起工は其当人より出願すべき儀と可心得此旨相達候事
但し協議費以下は該願書へ戸長の奥印を要すること定規の通りたるべし
出典:現行滋賀県布令類纂[第8冊]第4編 上巻(明治20年)
○明治十八年九月五日滋賀県乙第四十五号達<二号国道東海道、七号国道中山道、県庁前より大津上大門町北国町通小川町を経て東海道接続まで、大津下北国町より西今 町を経て浜通り東海道接続まで、大津上北国町三井寺筋より土橋町を経て中町通り東海道接続まで郡役所、戸長役場へ>
(本文略)
出典:現行滋賀県布令類纂[第8冊]第4編 上巻(明治20年)
で、明治20年の告示第63号。県道が告示されるタイミングは県によって異なるのね。
本の話をいただいたきっかけであることもあり,土倉庄三郎と東熊野街道の話が第一章を飾ることになった.「人,その生涯」はORJの記事そのままだが,Oさんに不要不急なエピソードを削っていただいている.道そのものの話が始まるまでが長いので,ということだった.自分では勿体無がって削れなかっただろうが,ざっくり削って頂いたおかげでとてもすっきりした.自分はぼんやりと,この話を3章4章辺りに持ってくることを考えていたが(より直裁的に道と関わった人の話を前半に,脇道でエピソード豊富な人を後半にして,読んで慣れて来た頃の変化にしようと思っていた.思っていただけで相談したことはないのだが),巻頭にするのであれば確かに冗長で,さくっと道に繋がったほうがよいと思う.後にして思えば街道建設の辺りもっとシンプルにするか,「道,その後」のほうへ持っていったほうがよかったかも知れない.道路趣味に縁のない人や,ただの伝記だと思って手に取った人にとっては,工費が幾らかかっただとか文書の道筋云々は不要な情報だ.そういうわけで「道,その後」も土倉街道から始まるようにした.
「道,その後」は書いた順でも最初になるのでずいぶん苦労した.結局は無人称(気味)で道をなぞって紹介していくことにした.要するに「廃道をゆく」と同じパターンだ.今回は書き手=私であることが明らかなので右顧左眄せず書けるのが楽だった.旧廃道を歩く面白さについて,取ってつけたようでなく入れ込めたのもよい(今回の本では旧廃道の話はあまり出てこない.現在も使われている道,ただし古い出自と関わったユニークな人がある道を紹介している).
「人」と「道」とを分けたのもよかったと思う.世の中の人は「土倉庄三郎の作った道」みたいなわかりやすい構図を求めるだろうけれども,そんな道はまずあり得ない.申請して路線選定して石を運んで土を削ってということを大勢でやった.そのなかで主役を演じたのが土倉庄三郎というだけで,そういう主役級の人ですら表沙汰にならないから特段取り上げて紹介しようという意図の本である.だから「人」「道」で分けて章で括るくらいでちょうどいい.
この原稿では「東熊野街道Odyssey」でおざなりになっていた事を二つ解決した.一つは土倉家文書の中身の紹介.それから,土倉庄三郎の紹介で始めた割に後で出てくることがなかったこと.それなりにちゃんと〆られたと思う.
個人的には一番のお気に入りである.愛知や福井の方には馴染みがあるかも知れない.神を名乗って道を改修しまくった人である.
事跡に関しては『天爵大神・水谷忠厚の足跡』という労書があるので苦労しなかった.そこで不足している「その道がいまどうなっているか」や,天爵大神が関わったとされる道(阪東ホウ崎だとか梅浦道だとか)が今のどの道に当たるのかを紹介するのが役目だと思って書いた.現地の様子を紹介できたのは『足跡』で触れられている道ばかりになってしまったが,そこはまあ,押さえるべき所は押さえたということにしておこう.どのみち全部辿っていたらページが幾らあっても足りない.
あえて旧版地形図を多用したのは,これを見て愛知や福井の人が道を訪ねてくれることを期待してのことだ.遠方なので微に入り細に入る探索をすることができない.むしろ地元の人がそういうことをやったほうが価値がある.他所者はそのきっかけになるくらいが丁度いい.
書いていく中で,『足跡』が教えてくれなかったことに気づけたのも良かった.なぜ彼が福井に行ったかは書いてあっても,福井で受け入れられた理由までは書かれていない.道は自分たちで直すべきものという全国普遍的な気分?があって,そのせいで道路改修が成功したような感じの書き方だったが,それだけでなかったことを発見した.福井が特別だったのだ.
愛知と福井という2県が全く別の文化圏だと思っていたが,そういうわけでもなかったことにも気付かされた.美濃街道を通して繋がっていたのだ.天爵大神が活躍した頃,ちょうど東海道線が長浜から名古屋まで達していて,長浜から北へは北陸線(敦賀線)が通じていた.敦賀より先は春日野新道を通っていける.そのルートだろうと当初は思っていたが,そうではなく,美濃街道をてくてく歩いて行ったんじゃないか.
取材が大変だった.大阪始発のJR+美濃太田から名電,尾張瀬戸駅で降り,瀬戸と赤津を見て,雨の降る中を瀬戸街道→天爵大神墓→一宮街道→天爵大神碑とハシゴした.そこから電車で福井へ直行,細呂木で夜を明かして福井を回った.大阪から福井へ行くには始発に乗っても10時11時着になるから,愛知から直行するしかなかったのだ.取材だからといって旅費が出るわけでもないし.それに,特急でだっひゅーんと目的地へ行くような旅はしたくない.過程をすっぽかして結論だけ得ても何が面白かろう.
どちらの土地も初めて旅をするところだったのでずいぶん心細い思いをした.愛知では馴染みのない都会の市街地を走る心細さを,福井では田舎道の寂しさを味わった.無茶な夕立にもやられた.そういう旅のほうがいい.
大鯛木馬道、と沢山書いておいたら買ってくれそうな人興味を持ってくれた人がいっぱい引っ掛かるのだろうか。トップがORJなだけましか。(ていうか何であんなに沢山載るんだ。一日のだけでいいのに。月間とかは検索にかからないようにしてえ)
どこにもないからわざわざORJに書いているのになぁ。とはいえ先行性なんて、他の誰かが行って書くまでの間の価値しかない。そうしてそうなってほしいと願っている。誰かがもっと掘り下げて調べてくれることを望んでいる(もちろん自分もするけれど;それをORJでやってるつもりだけど)。ORJに載って終いじゃ物件が可哀想だ。
その可哀想に思う気持ちと400円で買ってくれる方への還元を秤にかけて黙っているnagajisは卑怯者である。ふはは。
明治の偉人の所業に触れる機会があった。彼らはよく「国のために働く」という言葉を残していて、そのように働いたと描かれることが多い。自分もそうだろうと思っている。欧米列強に追い付け追い越せのために立ち振る舞って成果を残した人々だと。そういう人を偉人だと誉めそやしたくも思う。
今はどうだろう。国のために働いている人はどれだけいるだろうか。確かにいるだろうけれども、見えてこない気がする。企業の利益(株主の利益)のために働いている人ばかりな気がする。いないわけじゃない。表に出てきてないだけ。元より見えにくいし、そういう人は自分からそうだと主張したりするはずもない。
結果的に国のために働いたのだという「たのだ」の部分に未消化なもやもやを感じる。誰だって支えようと思って働いたわけではないだろう。 産業戦士諸君はよく働いたと思うけれども、みながみな尊敬に値する生き方をしてきたわけでもあるまい。
国の行く末を考える人が不在な気がする。そういう人を求めない風潮もあるように感じる。ちょっと俯瞰でものごとを考えただけで「上から目線」と揶揄される。森の中で向こうを見通しどれぐらいの広さに広がっているかを知ることはできない。高いところから眺めて初めて森の全体像がわかる。そういうものの見方をする人がいてほしい。
と上から目線でものごとを考える必要性を感じるが、かくいう自分だって自分一人を何とか生かすので精一杯だ。身の回り半径数mにしか興味が行かず、影響も与えられない自分だ。そう自覚したうえで「結果はあとからついてくる」という言葉だけにすがって生きてていいのかい? と思う。
はて、この人はいったい何をしたいのだろう。
赤、黒、白。いまいちだな。一部を切り取った方がいい。
また寝損ねた・・・。ちゃんと抜いて寝たのにな。明かりつけっぱだったのがいかんのだろう。残り1日分を無理にでも消費しようと考えていたが、いろいろ無理そうだ。
以下、編集長ではないnagajis個人の考えなので鵜呑みにしないよう。編集部内で相談したこともないしそういう混線流石得られているわけでもない。どこかからつつかれたから書くわけでもない。書いて疲れるためだけに書いている。
ORJの価値はあまり考えないようにしている。ORJの、というより記事やネタの価値のことは。そりゃ未発見の珍しい物件を載せた方が喜ばれるに決まっているが、毎回毎回世紀の発見をお伝えできるわけでもないし、書いているほうもしんどい。歴史や背後関係をまとめるだけで一苦労するうえ、売れなければ知られない情報なわけで、苦労が無駄になる確率のほうが高い。だからといって中身をおろそかにするつもりもない。書いても読まれないことをわかっていながらどこまで追求することができるか。役に立たないものだと思われているものにどれだけの価値を見いだし付け足していくことができるか。そんな板挟みに勝手に挟まれて苦悶煩悶し、その結果出来上がったものを見て落胆することにこそ価値があると思っている。
創刊当初から言っているが、ORJは同人誌である。書きたい人間が好き勝手に書きたいことを書いている。そういうためのpdfである。知れば得をするかも知れないが知らなかったからといって人生に支障が出ることはない。かつて有料化するにあたって、ORJ買うくらいならその数百円をガソリン代に回すと宣っていた方があった。それも真理だろうと思う。その人にとっては。売れなくて泣きを見、飢えて死ぬるのは私だけでよい。
書いていろいろ追求する場としてのORJを維持するためにORJを売っている。お代を頂いて場を維持している。要するに遊べる砂場がほしいから、入場料をいただいて維持管理費に充てているようなものだーーーその小さな砂場のお山の大将に、なりたければなればいいーーー私は願い下げだがーーー。砂場の砂に価値があるから値踏みしているのでも、金が貯まった暁に砂場ぶっ壊してビルを建設するようなつもりもない。あくまで砂場である。そんな砂場で遊びたいという方がいる限り続けたい。
無理に呼び込むのはどうかと思う。 タダで遊べる遊具が他にも沢山あるのだし砂場を卒業した人もあるだろう。
どんな小さなことでも、積み重ねていけば何かがわかってくる。その上にものを乗せられる基礎になる。ピラミッドは裾が広大だから高いのであって、何も積まずに高いもの・輝くものを望んでも出来上がったりはしない。歩みは遅くても一つまたひとつと積んでいけば、そのうち自分の墓標とするくらいの大きさにはなるだろう。そうして墓ほど他人の役に立たないものはない。もういないから安心しろという証明にしかならぬ。
近遺調2次調査として吉野・樫尾発電所を見学。報告書はすでに書き上げていたのだが、それをチェックして下さった関電さんが見学許可をくれたのだ。関電さんにも、わざわざ私の空き時間にそれを設定して下さった教育委員会さんにも感謝しなければならない。
見学はIさんとともに。行き掛けに、以前から懸案になっていた葛城山麓のマンボを探してきた。ひとしきり歩きまわって見つけられなかったので、西北窪在所で訪ねてみて、3人渡り歩いてようやくマンボを現役活用しているというお宅に到達した。しかも偶然その家の方がおられ、詳しい話を聞くことができた。
以前はあちこちにあったが、耕地整理や吉野川分水の開通、市営水道の開通、あるいは個人宅に竪井戸が普及したことで、マンボを使っている家はほとんどなくなったそうだ(3人伺ったうちの2方は見たことがないと仰っていた。どちらも70overのご婦人だ。にもかかわらず見たことがない、あるいは話でしか聞いたことがないというほど少なくなっている)。
このお宅の水田は耕地整理がされていないのでマンボが生きている。&、住宅の飲用水として使っていたものもあり、今でも台風の時などはかなり水が出るそうだ。この辺りの水道はポンプで汲み上げている(圧送している)ので、仮に停電したりすると水道さえ使えなくなる。そんな時マンボの水があるのはとても心強いと仰っていた。
見せていただいたマンボ。論文から想像していたような、あるいは大野山麓長谷の棚田のガマから想像していたような開口部はない。棚田の法面を構成している石垣の一部分でしかなく、それと教えていただかないと見分けがつかなかっただろう。しかしこの石積みの隙間からしずしずと水が湧いていて、手を浸ければほの温かい、いかにもこの時期の湧き水といった手触りの清水だった。
この石積みの裏に「ドビ(土樋?)」が埋め込んであるという。ドビが具体的にどのようなものかよくわからなかったのだが、継ぎ継ぎして、とか、差し込んで、とかいう表現をされていたから、陶管のようなものと想像される。そしてその奥にマンボが掘ってあるらしい(掘った時の話も聞かせていただいた。昭和39年に80歳で亡くなったというおばあさんの兄弟が掘ったと)。そうしてこのようなマンボが所有のほぼすべての田にあって、合わせて2反の田畑を潤している。2反=2000平方メートル。
宅で利用しているマンボも見せていただけた。そのマンボは普段は枯れている。同じような石垣なのだが、こちらには特別大きな石をはめこんであったのでわかりやすかった。
おまけ。闇雲に歩き回っていた時に見つけた小学校。伏見西尋常小学校なのだそうだ。鬼瓦に「小学」「伏見小学校」と彫られている。隣の家の方が買い取って牛舎に転用し、今は倉庫として利用中。昭和30年代の終わり頃に廃校となったそうだが、いつ作られたものかはわからなかった。
奈良県にはこんな旧小学校があちこちに残っている。純和風な作りのせいでそれと見抜きにくい。
肝心の吉野・樫尾は写真がない。詳細はNDA。
あと、煉瓦積み仕事の体験から動作研究(作業の動作・動線を分析して、より早く効率的に作業する方法を見つけていく研究)が始まったという話が興味深かった。単純作業の繰り返しのなかで「どうやったら早くできるか・うまくできるか」を考えることは誰しもすることだろう。それを定量的科学的に分析して突き詰めていくと学問にもなるのだな。
ずいぶん前に「大きなハム&たまご」を買ってそのままにしていたのを思い出した。小腹が減ってきたこともあり今それを喰っている。消費期限が3日過ぎている。一口目がなんとなくアルコール風味だった気もするが、気のせいだろう。黴臭はない。
以前奇ポテで書いた「ノーパソがブリーフから復帰すると画面が真っ赤になる」というフレーズが目に止まって馬鹿みたいに笑っている。自分で書いたもので腹の底から笑えるってえのは幸せなことだな。笑いの地産地消と表現してもよい。
S11-14は関西地方とともにコピーを取っておった。えらい。S15は府県別なのでさすがに取っておらず、戦後は福岡までで結。このへんはまた府立図書館へ行かねばならぬ。そうそう、古い巻はコピー不可になっておるのだ。このへんはNDLそーしんを利用して二倍料金払わんといけない。
煉瓦展にご来場いただいたTさんを経由しMさんから教えていただいた物件。玉造稲荷神社の西側の壁にはB.C.△H.J.が使われている。
この壁、神社側にはモルタルが塗られて普通の壁に見えるが、外側はこのような感じで雑な作りである。写真を拝見した時にはこの側のモルタルが剥がれてしまったのだろうかと思ったのだけど、実物を見るとそうでないことがよくわかる。壁の根元にモルタルが積み上がって溜まっている。積んだ時に使ったやつがはみ出て溜まってしまってるのだ。
だとするとこの面はどうなっていたのだろう。あふれたモルタルを片付けることもできなかったということは、この壁に密接して何かが建っていたのだろうか。しかしこの壁の足元は高さ数メートルの壁になっている。建物だったら二階建三階建の何かちうことになる。
あるいはこちら側、板塀か竹垣かで飾っていたのかも知れぬ。元々はそういう板壁で、その内側に煉瓦壁を築いて火事に備えたか。
そもそもこの壁の目地はコンクリートなのだな。石灰モルタルでも純モルタルでもない。結構大きな砂利が混じっている。解体で出てきた煉瓦を流用したようにも見える。案外新しいものなのかも知れない。
赤煉瓦NW大会が済んで気が緩んだせいか、その直後から風邪気味で参っていた。はじめは喉が痛くてげほごほ言っていたのが鼻水→水っぱなになってORJ追い込みの辺りから日曜日にかけてが最高潮にしんどかった。アタマに粘っこい淀んだ何かが溜まっているようで普段からまともでない文章がさらにまともにならない中必死こいて作ったらさらに悪化したようだった。ピークが少しずれてくれたので助かったといえばたすかったのだけれども、そのツケが日曜日に回ってきて、正常な判断がしづらいほど淀んでいた意識だった。
目の前のもの・ことに対する感性の欠落、吉坂のアレは風邪の症状に似ていたのだと気づいたのもその間だった。頭ががんがんするとか咳が止まらないとかいうクリティカルな症状によって認知力が下がるのとは違う、いわゆる「頭がぼうっとする」状態でもの・ことに接した時の感覚に近かったようである。記憶が薄れていくきっかけはむしろこういう紗のかかったような認知で場面を思い出そうとし中途半端にしか思い出せなくてその中途半端な思い出し記憶のほうが固定化されてしまうために起こる気がする。何なら思い出さないほうがよい。
体験した時にその体験が鮮烈であったならば、思い出した映像も鮮明で、たぶんなかなか忘れない。忘れても思い出すことができる。その証拠に村田鶴を追って千葉市へ行った時、あのロータリーの俯瞰を撮りたくて、近くにあったオートロックのない雑居ビルにあがり、適当な階から非常階段に出て撮影したあと、館内に戻った時に人に出会って、さもさりげなく挨拶を交わして難を逃れた時の心境の奇妙なまでの平静さ、をついさっき思い出した。あ、おれ、スパイになれるかも知らんなあ。そんなことを思いながら立ち去ったあの時の感覚。光景はずいぶん忘れてしまっているけれど。
風邪が治ったとは書いたけれども完治ではない。まだ鼻水が出がちであり詰まり気味である。それにしても水ッ鼻の時のほうが匂いに敏感になるのは何故だろう。化粧の匂いとかカレーの匂いだとかに恐ろしく敏感になる。過敏になって余計に鼻が痛む。鼻腔の奥に匂いが刺さる感じがする。それがまた風邪を悪化させるようでもあった。
何がどうなってどうなる故に風邪を引くのか未だにわかっていない。オートフィードバックで無意識のうちに調整されていた体中の機能が何かの拍子に調子ハズレになって狂ってしまった状態なのだとは思う。ただ原因がわからない故に対処のしようがない。葛根湯飲んで寝るくらいしかできない。市販の薬は効かないnagajisという根も葉もない自信だけはある。そういえば今季は社中の大勢が風邪を引いている。誰かに移されたのかも知れないし移したかも知れない。だったらウィルス性の風邪だったんだろうか。ウィルス性でない風邪があるのかどうかも識らないままそんなことを思っている。まことに適当な生き方である。
ここ2,3日無駄に過ごしたなぁ。もうちょっと身のある最期を迎えたいものだ。
エッタ川暗渠の不思議空間で超発見をしたつもりになったが、残念ながらそうではなかった。割れた煉瓦をモルタルで埋めたうえで継いでいる。
そのかわり、Ⓓの欠けについての気付きはよかった。
向山尻暗渠。M22.3.
向川暗渠。M22.1.
伊勢道川暗渠。M21.11.
市三宅田川暗渠。M21.10.
下ノ沢架道橋。M21.10. これと同程度の欠けが荒砂川暗渠M21.7.にもある。
エッタ川暗渠。M21.10.
欠けていく順と竣工年が逆という不思議。実は着工年で見なければならない。
_ 佑有子 [「明日が楽になることを信じて、今やろう」 学校で何か困ったことや大変なことがあった時、前に進める私の大好きな言葉です。 これからはnagajisさんの「過程をすっぽかして結論だけ得ても何が面白か..]
_ nagajis [私が言い始めたのじゃないと思いますので,どうか気にせず使ってください.柳田国男の「峠越えのない旅は餡の入ってない饅頭みたようなものだ」と同じ趣旨ですし.]