nagajisの日不定記。
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N氏からの手紙。消印は平成5年8月3日になっている。いま読み返すと意味不明過ぎて困るのだが、当時はこんなものでも腹を抱えて笑うことができた。
顔写真は、確かN氏の通っていた高校の、ちょっと特異なキャラクターで名の知れていた人物だったと記憶する。私はその人物のエピソードについて断片的にしか聞かされていないため、どういう特異さであったかを説明することができない。ただただ特異な人であったと記憶しているばかりで(そうしてそれを20年以上も記憶している)、考えてみればこれほど失礼な話はないのではないだろうか。
葉書の上部に画鋲の跡があるのも見逃せない。一時期これを机の前に貼ってあったのだろう。何を思ってそのようなことをしたのかわからないが。
なお文中の「田中食品」は「旅行の友」の製造元である。パッケージの絵に小さなポテンシャルを感じ、思い余ってTシャツを作ってしまい、それをN氏に送りつけたように記憶する。その礼状としてこの葉書を受け取ったはずである。
自分をアピールすることがあまりにも下手過ぎる.なぜだろう.自分がしてきたことに自信がないからか.確かにない.やってきたことが誰の役にも立ってないことはアンケート結果が客観的に示している.それを受け入れずに「正しいのだ」を貫くエネルギーはとうの昔に尽きてしまった.ならばより役立つものを作るよう努力すればいいのだが,そしてそのつもりでやってきたつもりではあるが,それをさらに一歩進めて「正しいのだ」まで持っていくことがどうしてもできない.自己認識できてないことをpgrれることを恐れているのだろうか.
はてnagajisは自分を社会のどこに位置づけたいのだろう.このまま寄生虫的立場で温々と生きていくつもりなのか.それでいいんか.結果的にそうなったとしたら,まあ諦めてしまうかも知れんが,最初からそれを目指すのは,ちょっとどうか.
メールの文末に「以上」を書く方は結構おられると思う.自分はなにか嫌味たらしさを感じて好きではなかったのだが,考えてみれば履歴書の〆の定型文「右通相違無候也」と一緒なのだなと気づく.也の最後のハネに特別な思いを読み取ったことがある手前,むやみに嫌うわけにはいかないだろう.