nagajisの日不定記。
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はなのおくのへんとうせんにえんかあえんをぬられていたい。原因がわかったのはよいがこの治療のほうがいたいというのはどういうことか。血止まらんし。
そういうわけですこし待っていただきたく>各位。
返事がないのはかんぶがへんとうせんというギャグである。
なわけないだろう。
せっかく社章を書いたので刻印集成に入れてみたくはあるのだが肝心の現物写真がないので締まらないことになること必至なのだった。受付にもらった高山耕山のタイ産レンガもとい耐酸煉瓦くらいしかねえ。その隣の飛行船マークの三石耐火とか、何で撮ってないのかね。
てなもんだから、入れたところで操業年とかの基礎データと、どこどこで発見されちょる情報くらいしか載せられない。現行版でもずいぶんスカスカなのに、さらにVoidicにしてもしゃあないような気はする。あと使用年度とか超不明。
耐火煉瓦は広域に分布するとわかっていながら関西中国四国の工場一覧だけで推断しようとしているのは我ながら笑止なのだが他に書くことがないのだよ。現時点で言えること・気がついたことのメモ程度に捉えていただかないと困る(勝手に困ってろ)。
↑の「言えること・気がついたこと」のようなナカグロの使い方とか、縦書き日本語のくせにコロンやセミコロンを使ってしまう気分は、今日泊亜蘭の作品の影響を受けたからでは決してない。氏の作品を先日初めて読んで、その中にそういう表記を多数みつけて妙にしっくり来てしまった。どこかで知らない内に読んでたんじゃねえかと思ってしまったほど。しかし。、てな句読点の使い方は馴染まないな。植かと思った。ニュアンスは理解できたのだけどそれが指をついて出てくるほどには馴染んでくれない。馴染んでしまっても困るけれど。
横書きの時に正規表現で表したくなることは(まま|時おり|ふと)ある。でも大半はパースエラーを起こしているので通らないはずだ?。一般には通用しないししかし先駆者は多数。
アレが食べたいコレが食べたいと思うことがなくなってしまった。焼きうどんが食いたくなったりペペロンチーノにはまったり鶏レバーを焼きたくなったりインドカレー禁断症状が出たりすることがここ最近なくなってしまった。在れば食べるが無かったら無いで何でもいいという感じ。よくない徴候である。
旨いものを食べたいという欲は基本的に希薄である。旅先の名物に固執することはない。逆に避けているほうだと思う。nagajisごときが外食か、贅沢な、と思うからだ。人は何もすることがないと食べ物に向かうものだと思っている。何もすることがないことは贅沢である。ブルジョワジーの所作である。土地のうまいものがその土地普遍の食でないことはとうの昔に気づいている。間人の住人がカニばかり喰っているわけでなく、だったら鳥味噌漬けとかささみの醤油漬けとかのほうがいい。
とはいうものの、腹が減れば自ずと食いたいものが浮かんできたものだ。今日はカレーにしようとか、ハンバーグ捏ねてみようとか。なんか野菜が食いたいな、とか。そういう自然と浮かんでくるものがここ最近なくなってきたことに危機感を覚えるのだ。食うことに飽きたのだろうかこの男は。そう思って愕然とする昨今である。
家庭菜園が農業のスケールダウンでありながら野菜の成長・収穫時期に変わりがないごとく、やっている保全活動は小規模な行ないに見えて実は熱帯雨林生態の縮図でなく熱帯雨林そのものの一側面なのだなと、自分でもよくわからない例えでわかったつもりになっている。沢山植えてみなければ何が育つかわからない。大きく育てと願って植えても立ち枯れるものは立ち枯れるし、適当に植えたほうがよく育ったりとかもする。その一見偶然・漫然に見える盛衰のうちに熱帯雨林特有の法則性が確かに潜んでいるのである。それを見極めたい。となると保全活動屋というより観察者だな。