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2019-07-21 [長年日記]

[奇妙なポテンシャル] 真の芸術作品を見た

画像の説明

鶴見区の保育園の掲示板に掲げられていた絵画。大変素晴らしいと思った。近代絵画とかアヴァンギャルドとかいうカテゴライズ以前の、原始的な欲求の純粋な表現である。何を書こうとしたのか察しようとするのは無粋である。年少さんの彼にとってはこれがおやつであり、「おやつ!」と思って書いたものだということを鵜呑みにして味わうべきものであるだろう。こういうのこそ芸術というべきだ、と掛け値なし皮肉なしに思ったことだった。

しかも、大人がいうところの抽象画としてこれを見ても遜色ない。大胆にして迷いのない白い線。そこに添えられた二本の赤。色の取り合わせがいい。赤と白の配分がいい。赤だけまっすぐ明瞭に書かれていて白の方はよくわからないぐちゃぐちゃ気味の何か、しかし力強い線の構成美があって掠れの一本一本まで覗き込んでしまいたくなる。

重ねていうが、赤白の組み合わせ=ショートケーキ?などと類推してはいけない。この色彩の組み合わせと白のぎざぎざと赤のまっすぐがおやつだったのだ。その思いを観察者の側も純粋に受け取ることができるのは、考えてみれば幸せなことである。絵を通して感覚を共有することができる。彼がこれをおやつだと思って書いたこと自体には共感できないにしても、そう思って書いたという取捨選択のシナプスの経路を知ることができ人の子の発想というものをストレートに知れる(適当に書いたものに適当におやつという題をつけたものであったとしても、その適当を組み合わせた微かなひらめきを見ているわけだから同じだろう)。

大人が書いた芸術作品は不純な要素が排除し切れない。観察者のほうが不純要素を付け加えて見てしまいがちだからだ。仮にこれと同じものを大人が書いたとしよう。「おやつ!」という意識をカンバスにぶつけた結果がこうなったとしよう。それを観察者は色眼鏡なしでは見ることができない。「この人は何でこれをおやつだと思ったんだろう」「赤い線の意味はなんだろう」「近代ゲージュツは難しいよね」「ロシアンアヴァンギャルドのほうがいいな」「こんなんでお金になるんやからええよね」云々と、作品や作者に勝手に意味とか動機とかを求めてしまう。あるいは批評を加えてしまう。「意味などない」と言われたら承知しないか「そういうもんだよねぇ」とわかったふりをしてしまう。そういうの一切なしにこの絵は鑑賞できる。様々なことを思い、考えることができる。

掲示板にこれ一枚だけが飾られていたのは、たぶん園のみなさんもこの絵に非凡なものを感じるところがあったからだろうと思う。しかしこの絵を褒めたり書いた子供に過度な期待をしたりしないでほしいと思った。こういう純な意思表現は、書き手がひとたび意識するとそれきり不可能になってしまう。今度はもっといいのを書いてやろうとかいった欲が出てしまう。「いいね!」を貰うためにFacebookを書くようなもので、それでは純な思いの発露ではなくなってしまい、どこにでもある平々凡々な拙絵になってしまう。

[奇妙なポテンシャル] 例えば

画像の説明

こんなの。いや、悪くはないと思うんだ。すごい直接的で効きそうだとは思うんだ。でもこのポーズはどうしても犬神家の一族を連想させずにはいない。作者もそれを意識して書いたのだとわかってしまう。右足膝の曲がり具合とかさ(あれ、右でよかったっけ?)。

「あぶない」という直球の警告は効きそうでいい。あぶないから遊んではいけませんとか書かれるよりもあぶなさ及びその警告の強度が身にしみて伝わると思う。残念なのはその文字によくありがちな血の滴りのような飾りがつけてあることだ。そうやって余計に不安感を煽ろうとしているところにわざとらしさを感じてしまいかえってコミカルを誘う。糸をひくような細い明朝体でさらっと書いたほうが効果があがる気がするんだ。

あと・・・寝屋川にはこんな刺さり方はせんと思うのね。ドブーンと全身沈み込むか、刺さっても川底のヘドロにであって、足見えないんじゃないかな。いやまて佐武だって刺さってたわけじゃないのか。


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