nagajisの日不定記。
本日のアクセス数:0|昨日のアクセス数:0
ad
朝勅諭の奉読があった〔あり〕。九時より修身の授業があった〔あり〕 此の時間中は大へん眠かったが〔りしも〕ぐっとがまんをしていた〔なしいたり〕。それから〔より〕上級生の授業見学を行う。皆真面目に授業をしている〔受けられたり〕。十四時より保健衛生についての訓〔トルツメ〕話があった〔あり〕。良く健康に注意しよう〔せん〕と思った〔いぬ〕。夜十九時より集会所で〔にて〕第二訓育班での〔の〕集会が生徒監殿〔指導〕の元〔下〕に行われた〔り〕。特に森田の話が面白かった〔りき〕
四時雷の轟に眼をさます。六時には彼の大雨の為生徒舎前は雨水にて一杯なり〔杯の字訂正〕。剣術に行く。非常に暑し。昨日暑かりしも大雨の前兆ならん。外出せず午後は集会所に、午前は勉強をなしたり。北島等と遊ぶ。夕食後十四教室に於て一年に軍歌を教う。脇・甲斐は帰校点呼におくる。雨十四時より降り出す。愉快なる一日なりき。
〔欄外:今日二十一時半警戒警報発せられたり。支那の航空基地あやしう、敵空母が姿をくらましたるによる。〕
五時起床にて午前中五時間授業ありたり。起床も朝食も早き故昼近くなりて眠く然〔而〕して空腹を覚えたり。月例身体検査あり。
身長 一六四・八糎 胸囲 八三・五糎
体重 五七・〇瓩 視力 右一・五 左一・二
随意運動は課目が定められて今日は剣術なりき。一年は熊本城見学なりき。今日も亦緊張したる愉快な日にて特に一年と話すべく食事が待遠しくなりたり。良好なり。
今回の旅でフロントキャリアが大破した。
下辺の部材が破断しているのは出発前に気づいた。穴を開けてネジ止めするつもりであったのが丁度いいネジとドリル刃とが見つからず、仕方なく針金でグルグル巻にして応急処置。確かに応力は集中しそうな場所ではあるけれども、もともとこの箇所はバッグの取り付けと支えにはあまり影響のない場所で、そうクリチカルな破損ではないと踏んでいたのだった。
しかし、一カ所緩むと他に影響を与えるのか、中山トンネルの狭い狭い歩道でサイドバッグをぶつけたのがいけなかったのか、今度は上辺の溶接が吹っ飛んでしまった。ここが外れるとキャッリアが開いてしまうのでとても危ない。反対側の溶接もヒビが入って次に何かあったらまっ二つ状態だ。幸いなことにベースキャンプに着いた時点で発覚&翌日は荷物なしの探索&伯母谷のNさんの御厚意により針金入手、ということで事なきを得た。
だが、伯母谷から麓へ下ってきて、ついでに橋本まで足を伸ばして、ここで輪行しようとした時に、根元のネジ取り付け部分が割れてしまってることが発覚した。よくタイヤに巻き込まなかったものだと思う(サイドバッグがあったお陰か?)。これはもうどうしようも茄子。ちょっとやそっとでは直せない。
2002年の旅の直前に買ったもの。耐用年数6年強というのは長いのか短いのか。それ以前に使っていたもの(ミノウラの旧世代の同型)は94年から02年まで使っていて、そちらのほうがフロントの使用頻度は高かったはずだ。リアキャリアが14年持っているのと比べるとさらに短く感じられてしまう。
フロントキャリア、案外高いんだよな・・・。どうしよう。といってもないと旅に出られないしなあ。
これ以上ないという位に探索してきた(道は一介の書物なりと信じる故に敢えて探索という言葉を使うぞおれは)。今から長篇予告しておいても恥ずかしくない規模になるだろうこと必至。そのうえもう1本の前哨戦でしかない。その前に描き尽くせるか疑問&追加でぼうだいがくへ行かねばならない=次号には多分間に合わない。ここのところ部録"をさぼりがちだが、強ちヒキコモリモードに突入しただけではないのでおじゃるよ。
あの世界に数日間身を置いて、大阪に帰ってきて、両者が同じ空の下にあるという事実が未だに飲み込めないでいる。辿っていけば道でつながっているはずなのに。日本は狭い、なんて誰が言い出したんだろうか。
大丈夫、次号は謎の自衛官氏の寄稿がある。ちょっと手間取ってしまったが着実に進行中。とはいえ氏謹製pdfだからnagajisの出る幕はほとんどないのだ。
そのほか、TUKA氏旧橋第2弾もほぼ完成。引用承諾も取れたし、追加部分を仕上げてしまえばすぐにでも。
nagajis担当分は久しぶりの北摂線描up済、熊野の最終回もup済、TRDBはアレかコレかが入ってくれば押し込める。廢毒はまた暫定措置としてpdbの紹介をばする(卑怯者)。必要なCGIは一通り作ってあるはずだし。
KINIAS方面、廃道巡方面でやらなければならないことが次々と。ダカライソガシクナルッテイッタンダ。ダンシングダンシグ。
とうとう、僕は登り始めた。背中へ重たいやつを引っ掛けて。一進一退を繰り返して。泣きそうな顔をして。口の中で、呪文みたいに意味のないことをブツブツやって。−−−こんな、壁を登るのが必要が。それは分らない。これを上り切れば、僕に何か増しになる要素があるか、それも知らない。だけどこの旅行を始めたのは、ここまでやって来たのは、今こうしてここで目玉を凝らしてルートを探しているのは、それはみんな僕であって僕一人だ。だから、見え見え(傍点)じゃないか。大事なのは必要性などという右顧も左眄も可能な便利な概念じゃない。たった一つの、上へつながるちっぽけな足場だ。それだけだ。分ったか!
(綿貫益弘「津軽から江差へ」。60°/15mの磯崖を自転車を担いで登りながら)
訪問者の迷惑など考えずに貼っつける(つーか自分も見れない。ブラウザの表示倍率を変えて何とか全貌が分かる程度)。どうしてもこうなるよな。長尾山第二隧道前柵なんかこの三倍幅が要る。
何とも馬鹿なことを始めたものである。そして馬鹿にのめり込んでいる。せんだってなどは仕事上がりの足で夜の武田尾第2柵へ向かった。雨のそぼ降る真っ暗闇の中、レールの数を数え、銘を読み、§切りをやり直して、都合三度目の訪問にしてやっと銘整理が完了した。終わったのは夜中の十時半であった。手ぬぐいを失くすという代償まで払った。全く馬鹿な仕業である。
そこまで頑張ってみたところで誰も褒めちゃあくれないのである。世が求めている仕事でもないのである。そうじゃない。褒められも役立ちもしないことだとわかっているからこそ、なのだ。自分自身がこの柵を完全把握したいのだ。単にDARLINGTON 70見つけたと言いたいだけならそうすれば済む。どの柵にあれとこれとそれがあると言えば済む。しかしそれじゃあそれだけでお終いになる気がする。ふーん、あそこにあるんかい、で終わってしまう気がする。異国の地でチビるまでこき使われたうえに本来用途でない用途に回されその格好で百年以上放置されてきた彼らなのだ、もうちょっと注目してあげないと可哀想じゃないか。少なくともその存在に気づいてしまった本人くらいは。
先日福知山線へ行った時、探索中に缶コーヒーを飲んで、あとで回収して帰るつもりでガードレールの上に置いていった。30分ほどして戻ってきたら、その上にデカビタCの空き缶が載せてあった。誰か別の人間が捨てていった缶だ。全くもって典型的な割れ窓理論の発現で心底呆れたことだった。ゴミが捨ててある場所ならゴミを捨ててもいいと考える幼稚で浅墓な思想は唾棄すべきである。実行者は恥じて顔を洗って出直してきて右斜め後ろの隠しカメラに向かって尻振り百回してもらいたい。その上で同じことを繰り返してもらいたい。
2003年の長旅で茨川の我がテントの前にゴミを置いて去っていったRVを思い出さずにはいられない(言っておくが未だに根に持っている)。まあ最初に置いたのは自分だし、別にそれに「あとで回収するから一寸置かせてチョーダイ」と張り紙をしていたわけでもないからな。同罪だ。
7の次がはっきりしなくて撮ってあったものだが、あとで見なおした時にCO LIMDでもCO LIMTDでもないことに気づいた。どう読んでもCO LD。そうして7の次は「7」っぽい。即ち1877製。同じレールの別部位にも77に見える痕跡があった。
Tさんにいただいた資料を見ていたら、三越からもCO LD 77 が見つかっているとのことだった。superscriptなのも一緒。鮮明な先行事例があることの有り難さを噛みしめる今日このごろである。
年代だけで判断すると京都~大津間あたりに使われたということになるのだが、だとすると1890のCAMMELLはなんなんだということになる。構内側線を追加するとか傷んだ個所を補修するためとかで追加で買ったのがあったのかも知れない。魚梁瀬林鉄だって久木越えの最急勾配区間に使われていたレールは数ヶ月でダメになったと聞いている。大阪~大津間にそこまで急な区間はなかったはずだしひっくり返すという手もあるのだけれども柔らかい錬鉄製だとどうだったろうかだし曲げちゃったやつはひっくり返すの大変だろうし。うん、わからんことだらけである。
煉瓦の2枚下ろしに挑戦。意外となんとかなるものである。得られた知見もなかなかに多い。
津守煉瓦(中)刻印煉瓦。確か大阪市街で採取したもので、並形普通煉瓦である。平の筋のない側(ここでは平表と呼ぶことにする)を上にして舗石にされていたか、あるいは平表を下にして長いこと路傍に放置されていたかして、平表が全面的に削れて白斑が露出していたもの。この側が凵型の底になるので型枠に粘土を詰めた時の底の部分を裏から見ていることになる。これだけでも興味深いのだが、さらに二枚下ろしにしてみるとこうなる。
上の状態から左右に180度ひっくり返した状態。さっきの底を作業者側から見た時の輪切り。底には白い粘土が塊になって残っているが、下ろしの断面にはそれが少なく、細長く引き伸ばされた筋状の粘土が目立つ。粘土を型枠に行き渡らせるために押し広げていった方向がこの筋からわかるように考えていて、確かに隅に押し込んでいったように見える角もあるが(写真左下)、必ずしも四隅すべてが同じようにはなっていない。考えてみれば確かにそうで、函の手前の隅に煉瓦を押し込むのと、奥の隅に押し込むのとでは指先の使い方が全く違う。利き腕とそうでない腕という違いも非対称となって現れるかも知れない。
左下、右下は角の形状に沿うように&折り重なるように&細く引き伸ばされている。筋同士が重なることなくきれいな層状になっているのは注目すべき。全体的に見れば煉瓦の下半分に細筋が多いようにも見える。この細い筋は長手面に平行な面の断面が見えている(バウムクーヘンの同心円模様のようなもの)ので、こちら側は型枠長手に引きつけて左右に押し広げていったことになるようである。長手と平行な面を描くようにスライドさせたと言い換えてもよい。そうして最後に隅に押し込むので層がさらに薄く引き伸ばされている。
上半分には広い面積を有する筋が目立つ。この筋は隅に向かってはいるが下の隅のように隅に沿って折れ曲がってはいない。幅が広いのは平に平行な面に動かしたからのはず。すなわち上から押さえつけ左右になでつけるような感じ。要するに、型枠を動かさずに手前の長手縁、その左右、奥の長手縁、と言った具合に手を動かしていったように読める。
底の粘土が塊のままなのも意味深。底に薄く貼り付けるようなことはせず、粘土塊をボンと放り込み、それを左右に押し広げていった結果がこうなのかも知れない。それが当たっているかどうかはまだ心許ないが、とにかくこの白斑の流動が粘土の流動方向を記録しているのは間違いなく、眺めているとどんどん時間が経っていく(そして答えがわからないのでもやもやする)。
この白い筋が薄層状をなしていることや、どの向きに層をなしているかは、実物を見るとよくわかるのだが写真でそれを伝えるのは難しい。これまでに作った割サンプルはブロック状に割っていたので縦横の断面はわかるのだがそれが煉瓦全体に渡ってどうなっているかを知ることができなかった。
ちなみにこの断面に波長365nmの紫外線を照射すると白く発光するところがある。写真は画像処理しているので実際の色とは異なるが、これの黄緑色の部分が蛍光を発している。白斑もうっすら青く蛍光しているように見えなくもないのだが(写真の薄汚れた緑色の部分)、単に反射しているだけのようでもあり、はっきりしない。とにかく黄緑の部分は間違いなく蛍光を発している。焼成によってできた空洞に析出した何かのようである。煉瓦表面に析出した成分もこの色に蛍光するものがあるので(特に長時間地べたに放置されていたような煉瓦に顕著)、&、煉瓦はいつも希塩酸を使って洗浄しているので、水や希塩酸に溶けにくい何かであるはずだ。