nagajisの日不定記。
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今日は日曜でありたる〔なる〕為生徒監殿〔指導〕の元に郊外訓育が〔トルツメ〕あり先ず藤崎宮に行き加藤神社に行き幼年校阯を見学し然る後熊本城を見学し石垣の作りに感心し清正の頭の良い〔き〕ことをつくづくと思った〔いぬ〕。帰りに生徒監殿の家をならう帰りは電車であった〔なりき〕。そのご集会所にてピンポンをなす、我ながら下手なのに驚く。夕食後上級生の軍歌練習を見学し、十九時より家へ手紙を書く。
今日は一昨日に比し非常なる寒さなり。即ち自習時間に於て身震いするが如くなりき。故に朝の鍛錬時は裸体にては稍々涼しく特に、四百米馳走にては気持良かりき。生理衛生始めて行われ、歴史は十五教室に五十人のすしづめなりき。
昼食後柔道衣袴渡り、早速六時間目は柔道なりき。即ち衣袴を着し教官殿より目的其の他を習う。柔道は今日が一生の始なり。随意時も亦道場にて柔〔道〕をなす。訓育学科「陸軍現制」に付きあり。特に此れ〔之〕により陸軍諸学校を知る。益々努力奮闘すべし。
朝より危き天候なりたるも遂に十一時には雨となりぬ。午後は作業・音楽にて随意運動には柔道をなす。柔道を最も好めばなり。校長殿個人訓育ありて第三学年に於ける覚悟の程を示したり。学科は独乙語・国漢乙を主としてなさん。今の調子を続くるべし。夕食後田代生徒監殿の下に予科士官学校の事を承りに行く。誠に有益なる話なりき。皇居遥拝を一生欠かさざることを誓いたり。軍人否日本国民たるべき者最も必要事項に非ずや。今日も亦心にやましからざる日なりき。良好なり。
今回からアンケートの得点制をやめてみた.最初に得点制を導入したのは,それがいちばん解りやすくて投票しやすいだろうと思ったから.全ての記事の感想を書くのは大変だろうなあと思ったんですわ.目安としてもぱっと見て判断できるし,悪くないんじゃないかと.
でも,考えてみれば寄稿してくださった方に対しては失礼だったかも.得点に換算できることじゃないしね,寄稿という行為そのものは.自分達は書いた文章の評価をしてほしいのだけど,寄稿される方はソレを目的に寄稿されている訳じゃない(ハズ)だもの.
という訳で,大変かとは思いますが,コメントよろしくお願いします.一部の企画に対してだけでも結構ですので.
隧道データベースを作っている頃,いやもっと遡ればpdbqを作っていた頃から,「地図にマーカーを引く感覚でルート記録ができたらなあ(データベースにできたらなあ)」と思ってた.幸いGoogle Mapsのような自由度の高い地図が利用できるようになって,しかもGoogle Mapsにはポリラインを描く機能があって,頑張れば地図の好きなところに線を引いて「この区間は廃道」とか「地図にはないけどここに道がある」みたいなことができないこともない.つねづねやってみたいと思っていたけれど,javascriptのこと全然知らなかったので手がつけられなかったのだった.
それを一念発起してプロトタイプ制作に着手.ワケワカランjavascriptといつのまにかGMap2になってるGoogle Maps apiに悩まされつつ.ようやく線引いたりコメントつけたりできるようになった.これをブラッシュアップして,フォームで送って処理すればOK.(ってこれが大変だと思うけど)
http://www.the-orj.org/tdb/view_.php?no=1773
このシステムで隧道データベースとpdbqを扱えるようになれば最強かも.ソースはあちこちからの寄せ集めなのですごい汚い.詳しい方に添削をお願いしたい気分&激しく協力者求む.
問題は山積み.そもそも隧道データベースには致命的な欠点がある.データベースをEUC-JPで構築してしまってて,GoogleMapsと相性が悪いのだ(GoogleMapsはUTF-8が前提.違う文字コードだとIEなんかで見れなくなることあり).クエリーのたびにエンコードするのもまどろっこしいし,思い切って全部UTF-8にしたいのだけどその方法がわからない.個々のデータをUTF-8に変換しなおすのは簡単だけど,デフォルトに設定したエンコードは変わらないよね? そもそもこの指定は何に効いてるんだろう? EUC-JPなままで中身だけUTF-8だと怒られるのかなあ...(少なくともphppgadminからまともに見えなくなるだろうな)
dumpしたファイルをまとめてUTF-8に変換して,default encodeをUTF-8にしてリストアしたらいいんだろうかなんて考えてみたものの,うまくいかなかった時が怖いな.いずれにせよデータベースを止めなきゃいけないし,そうそうトライ&エラーする訳にもいかないし.困ったものだ...
あと,いつのまにか世界測地系になってるのにも対処しないと.こっちを急がないといけない.
空気なんて読まない。行きがけの商店街で見かけた看板。何度も見ている看板なはずなのに改めてじっくり見てみるとじわじわと込み上げてくる居心地の悪さがある。何だろうこの心地悪さは、と考え込んで、それが「?」というたった一文字に起因するもなのだと気づいた。
「アッ!」と声をあげた時点で声の主は不審者を見かけているはずだし「怪しいやつだ!」と思ったからこそ声をあげたはずである。そこには主体性のある正義感がたしかに存在する。しかしその次の「ドロボー?」の「?」が全てをダメにしてしまう。あなたは疑ったのだろう。怪しい人を見かけたのだろう。声さえあげただろう。だのに今さら「?」はないだろう。
「ドロボーのように見えたけれども実は違うかも知れない、例えば乞食に身を窶したお大師様あるいは草苅童子笛吹童子の如き例があるではないか」という深い思慮、ではないように思える。「ドロボーかと思ったけど間違えたら恥ずかしいよね」のような恥意識、あるいは「とりあえずドロボーかもしれないけど・・・(あんまり関わりたくないよね)」的第三者気取りが見えかくれする。日本人の特性のいちばん嫌な面を見せつけられたような感じがして、それで居心地が悪くなるのだと思う。
人の主義主張に「間違い」は存在しない。その人がそう思うのであればその人にとっての真実たり得るし、主張する権利と価値とがある。斟酌もせずばっさり切り捨てるようなことはしたくない。その人が真にそう思うのであればあるほど真摯に応えたくなる、あるいは真っ向から反論したくなるというものだ。しかしそれは、相手の主張が主張であればこそ尊重なり反駁なりしたくなるのであって、「ドロボー?」みたいな気弱な主張で来られると、やっぱりちょっと、対処に困る。
そういうあいまいな主張をうまくとりなしてきたのが日本人なのだろうし『なあなあ』で上手く丸められる人間がこの社会では出世していくのだろう。村社会では波風立てないことが美徳であった。自分は不器用だからそういうのが不得手だ。だから、ここは「ドロボー!」であってほしかった。エクスクラメーションマークは3つくらいあるとなお可。看板に力説しても仕方ないが。
まあそんな勝手な評をすることから始まった今日のOFFなのだが(ってそれはnagajisだけだろ)。誰だ雨なんて言ってたやつは。低気圧前線なんてどこにあるのだ。馬鹿っ晴れの一日だったじゃないか。くそ。
行きがけに立ち寄ったくろまんぷで。道端に豚が落ちてた。最初は自然の奇異かと思ったのだがよくよく見るとチェーンソーか何かで彫り込んであって、明らかに人工の物(反対側も全く同じなのだ)。木喰上人の作風にも似た良いセンスをしている。
探索本編の終了後発見された物体。さすがに飲まなかった。高校の時に買った10年前の缶コーヒーといい勝負をしている。
OFF中のようすは次号かこの部録"にてぼちぼちと。それなりに見栄えする写真が撮れた・・・ハズ(弱い主張)
少しは真面目なことを書け、という神のお叱りを受けて追記。OFF後に見つけた道標が一つある。場所は後述の辻。
碑には「左 永沢寺/三田」とだけ彫られていて、道路に面してそれが建っている。右を示すものはない。当初はこの道標の指す方向にいささか疑問があって、向きが変わったか別の場所から移してきたのかと思ったのだが、そうではなく、当初からこの場所にこの向きで建っていたのだろうと思うようになった。探索した道が道標時代の道筋であってもいいわけだ。
今の地形図には載っていないが、篠山の奥谷川の奥からこの辻に越えてくる道が古い地形図には載っている。この筋を篠山側から来れば「左永沢寺」で合っているのだ。三田も母子ではなく永沢寺に出て京近道を下ったほうが道が良かったに違いない。
探索ルートにはあの道のほかにも尾根筋に沿って登り下りしている道があった。ほとんど廃道化してはいたが掘り込みの深さはなかなかのものだ。以前から同じ尾根筋を登り降りして青原峠に出ていたところへ、後年あの緩傾斜道が作られたと考えても、さほど無理はないように思う。
道標のすぐそばには地蔵様と馬頭観音碑がある。地蔵様の銘・元文元年は1736年で、江戸時代のちょうど中ごろ。この頃にはすでに往来があったのだろう。
あれ、北摂越譜の青原峠、違うやん。小枕村の西に出るなら美濃坂峠よりも西でなければならない。やっぱり「裏坂」なんかなあ。永沢寺の裏だしなあ。
もとい、忙中閑あり。花見をした。
大阪北の平野部は今が桜の盛りである。近くの小さな公園の桜も満開。毎年花見大会が行なわれる膀胱炎もとい某公園とは違い、静かに嗜むことのできる公園を見つけておいて良かったと思う。酒に酔うでもなく下手な歌をがなることもなくましてやバーベキュウの煙で桜花を燻らせることもない、桜の下で茶を飲み串団子を食うだけの花見である。心行くまで桜を見、微かな薫りを堪能するだけの花見である。天気も幸いした。これほど心安けく桜を楽しめたのは生涯で初めて7gかも知れぬ。後で足を伸ばした服部緑地も満開だったが芋洗い状態であった。
毎年忘れず必ず咲いてくれることが嬉しい。そうしてその繰り返しが自分の人生とは無関係に繰り返されていくであろうことが、かえって心に安らぎを与えてくれる。私という一個人の人生が何かの拍子に激変しようとも、尽き果てようとも桜は変わらず咲き続けるだろう。それを思えば私の生も悩みも瞬間でしかない。
おまけの画像。緑地公園で。天地をひっくり返すとよりシュールになる。
三重県って近畿地方でも中部地方でもあるんだな。ほっとした・・・。
廃道をゆく2で熊野街道の煉瓦隧道を紹介することになる。ネタ出しの時にあまり深く考えず「近畿を代表する廃道」の括りで熊野街道煉瓦隧道群を提出し、それが通って近畿の廃道ということで進んでいる(しかも扱いが大きい!)。それでつい昨日、校正をしながら「あれ、三重県って近畿で良かったんだっヶ?」とか思ってしまい、兢々としながら検索すると、こんなページが。
http://www.pref.mie.jp/KIKAKUK/HP/renkei/which.htm
とても安心した。
個人的には東紀州(宮川以南)は特に近畿だと思える。この稿の主張である「隧道文化圏」としてもそうだし、尾鷲−北山−吉野の林業圏は互いに連綿しちょる。木本−新宮(熊野)の結びつきだとかも無視できないぞ。そうだぞそうだぞ。(決して三重県びとのあいでんちちーを逆撫でしようというものではありません)
前説の目鼻がついた。相変わらず詰め込み杉だ。3倍希釈しても美味しくソーメンがいただける程度に濃い(内容がではなく文章が)。もっとさらっと書けんもんかいな、と思うものの、元々書ける情報が少ないのだから仕方ないちんと思いたい。もし史誌のごとくなものを目指してはいけないのであればこうするしかないんじゃないだろうかと思ったりもする。なあに、後半は紙芝居展開だ(多分)
海山町史の記述入れる場所。吉野郡資料の引用。御料林/世伝御料と御料林整理。他は展開の中に折り込んでいく。
画像をupしたところでctrlが送られっぱなしになるという謎現象に遭遇した。1が打てないとかは何とか対処できるがctrl押しっぱなしというのは壊死的である。
今回も渡らなかった中原橋。ヘタレと嗤いたければ嗤うといい。信念を守るためである。中原がどのような生活環境であったか知るためには谷底に降りて旧橋を経由ていくにしくはない。しかしまあ2度3度探索しないと見えてこないものってあるのだな。眼も脳も一つ二つじゃ足りない。
久しぶりに長い距離歩いたせいでいまだに足が痛い。ポンコツはいつまでたってもポンコツだなあ。いい加減完治してくれないと困るんだがなあ。
しおり機能は便利だが溜まりすぎると何の目的で栞ったかわからなくなる。こっちに転記してちまちま消していくのが吉。
司法省指令録 刑事部 自第二号至第六十八号 明治九年~明治十一年 https://dl.ndl.go.jp/pid/2938606/1/313
M10.8. 三重県で煉瓦を運んでいた囚人が川に転落したのを仲間3人が助けたので罪一等を減じた指令。三重県は早くから監獄所で煉瓦製造をしていた。朝明郡蒔田村石橋。
明治十三年宮城県博覧会出品目録 https://dl.ndl.go.jp/pid/801841/1/29
宮城県監獄所が煉瓦60個を出品。宮城県も囚人煉瓦が早かった。
東海経済新報 (19) https://dl.ndl.go.jp/pid/1486928/1/14
神戸工作分局で煉瓦15576個製造。明治14年。
東海経済新報 (60) https://dl.ndl.go.jp/pid/1486951/1/12
煉瓦壁にコンクリ塗布の技術。それが洋風。
工学叢誌 1 https://dl.ndl.go.jp/pid/1475914/1/187
釜石鉄道の橋梁・暗渠スペック。橋台素材もあり。
交詢雑誌 (125) https://dl.ndl.go.jp/pid/1562860/1/9
宇都宮三郎知多へ。知多、碧海に交詢社の支社。西尾と刈谷にも立ち寄る。M16のこと。
官報 1883年12月22日 https://dl.ndl.go.jp/pid/2943351/1/6
中山茂七が皇居造営に煉瓦を寄進。
函館県統計書 明治16年 https://dl.ndl.go.jp/pid/806053/1/20
この時点で「旧煉瓦石製造所」。
司法省日誌 明治七年第百二十一号~明治七年第百五十号 https://dl.ndl.go.jp/pid/2938420/1/157
明治6年飾磨県監獄所で煉瓦製造。製造所へ罷り越す際囚人2人が逃走。行方知れず。飾磨県時代の監獄は飾磨郡高岡村に所在。
北海紀行 巻之2 https://dl.ndl.go.jp/pid/763085/1/17
M6 茂辺地の煉瓦 1円/100本
府県一覧 : 附・北海道,琉球 https://dl.ndl.go.jp/pid/762894/1/5
明8.7 京都府産物の中に煉瓦。
陸軍省年報 第二 https://dl.ndl.go.jp/pid/1367042/1/58
明治9? 教導団歩兵営舎焼失していたのを再建。壁が煉瓦積みだったので再利用でき費用大いに減省。是れ煉化石造の効用。
工学会誌 6(第67号) https://dl.ndl.go.jp/pid/1528094/1/291
M20.6. 7.頃 東海道線工事の完成部分を使って工事資材運搬。
地質調査所年報 明治17年報 https://dl.ndl.go.jp/pid/903882/1/181
M17.10. 地質課お雇い外国人オ、コルセルト(ドイツ)による東京府下煉瓦製造論。火山灰土壌(おそらく関東ローム層)はきれいに成形できるが焼くとヒビが入ってダメ。東京湾の両側に産出する吥砂石・吥砂石土を混和して良質の煉瓦を得。隅田川周辺の粘土(壚土:くろつち?ぼけ?)は厚い砂層の下にあって採掘が難しい、露出しているのを採掘してて残余も尠い。
分析報文 第2冊 https://dl.ndl.go.jp/pid/847644/1/66
勢陽組小林より依頼のあった粘土分析byワグネル
官報 1887年02月25日 https://dl.ndl.go.jp/pid/2944328/1/4
大阪商報。煉瓦製造場八箇所、職工420余人、昨年(M19)製出高900万個、価格54000円余り。
官報 1887年05月12日 https://dl.ndl.go.jp/pid/2944392/1/7
赤色煉化石の特許 大阪村田益造
官報 1887年06月20日 https://dl.ndl.go.jp/pid/2944425/1/4
辰野金吾の煉化石談。海外の。
建築学階梯 巻之上 https://dl.ndl.go.jp/pid/846207/1/35
仏蘭西積が出てくる最も古いの。イギリス積みとフランス積みの積み方の違いがよくわかる図あり。フランス積みがなぜ弱いか(芋目地の入り方)。
工業雑誌 2(25) https://dl.ndl.go.jp/pid/1561109/1/8
日本土木会社の跡を襲った大阪土木会社について
記事祝詞文類 https://dl.ndl.go.jp/pid/903293/1/13
多度橋に至ると黒煙連りに天を蔽う=勢陽社煉瓦製造
_ TUKA [> アヒャダルマ 藪に覆われつつありますね。哀れなり・・・。 今後の更新が「非常に」楽しみです。 更新履歴も見たいですねw>いや、ホントに]
_ MIMIZUK [当方サイトからのリンク先を index2.html にしたほうがいいかしら(爆笑).]