nagajisの日不定記。
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もう168回も繰り返している行事ではあるが、回を重ねるごとに、最近は特に、発行できたことを嬉しく思うようになった。峠越えの旅をしていて、無事に峠に立てたときの安堵に似ている。旅することが目的なので終わりというものがないが、その果てしなさを恐れるよりも、いま立っている峠の景色だとか、そこから見える風景だとかを愛しんだほうが気が晴れる。煙草を吹かしたり立ち小便をしたりして心ゆくまで楽しむことができないのは残念だが。下って、また次の峠を目指す。
何かの理由で相撲取りを連れてこなければならないというミッションに挑む夢を見た。理由のあたりもしっかりした映像だったと思うのだが忘れてしまった。とにかく少し離れた町に居る力士を連れてこなければならなかった。力士本人を見つけるのは容易かったがそこからの帰路で様々な妨害イベントが発生する。何故かドブ川みたいな川の川辺の斜面を伝って進まねばならなかったり。斜度は緩いが踏み場が10数センチしかないような岩場をへつっていかねばならず、難渋しているうちに、後続の力士ともう一人(いつのまにか同行人が増えていたのだ)は川の中洲を歩いていけることを見つけてさっさとそちらへ行ってしまう。取り残された私の憤慨。
S・シン『フェルマーの最終定理』 文庫版を読む。2002年の長旅で夜の慰みに読もうと思い購ったのは確かみなべの辺りであった。当然単行本。フロントバッグに入れて延々運び続けた。最終的に高山の宿から、不必要になったツーリングマップル数冊とともにI氏に送りつけ、旅を終えてから回収したはずなのだが、その後どうしただろうか。ツーリングマップルは今でも部屋にあるが単行本は早くに処分してしまったように覚えている。
学術的に突っ込んだ内容、証明を具体的に仔細に解説してくれる本だと勝手に思って買ったものだから、あまり満足しなかったのを覚えている。まあ解説してくれていたとしても微塵も理解できなかっただろうが。今回改めて文庫版を読んで、一般読者にとって過不足なく、親切丁寧にわかりやすく書かれてあることに感銘を受けた。難しいことを噛み砕いて解説するのは簡単そうに見えて実は大変難しい。取り上げる内容について本当に理解していないとできないことである。自分は自分の思ったことや考えたことを文字にするだけで苦労している。
緊急事態が収束していくようなので安堵しているが、今回の件でまたニホンジンの潔癖症が進行しそうな感じなのが不安である。惣菜の量り売りは不衛生だからヤメロとかジョギングをしている人が呼気を撒き散らすといって忌避するようなコメントが公共の電波に乗るようになってーーーあ、いまは公共の電波なんて言わないか、らじるらじるで聞いてるんだから光回線とパケットなんだよなーーー、CovID-19が終息してもそんな意識ばかりが残るように予想する。互いを思いやってソーシャルディスタンスを守るのではない、自分が感染したくないから離れるのだ。その聖域を侵すものとしてしか他人を見なくなって、そのくせ自分が他人から同様の見方をされるのは拒絶する。結局は自分さえ助かればよいわけで、しかしそうだと宣言するまでの気丈さはなく、他人が困るだろうからというような転嫁をする、それがまるで「思いやり」であるかのように外からは観察され誇張して表現されていって、陰湿であかるいニッポンの出来上がりである。脛に傷を持つものは(そうかも知れないという内省のできる気弱な人間は)ますます生きづらい社会になっていくだろうと思う。そういう社会とは距離を置くに限る。いちいち構っていたらいつまで経っても気が休まらない。
自分で考えて決断を下し行動する能力がニホンジンには欠如しているような気がする。自粛せよと言われれば自粛する。それ自体は悪いことじゃないが「言われたからそうしている」でしかないのではないかと疑ってしまう。「コロナが怖いから外出しない」「マスクしなければ外出できない」。どの程度曝露すれば罹患するのか、三密の密接とはどんな密接をいうのか。マスクでどの程度防げるのか・飛散を抑えられるのか。その心配は有効なのか。考えてみもせずにただ三密だ三密だ怖い不潔忌避では無能な思考停止ではあるまいか。私はそうはなりたくない。カーズみたいに考えるのをやめてただ生きているだけの生命にはなりたくない。