nagajisの日不定記。
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陸軍幼年学校学科試験今日終る。予去年は一月なれど漸く終了し、ほっとした時なり。午後校外演習にて、清水村内を馳せ廻る。斥候動作の大部分は会得したり。いよいよ考査も四日内に副る。少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋声
終日太陽を見ず。風なく温暖なり。独乙語考査(単語―形容詞五十)あり。不振。藤江は一策をなし単語の暗識に努力中なり。予亦之に習わん。然し長続きするかは疑問の点なり。〔朱棒線、欄外朱「やる以上しっかりやるべし」〕 宜しく長く続くるべし。月例身体検査ありて、体重一瓩、胸囲五粍増加す。胸囲の二倍は身長より三粍を越ゆ。万歳々々鍛錬々々!!
体操の際は特に速がけ百と四百をなす。百は足重く不振にて、四百米に至りては予の心臓がものをいい二着。森木にはかなわず。之を要するに自信あれば溌剌として総て運動はなし得るものなり。投擲四二・五米行く。先日末の練習に依る。自習時間は全く之を国漢乙に費す。今日乙の教程をもらいぬ。健康状態頗る良好なり。
等々の理由により、恐らく1月1日発行にはならないものと思われ. じゃあどうするかというと、
といった選択肢が考えられる.今の所前倒し発行が最も有力だが、今でも原稿スピードが落ちている手前、またリアルの仕事でも年末進行で大大変になること必至な状況のため、危ういかも知れぬ.
詳細は次の編集会議で.
アホみたいにSPAMツッコミが届くので12/4からここに移動させた.以下内容は2006年12月4日のものである.と2012年4月17日に書き込んでいる.
長くなりそうなのでダイジェスト。
第一部・日本橋偏
(完)
(完)
第3部・ディスプレイケーブルをつなげ偏
ええいままよ、基盤コネクタ付近でぶった切って15本ハンダ付けしてやる。暴挙といえば暴挙だが背に腹は換えられない。テスターで調べて(13番の線が切れてた。多分B)対応表を書き、ぶった切ったケーブルにつなぎ直す。
すべてつないでテスト通電。写らない。愕然とする。諦めそうになった時、ひょっとしてマシンがスリープしているだけかもと思い、キーをぺけぺけと叩いて起こしてやったら見事に表示「された!
(続く)
これから15日にかけて忙しくなりそうなので、先に部屋を片付けておくことにした。ふだんは散らかし放題に散らかしていることが多い部屋であり机である。人に見せられる机になったのは何ヶ月ぶりだろうかと思う。生きている証拠というよりORJの制作現場のようすとして現況報告をしてみたい。
机。今年の春だったかに安売りされているのを見つけて散々悩んだ挙げ句に購入したパソコンデスク。もともとはディスプレイ部分が落とし込みできるという触れ込みのものなのだが、nagajisの手にかかればこの有り様だ。ディスプレイ部分はフラットにされ、パソコンが置かれた場所が一段落とし込みにされてしまっている。ついでに右上の棚の狭いことといったら。あな哀れかなLOASのDESK。あ、お願いだから電器スタンドのカサが壊れてるのは見逃して。
パソコン関係はこう見ると至極真っ当な構成に見えてしまうのが恐ろしいが、ディスプレイはジャンク市にて6英世さんで購入したものであり、Macさんはそれよりさらに2英世さん安いジャンクさんである。キーボードは例のミンクオイル漬けだし右方に見えるPC用のキーボード・初代HHK Liteも実は1280えんのジャンク品である。この場面に収まっているまともに購入したPC関連品はエプソンのスキャナ(机の上)くらいではないか。そうそう、頂き物のバックアップデバイスもまた別格の存在だ。
しかしながら、この構成でORJは生まれる。我ながらすごいことだと思う。Macは一度HDDが飛んだ以外は実に素直に働いてくれてるし、ディスプレイはボタン一つでPCとMacを切り替えられるし(Inが2系統あるのだ)、マウスは手に馴染んだLogitechだし。申し分ない環境だと勝手に思っている(と、誉めるとMacの機嫌が良くなる)。欲を言えばいまPro Keyboardがほしい。寒さのせいでかキーボードが渋くなってきた。
オレンジ色の箱はよいこのおどうぐばこである。幼稚園以来の夢と希望と思い出とがぎっしりと詰まっている。などということはなく、中身はおどうぐである。たまたま近くのスーパーの入学セールで売っていたのを購入しただけだ。おどうぐばこでなければならない蓋然性は一切無い。蓋がありさえすればそれで良かった。そうして自分がよいこであるという意識も自負もない。
ガラス製の写真立てに入れられた千円札はORJ初の収入である。神棚の代役が写真立てで申し訳ない。辛い時悲しい時はこの千円札を眺めることにしている。ということも残念ながらない。ふだんは飾っていないが今日は特別出演だ。
ぽんず。何故か置かれてある。ORJの何に使えというのか>ぽんず。しかも昆布だし入りだ。
常備しているという意識はなく、ここに置かれている理由が自分にもわからない。そういうものが机の周りには多い。こうやって使いもしないものがどんどんスペースを占領していくのがいつものパターンである。使わないものは片付ければいいのにと思うこともなくただただ物があふれスペースを奪ってゆく。その狭いスペースで狭いことに苦労しながら作業をしている。我ながら馬鹿だと思う。
ちなみに、寒くなった昨今は寝袋装着がデフォルトである。一度装着すると身動きするのが億劫になり机に縛り付けられてしまうというORJ養成ギプス的な役割も果たしている。これからしばらくお世話になるだろう。
流行語大賞が決まり、定時のニュースごとに杉ちゃん氏のネタが解説されるのが何とも言えない苦痛である。NHKがやるものだから「馬鹿」がつくような丁寧さで説明されるためネタの面白味が薄れてしまう(そもそもネタの解説ほど哀しいものはない)。その一方で急に口調を真似て「ワイルドだろう?」と入ったりするものだから違和感大爆発である。
流行語大賞というものは、実はその流行語を殺すために授与されているのではないかと思った。受賞のニュースが流され解説されることで流行にとどめを刺すものなのではないかと。「ご苦労さん、もう出てこなくていいよ」と宣告するためのものであり、その流行語と決別するための儀式のようなものなのだきっと。なお本人の写真は見たことがあるが、どういう声でどういうリアクションをしながら「ワイルドだろう?」とやるのか知らない。テレビがないからだ。腰は直ったんだろうか、彼。
歌が合ってない・・・。あと575で弔うべきじゃねえんじゃね。
清水煉瓦跡で遭遇した煉瓦橋梁。たまげた。すげえ造形。これで形を保っているのが驚きだ。
到着時に一度渡っていたにも関わらずそれが煉瓦製だと見抜けなかった。東觜崎をぐるぐる巡って、バスに乗るつもりで県道に出て、日曜運休と知らされて呆れたあと、商店のおっちゃんに教えられて再確認しに行ったらこれだった。nagajisの目は節穴である。
現物を見て思い出した。これはずいぶん昔にM先生が写真を見せてくれたやつだ。Fさんも撮っていたのではなかったか。すっかり忘れていた。なんという体たらくだ。
脇に降りたり水路に降りたりしてあらゆる方面から検証した結果、銘板まで発見する始末。橋の名前もわかった。体を表す名のはずである。そして遊離した煉瓦をやっと一つ発見し無刻印だと確認できた。Fさんがこの橋を見つけたことを知らせてくれたのを、自分が勘違いしていた可能性が高い。菱Sの出所は一旦リセットする必要がある。
この銘板には従業員の名前に「煉瓦師」と冠してある。なんと、ほんとうに存在する言葉だったのだ。これはいけない、今日から私は煉瓦師を目指す。
_ nagajis [西播魁新聞は龍野新聞の後継紙(改題)、大5.11.3より http://www.meitan.j.u-tokyo.ac.jp/detail/1255 東大の明治新聞雑誌文庫にも大正9年以降しか..]
_ nagajis [清水煉瓦の会社諸元は『帝国銀行会社要録第六版』にあるのが最も詳しいと思います。 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/974398/482 清水煉瓦..]
_ nagajis [清水煉瓦となる前に個人事業として煉瓦製造をしていた形跡もあります。 『兵庫県統計書. 大正5年 第1編』 https://dl.ndl.go.jp/pid/972547/1/863 揖保..]
大和高田市は奈良県南部の中核都市。明治20年代の後半には大阪鉄道が到達し、駅すぐ隣に高田紡績ができあがって「綿業の町」として大繁盛した。そんな大和高田市に煉瓦がどれくらい残っているか? は一度確認してみたいものだと思っていたのだった。
高田紡績→あれやこれや→ユニチカと変遷した工場はすでに跡形もなく、大々的なマンション街に生まれ変わっていたりして、近代の痕跡は期待していたほど多くはなかった。けれどもそんな大和高田の市街地の狭い狭い路地の端で未見の煉瓦刻印に遭遇した。
なんとも描写しづらい形である。たぶん写真は天地逆なのだと思う。ナカグロというか●というかがチョンチョンがついたヤマを被っている。そう見てようやく描写可能な、そんな記号だ。はじめは手書きかと思ったがそうではない。そして他所では見たことがない印である。
初見の煉瓦刻印が見つかるのはうれしい反面、稀な刻印=同定しづらい刻印なわけで、製造業史を明らかにするんだ!と嘯いているnagajisの喉仏のへんにぐさりと突き刺さる魚(とと)の骨でもある。そういうものとして他の何かと一緒に飲み込んでしまえば支えも取れるかも知れないが、よく咀嚼して食わないと消化不良を起こしそうだしむしろそれで胃を悪くするほうが私は困る。疼痛でその存在を時折思い出させてくれたほうが有難いといえば有難いのである。どうせ会社の同定なんて、どうあがいたって100%な真実には至れないのだ。
しかしこれ、ホントに天地逆かな。ヤマに等長記号みたいなチョンチョン入れたんって他の屋号でも見たことがない。しかもヤマの中身ナカグロだし。かといってこれで正体だったとしてもまあ困るんだけれど。
表側がどうなっているか見たいところなのだが斯の如くなコンクリ固定で如何ともできなかった。同じ並びには播煉と思われる三本線、手前には大阪窯業の遊離転石。長屋的な民家の前庭の花壇石になっている。
大和高田は現県道2号線がかつての高田川だということを意識しながら歩くと面白い。平坦な市街地の中を抜けるこの県道のところだけが一段高くなっていて、以前は天井川だったことがよくわかる。市街地はうねるその川の脇に格子を切って作られてある。高田川の付け変えはたしかその権衡工事として西熊野街道が開鑿されたんじゃなかったっけか。大和の国中と吉野と、遠く離れているように見えてちゃんと関連がある。
鉄道が早く開通したせいか高田城と市街地の関係よりそれ以外のほうがはっきりしている。確かにその方面に古い町家が残っていたりはするが鉄道でぶった切られているため城下町的な印象はしない。
原典にカエレ(・∀・)! ということで府立図書館へ行ってきたのだが、元の図面からして潰れ気味で判読すること能わず。しかし本文を読み込んでいるうち、70ft桁に「平釬ヲ用ヒ」たなんていう一文を見つけてしまって祭りである。
釬という字、金偏に干って見慣れない字だが「溶接・はんだ付け」という意味があるらしいので、これこそ平頭リベットのことだ!と合点しながら帰ってきた。けれども家でもういちど読み直してみると、次のように書かれてあるのだった。
上下弦材は函形にして腹材には平釬を用い[金偏+串]を以て弦材に連結す
(原文カナをかなに変換)
函形にして、までは納得する。その次から謎。この論説でいう腹材は弦材同士をつなぐ部分のことのようで(他の箇所でもそう)、私が斜材と呼んでいるもののはずなんだが、その腹材に「平釬」を使うとなっている。れれ、リベットのことでない?
金偏に串、という字も曲者。漢和辞典にもない文字である。こういうのは旁の字で推測するほかない。串刺しにする金属、つまりはピンのことだろう。斜材を弦材にピンで留めるということで、それはそれで納得がいく。しかしそうすると平釬はますます平頭リベットでなくなる。
釬という字を調べてみると、ひじを護る防具、溶接、はんだ付け、弓の両端の弦をかけるところ、などの意味があるそうだ。中国語の漢字解説サイトでは釬は扌+日+干に通じるともある。桿−木+扌と書いたほうがいいか。桿だったらさおの意味があるので平たい鉄製のさおといって理解できる。とはいえテンションバーは平たい板だがコンプレッションバーは綾構つきだったりするし。平たい板ではないっちゃあない。
そうして、この論説の他の部分では鋲という文字を使っていたりもする。
要するに、わけわからんくなっただけだった。
それに加えて本文では「金+串間高さは八呎」と書いてあるのに図面は7ftであったりする。九鬼家文書の図面も7ftだ。確かに、長柄橋のトラスは高さが違う2種類が使われてあって、それが新旧桁の目安になるかも試練と思ってたけれど、ピン間高さが1ft=25.4cmも違ったら桁高さもそんくらい違ったりするんじゃないか(長柄橋のはそんなに段差ないんじゃないか)と思ったりもする。
それよりも問題なのは、浜中津橋のピン間高さを正確に測ることができないことだ 。浜中津橋なんか、間に中路的に床板が挟まっているので、うまいことメジャーを渡せないのだ。仮に床板がなかったとしても、相当工夫しなければ一人で高さを測ることができない。 これは困ったぞ。
しつこく測っている。今回は斜材の厚さを全測定。そのついでに重要な発見をした。下流側桁は格子△の下弦材中央に「仕切り板」が取り付けられている。後補の桁との間に横材を渡したとしたら、ここに補強があって然るべきだし、この仕切り板に以前は横桁固定の何かがあったのかも知れぬ。しかもその取り付けは丸頭リベットだ。平頭リベットが初代桁の根拠になると考えている現状、ここだけ丸頭なのは非常に意味がある。そうして上流側桁下弦材にはそのような仕切り板がない。
長柄橋は△格子の中央に横桁が載せられていたけど、この桁は十三大橋の長柄運河部に架けられていたやつの転用なので、長柄橋用の工作は経験していない。だとすればやはり複線化時の補強と見るべきだろう。下流側桁は開業時のトラスの複線化中央桁とみて間違いないだろう。しかしそうなると上流側が謎になる。不等間隔に存在する六文銭状のリベット跡以外に痕跡はないのだった。(真ん中の格子には何もない!)
あと、下流側下弦材の横桁取り付けリベット跡と見られているやつは、内側の板材にも外側の板材にも同じようにリベット打ちされていて、外側のリベットは平頭(内側に頭)、内側は丸頭であったりするのだった。うーん、ますますわからんちん。
太政官達 監獄則並図式 明治5年
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952/238
日本近世行刑史稿. 下
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459348/578
第4等。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459348/600
石川島監獄の図。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459348/637
明治22年監獄則改正。監獄則施行細則で業種が固定される(それ以外は許可制)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/790889/18
警眼叢書. 第三巻。M22監獄則施行細則の原文。
えーっと。明治5年に出た太政官達378号「監獄則」は日本最初の監獄法。囚人にさせる作業の例として煉瓦製造が出てくる。かなり早い。
この法は小原重哉がイギリス植民地の監獄法を参考に作成したとされる。植民地でも煉瓦製造が定番だったのだろう。また当初から監獄は煉瓦造で作ることを想定していたので(これは同法の最初の方に書いてある)、それもあって囚人に煉瓦を製造させようとしたらしい。ただし作業の等級としては低く、1~5等のうちの第4等の作業だった(達文には煉瓦等の粘土の調製とあるが、その注釈で煉瓦製造窯・器具の図を指しているので煉瓦製造そのものを指しているはず)。煉瓦製造という仕事の位置づけがよくわかる。
囚獄権正、小原重哉を政府が獄制調査委員として東洋英領地方(ホンコン、シンガポール等)に派遺し、その実状を調査させ、(菊田幸一「監獄法の改正について(二)」法律論叢, 58(1)pp.39-71 1985-07-25
この則には付図があって、ここに煉瓦を焼く窯のことや製造に使う器具が簡単に説明されている。窯はアメリカ・イギリス風の四角窯。煉瓦で壁を築いて中に詰めて天井は粘土で蓋。
器具といっても台、模範(型枠)、水桶くらいしかないが、型枠で製造した煉瓦素地?の寸法が「8寸3分×4寸×2寸1分」と書かれている。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952/257
このサイズの素地を焼いて、等方的に3辺が9割に縮んだとすると「226.341×109.08×57.267mm」になる。これはかなりの精度で「7.5寸×3.6寸×1.9寸」になる。これは作業局形が最も近い。あるいは並型の7.5×3.6。
inchで考えると「9inch*4-1/4inch*2-1/4inch」。9inchは8-7/8でもいい。
「9inch*4-1/4inch*2-1/2inch」だとStaffordsher型に寄る。このサイズの少し薄いやつということになる。
これを後年、銀座煉瓦街を作る時に「厚2寸」としたのが東京型。そのまま使ったのが初期の官設鉄道用煉瓦(後年そのサイズがデファクトスタンダードとしての作業局形になる)。それを作る時に焼き締まり過ぎて7.4寸×3.5寸×1.75寸となれば大高のいう並型。これは想像だが。
一番重要なことは、この太政官達が各府県に達した結果、囚人労働として実際に煉瓦製造を行ったところがあったということ。その製品が明治10年の第一回内国勧業博覧会に出品されている。例えば警視庁監獄所(小菅か石川島か)。例えば三重県庁。三重県庁の証拠は12/4のリンク(明治10年内国勧業博覧会出品目録)を。兵庫県や千葉県もその可能性がある。
大阪府はこの頃阪府授産所で煉瓦製造を教えていた。開始は明治6年。この時のも監獄則のを参考にしたかと思ったが、出土煉瓦の平均寸法は「23.47×11.5×5.6mm」で、長手小口が大きく厚が薄い。
監獄則図式では模範に詰め抜き出して乾かして焼く、とだけ。各府県出品は「明治10年内国勧業博覧会出品解説書」を見よ。これをじっくり読むと製法がちがうのがわかる。型枠から外してから整えるのか、型枠に入れた状態で整えてから型枠を外すのか(後者はどうも兵庫県のようだ。三重県のは型枠から外してだったと記憶する)。
この監獄則を出発点とする煉瓦製造の系譜も考えなければいけない。
あと、明治20年代に監獄で煉瓦製造が増加するように見えるのは、明治22年7月に監獄則が改正され、作業種類が幾種類かに固定されてしまったことによるのが大きいらしい。業種は監獄則施行細則を参照。それまでは比較的自由に様々なものを作っていた。石川島監獄では手押しポンプを作って好評を博していたようだし。それが制限され、施行細則でも掲げられている煉瓦製造が一番手ごろな作業として普及した模様。結構金になったようだ。小菅なんか煉瓦販売だけで年に7、8万円くらいの収入があった。
8×4×2寸の型枠で焼くと長手が7.2寸になるのだな。
大阪は粘土がいいので薄くても堅いものができた。東京では関東ローム層であまり強く焼くことができない故に厚い方向に行った。JESで厚60mmになった経緯も東京の煉瓦で強度を確保するためだったはず(大熊喜邦のJES制定の報告を読むこと。あるいはもう一つのやつ)
昨日今日と但馬県道の話を書いている。こういうのを書くとき、脳のRAMに必要情報を置いてそこで突き合わせながら書くような感じになるので、読んで記憶に置いて置かなければならない資料を一気読みする格好となって、しかしその資料が膨大な量であるため、あっさりキャパを超えてしまった。なんかもう落ち着かなくなって立ったり座ったり喚いたり歩いたり右見て左見てポケットを弄って、その間にちょこちょこ書いて、を間断なく繰り返している。土木費支弁の件はRAMに入りきれず結局はじめの数告示をテキスト化することになった。全部ぶん投げてふて寝したい。
今日は兵庫県の土木費支弁規則のことを書いて、三坂改修と県道昇格後を書いて、あわよくば大正元年の三省訓令まで・・・とか思っていたのだが、土木費支弁の途中で力尽き、三坂改修までも行かなかった。そのかわりにRAMの更新を試みたのだが上記のような有様で。ほんと辛い。
本当に頭のいい人ってのは、脳の二次記憶部がSSD並に高速なんだろうと思う。脳の奥深くに入っていても必要に応じてさっと取り出せるような。
wkpのリストが相変わらずクソなので自分で作る。
建設年 | 場所 | 名称 | 摘要 | 出典 |
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M24~26.7 | ? | 小野田セメント重役:吉田右一宅門柱 | 門柱芯に青竹を挿入 | 吉井康純「昭和初期の日本におけるエコロジー」(『群居(38)』(1995)) |
T4 | 京都府乙訓郡大山崎村 | 五段の池 護岸・水路 | 耕地課の事業で竹筋コンクリート張、連絡水路も竹筋コンクリートで構築 | 中村猪市『農村コンクリート工』(昭和17) |
T5-7 | 東京市 | 竹筋コンクリート杭 | 東京万世橋間高架建設に際して試験的に3本を製作・打設 | 『市街高架線東京万世橋間建設紀要』pp.99-100 |
T8 | 長崎県雲仙市小浜町雲仙500-1 | 浴室浴槽 | 強い酸性の湯のため鉄筋ではなく竹筋を使用 現存か | 読売新聞社『ザ・長崎 : 異国文化の新発見』p.105 |
S2 | 新潟県燕市五千石 | 大河内分水路自在堰 矢板 | 上流水叩きの締切に長4m余りの竹筋コンクリート矢板を使用 | 『検査報告集 第5輯』p.188 |
S5 | 大阪府大阪市 | 黒門橋 | 欄干に竹筋使用(断面に割竹痕露出) 金属供出後にCで作り直したか | 部録" |
S6 | 秋田県米代川 | 小坂鉱山鉱水処理施設第一・第二シックナー | 第一:540㎥、第二:220㎥ それぞれ2基ずつ | 『米代川水系農業水利実態調査書 : 昭和32年度』 |
S8 | 長野県南佐久郡南牧村野辺山 | 初代野辺山駅舎 | 石田靖一・田中隆三著『日本の鉄道』には竹筋コンクリート使用とあるが…… 『工事画報』では古レール鉄骨+野地張+ラス+化粧コンクリートとある。(解体時に何か出てきた?) | 『土木建築工事画報』第11巻第10号 p.160 |
S11 | 岡山県上道郡角山村 | 温室 | "土台・柱を竹筋コンクリートで建造 いちご・ぶどうの栽培に使用 (『農業土木研究 10(4)』掲載の沼田矩雄報告抄録(『土木工学』掲載)にS11建設とある" | 『セメント界彙報』(3月號)(348)(昭和12.3.) |
S13 | 愛知県豊橋市 | 竹筋コンクリート舗装 | 栄町地内国道30号大手橋から南へ延長418m、幅9m) | 『都市公論』 第21巻第12号(昭和13) p.103 |
S14-16 | 奈良県五條市 | 吉野川橋梁 | 戦後の洪水で橋脚が倒壊した時に基礎から竹筋(新聞記事あり) | 勝手に奈良県近代化遺産調査報告書のどれか |
S14.10.10.施工 | 滋賀県西浅井郡速水村高田 | 町村道版桁橋 | l=2.10 床版桁 硬化竹筋使用 写真は河村協「竹筋コンクリート版橋」(『工事画報』第16巻第4号 http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/16-04/16-04-2928.pdf)のほうが鮮明 | 河村協『竹筋コンクリート』p.47 |
S14 | 長野県釜無川筋御影村地先 | 水制工(下高砂第三水制) | 正三角形C床版に幅30cm長3.2mの竹筋コンクリート柱を三角形に組み合わせた水制工 | 安芸皎一『河相論』p.155-156 |
S15.3. | 林檎貯蔵用倉庫 | 鉄筋・竹筋併用 著者会社建設 | 中村宗右ヱ門「竹筋コンクリートの思い出」(『全建ジャーナル』第36巻第1号(通巻421号)(平成9)) | |
S15頃 | 愛知県東春日井郡高蔵寺町地先 庄内川架設 | 高蔵寺橋 | 基礎井筒、U型溝ブロック(幅35cm/全幅70cm)、馬蹄形暗渠(幅40cm/全幅64cm)、境界杭 | 大竹良記「竹筋使用工法に就て」(『土木技術』第2巻第4号 昭和16.4.) |
S15 | 滋賀県東浅井郡上草野村 草野川架設 | 寺師橋 | 橋脚基礎井筒 鉄沓も省略 写真・詳細図あり 伊勢湾台風で流失 | 河村協『竹筋コンクリート』(昭和16)p.99 |
S15 | 奈良県天理市 | 豊井浄水場貯水池 | 改築に際して竹筋使用と記録あり | 勝手に奈良県近代化遺産調査報告書のどれか |
S15.10. | 神奈川県小田原市 | 明治天皇宮之前聖蹟 塀 | 竹筋使用 | 『明治天皇聖蹟記念誌』p.80 |
S15~19 | 富山県小矢部市 | 小矢部川中部合口用水 橋梁? | 末期に竹筋使用 | 『藪波村史』p.447 吉岡太郎平述懐 |
S16 | 滋賀県甲賀郡土山町地内 田村川架設 | 大山橋 | 橋脚基礎井筒 写真・詳細図あり | 河村協『竹筋コンクリート』(昭和16)p.102 |
S16以前(S19竣工) | 愛知県東春日井郡 | 国道水分橋 | 橋脚基礎井筒 写真あり | 河村協『竹筋コンクリート』p.85、宍戸長十郎「決戦下竣功の「水分橋」」(『道路6(5)(61)』) |
S16以前 | 滋賀県甲賀郡岩根村地内 | 府県道水口野洲線改良工事 版桁 | 簡易竹筋コンクリート版桁 | 河村協『竹筋コンクリート』(昭和16)p.126 |
S15,16頃 | 青森県福地村法師岡地内 馬渕川 | 法師岡橋 | 橋脚 S44架替工事でピッチ20cmΦ25~30mmの竹使用を確認 青森県庁酒井信男・畠山実設計 | 中村宗右ヱ門「竹筋コンクリートの思い出」(『全建ジャーナル』第36巻第1号(通巻421号)(平成9)) |
S16 | 北海道小樽市 | 下水道管? | 裁判所(元緑町所在現青少年科学館)通り三百米に実施 | 『小樽市史』第6巻 p.707 |
S17 | 岐阜県各務原市 | 旧那加上水道水源井ドーム | 水源井を覆うドーム屋根 直径5m高さ2.8m | 岩田孝「地下水を水源とする各務原市上水道」(地下水技術協会『地下水技術』36(11)) |
S17 | 大阪府茨木市 | 府県道三島江茨木線第11号床板橋 | 設計図 「セメントコンクリート」1985に施工者による記事あり 土木施工 32(4)に施工中の写真など詳細あり。 | 日本橋梁協会『虹橋』第34号(昭和61.1.) |
S17 | 鹿児島県国分市 | 消防分団水槽 | 上小川分団に消火用水タンクを竹筋ラスで製造 その他類似例あり | 『国分郷土誌』p.544 |
S18 | 小林市東方字橋満 | 橋満橋 | 竹筋使用 市指定文化財 | 小林市ウェブページ |
S18 | 大阪府八尾市大正 | 河内地下道(府道八尾藤井寺線:アンダーパス隧道) | 大正飛行場下を潜る形で建造、現在は河内地下道調節池として利用。現役時写真は大正出張所だより2022にあり。出典「大阪府下水道フェスティバル'91」報告の中に「鉄筋ならず竹筋コンクリートでした」の記述。 | 『下水道協会誌』28(12)(335))地方支部だより |
S18頃 | 横須賀市追浜海軍航空技術廠内海軍施設 | 溝橋 | 竹筋コンクリート使用という伝聞 | 中村宗右ヱ門「竹筋コンクリートの思い出」(『全建ジャーナル』第36巻第1号(通巻421号)(平成9)) |
S19 | 愛知県名古屋市/海部郡大治町 | 大正橋 | 解体時に橋脚基礎から竹筋コンクリート、『大治町民俗誌』には建設の記述 | 株式会社総合コンクリートサービス Facebook、『大治町民俗誌 上』p.113 |
S19 | 岐阜県岐阜市加納西丸町 | 岐阜市立加納小学校 プール | 竹筋使用 (改築済?) | 『加納百年 : 写真集』p.100 |
S19 | 高知県高岡郡四万十町津賀 | 津賀ダム | 竹筋コンクリートだったという証言あり? | 門馬淑子「水の自治-3-過疎・過密問題と水問題」(『月刊自治研 23(9)(264)』) |
S15~21 | 愛知県名古屋市 | 大江川護岸工ケーソン | 鉄材不足で竹筋も使用 | 愛知県名古屋土木出張所『伊勢湾台風名南三川復興誌』p.14 |
S21頃 | 山形県某漁港 | 防波堤 | 竹筋コンクリート造函型ケーソンで破損箇所を復旧 著者はこの時期竹筋コンクリートに関する報告を多数発表 | 中村作太郎「竹筋混凝土防波堤設計概要(1)」(『土木技術』第3巻第3号(昭和23)) |
S22、23 | 青森県三戸郡上郷村原向地内の沢 | 掛樋 | 竹筋コンクリート使用(三戸土地改良事務所 西山康二氏) | 中村宗右ヱ門「竹筋コンクリートの思い出」(『全建ジャーナル』第36巻第1号(通巻421号)(平成9)) |
不詳 | 福島県西白河郡白河町 | 農林省林業試験場白河試験地(白河森林測候所) 気象観測室、雨量計地下室 | 気象観測室は建坪16.3㎡、総工費1069.63円 栗石基礎の上に1:2:4竹筋コンクリートで壁体を作る 天井は径9mm鉄筋 その他鷹巣(秋田)、釜淵(山形)、十日市(新潟)等の各試験地で建築物の一部を竹筋コンクリートで施工 | 内務省土木試験所『時局下に於ける土木施工法』(昭和18)pp.194-195 |
不詳 | 岩手県金沢村地内 | 版橋 | スパン1.4m | 内務省土木試験所『時局下に於ける土木施工法』(昭和18)p.196 |
不詳 | 富山県高岡市 | 版橋 | スパン4m | 内務省土木試験所『時局下に於ける土木施工法』(昭和18)p.196 |
不詳 | 静岡県 | 富士川水制 | 内務省富士川改修事務所 従来の鉄筋コンクリート水制に代え竹筋コンクリート水制を使用 | 内務省土木試験所『時局下に於ける土木施工法』(昭和18)p.196 |
不詳 | 埼玉県入間市 | 川越線入間川橋梁橋脚の締切枠 | 土木工学第8巻第10号に今野技手報告あり その他広鉄工務部では境界柱などに使用 『日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)篇』には橋脚井筒も使用とある | 深谷俊明「物資節約の諸例に就て」(『鉄道講習会講演集 第21回』(昭和15)) |
不詳 | 高知県高知市 | 高知市臨時書庫 | フーバー竹筋使用 被災・解体 | 『高知市戦災復興史』p.233 |
不詳 | 高知県高知市江の口 | 高坂高等女学校プール | 『高知市戦災復興史』p.233 | |
不詳 | 高知県高知市 | 追手前小学校プール | 竹筋使用 改築済 | 『高知市戦災復興史』p.233 |
不詳 | 東京市江東区 | 河川沿岸高潮防禦施設(護岸補強) | 在来護岸の根固め・漏水防止のため竹筋コンクリート壁面を取り付け | 細田貫一『竹筋コンクリート工』p.161- |
不詳 | 東京市 | 開渠 | 小河川改修工事の附帯工 幅・高185cm | 細田貫一『竹筋コンクリート工』p.171- |
不詳 | 東京市 | 竹筋コンクリート暗渠 | Φ=100cmの円形暗渠 | 細田貫一『竹筋コンクリート工』p.176- |
不詳 | 東京市 | 細田式コンクリート矢板擁壁 | 著者新案特許 東京市界面埋築に使用?(本来鉄筋を竹筋に置き換えた場合の説明) | 細田貫一『竹筋コンクリート工』p.178 | 不詳 | 青森県三沢市 | 旧海軍航空飛行場内施設の小橋梁 | 竹筋コンクリート使用という伝聞 | 中村宗右ヱ門「竹筋コンクリートの思い出」(『全建ジャーナル』第36巻第1号(通巻421号)(平成9)) |
不詳 | 埼玉県所沢市 | 飛行機格納庫 | 解体時に竹筋確認と伝聞 飛行機掩体壕への竹筋使用は偕行(416)に大陸での建設経験談あり ただし竹筋掩体壕は試験の結果不適格と判断されている(この記事だったか別の記事だったか) | 中村宗右ヱ門「竹筋コンクリートの思い出」(『全建ジャーナル』第36巻第1号(通巻421号)(平成9)) | 不詳 | 奈良県五條市新町 | 防火水槽 | 破損した防火水槽に竹筋露出 | 部録" |
不詳 | 滋賀県甲賀郡鮎河村地内 野洲川架設 | 宮下橋 | 橋脚基礎井筒(建設予定)(詳細図あり) | 河村協『竹筋コンクリート』(昭和16)p.115 |
不詳 | 長崎県東彼杵郡香焼村(香焼島) | 川南造船 船渠 | 竹筋コンクリートで製造 竹が腐朽して底が割れ建造していた戦時標準船J型船を破損という記述 | 白井秀雄「終戦ごろの造船設計部の仕事」(『原爆前後 2』p.302) |
_ tyaffic [何が切ないって、百舌はそれを忘れてしまう事…。]
_ nagajis [皆さんも、せめて食べてあげてほしい…との感想を漏らしておりました。 どこだったか忘れましたが、不義理をしてしまった鳥に対してお詫びのつもりでこんなことをしているのだ、と言い伝えているところがあっ..]