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2020-12-03 [長年日記]

[近代デジタルライブラリー][煉瓦][] 監獄則を経始とする煉瓦製造

太政官達 監獄則並図式 明治5年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952/238

日本近世行刑史稿. 下

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459348/578

第4等。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459348/600

石川島監獄の図。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459348/637

明治22年監獄則改正。監獄則施行細則で業種が固定される(それ以外は許可制)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/790889/18

警眼叢書. 第三巻。M22監獄則施行細則の原文。

えーっと。明治5年に出た太政官達378号「監獄則」は日本最初の監獄法。囚人にさせる作業の例として煉瓦製造が出てくる。かなり早い。

この法は小原重哉がイギリス植民地の監獄法を参考に作成したとされる。植民地でも煉瓦製造が定番だったのだろう。また当初から監獄は煉瓦造で作ることを想定していたので(これは同法の最初の方に書いてある)、それもあって囚人に煉瓦を製造させようとしたらしい。ただし作業の等級としては低く、1~5等のうちの第4等の作業だった(達文には煉瓦等の粘土の調製とあるが、その注釈で煉瓦製造窯・器具の図を指しているので煉瓦製造そのものを指しているはず)。煉瓦製造という仕事の位置づけがよくわかる。

囚獄権正、小原重哉を政府が獄制調査委員として東洋英領地方(ホンコン、シンガポール等)に派遺し、その実状を調査させ、(菊田幸一「監獄法の改正について(二)」法律論叢, 58(1)pp.39-71 1985-07-25

この則には付図があって、ここに煉瓦を焼く窯のことや製造に使う器具が簡単に説明されている。窯はアメリカ・イギリス風の四角窯。煉瓦で壁を築いて中に詰めて天井は粘土で蓋。

器具といっても台、模範(型枠)、水桶くらいしかないが、型枠で製造した煉瓦素地?の寸法が「8寸3分×4寸×2寸1分」と書かれている。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787952/257

このサイズの素地を焼いて、等方的に3辺が9割に縮んだとすると「226.341×109.08×57.267mm」になる。これはかなりの精度で「7.5寸×3.6寸×1.9寸」になる。これは作業局形が最も近い。あるいは並型の7.5×3.6。

inchで考えると「9inch*4-1/4inch*2-1/4inch」。9inchは8-7/8でもいい。

「9inch*4-1/4inch*2-1/2inch」だとStaffordsher型に寄る。このサイズの少し薄いやつということになる。

これを後年、銀座煉瓦街を作る時に「厚2寸」としたのが東京型。そのまま使ったのが初期の官設鉄道用煉瓦(後年そのサイズがデファクトスタンダードとしての作業局形になる)。それを作る時に焼き締まり過ぎて7.4寸×3.5寸×1.75寸となれば大高のいう並型。これは想像だが。

一番重要なことは、この太政官達が各府県に達した結果、囚人労働として実際に煉瓦製造を行ったところがあったということ。その製品が明治10年の第一回内国勧業博覧会に出品されている。例えば警視庁監獄所(小菅か石川島か)。例えば三重県庁。三重県庁の証拠は12/4のリンク(明治10年内国勧業博覧会出品目録)を。兵庫県や千葉県もその可能性がある。

大阪府はこの頃阪府授産所で煉瓦製造を教えていた。開始は明治6年。この時のも監獄則のを参考にしたかと思ったが、出土煉瓦の平均寸法は「23.47×11.5×5.6mm」で、長手小口が大きく厚が薄い。

監獄則図式では模範に詰め抜き出して乾かして焼く、とだけ。各府県出品は「明治10年内国勧業博覧会出品解説書」を見よ。これをじっくり読むと製法がちがうのがわかる。型枠から外してから整えるのか、型枠に入れた状態で整えてから型枠を外すのか(後者はどうも兵庫県のようだ。三重県のは型枠から外してだったと記憶する)。

この監獄則を出発点とする煉瓦製造の系譜も考えなければいけない。

あと、明治20年代に監獄で煉瓦製造が増加するように見えるのは、明治22年7月に監獄則が改正され、作業種類が幾種類かに固定されてしまったことによるのが大きいらしい。業種は監獄則施行細則を参照。それまでは比較的自由に様々なものを作っていた。石川島監獄では手押しポンプを作って好評を博していたようだし。それが制限され、施行細則でも掲げられている煉瓦製造が一番手ごろな作業として普及した模様。結構金になったようだ。小菅なんか煉瓦販売だけで年に7、8万円くらいの収入があった。

8×4×2寸の型枠で焼くと長手が7.2寸になるのだな。

大阪は粘土がいいので薄くても堅いものができた。東京では関東ローム層であまり強く焼くことができない故に厚い方向に行った。JESで厚60mmになった経緯も東京の煉瓦で強度を確保するためだったはず(大熊喜邦のJES制定の報告を読むこと。あるいはもう一つのやつ)


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