nagajisの日不定記。
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もみもみーしたらいーですよー
というフレーズのCMが昔あったような記憶が蘇り、頭の中をぐるぐる回っているのだが、何のCMであったか、何を揉むんだったか、及び果して本当にそのようなCMが存在したのか覚束無いでいる。気になって気になって仕方ない。しなければならない仕事に手がつかない。楽譜に起こして示せればよいのだがそういう能もない。ただひたすら不明な対象物をモミモミし続けている。どうしたらこのモミモミを解消できるのか。、いや、モヤモヤを解消できるのか。漢字で書けば樅樅だ、木人人止繰り返しだと喚いてみたが効果があるはずもない。
そもそも何でこんなフレーズを思い出したのかよくわからない。性的な欲求不満がポークなわけでもないしモミモミされたいわけでもないはずなんだが。一体何が?と自身に問いかけてみても返事がないのはいつものことだ。
「もみもみ」ではなかったような気もする。CMの替え歌?であり元歌の要素は「したらいーですよー」の部分だけではなかったか。そう思って検索してみるがそれらしいページは見つからなかった。もちろん「もみもみ」込みでも出てこない。ある種の幻覚なのか。見えてしまった死兆星か。
結局のところ喩え話というのは自身の説に有利なものを恣意的に幾らでも援用することができるわけで、喩え話で人を納得させるというのはある種の詐欺なんではないかと思う。諺も然り。「思い立ったが吉日」と「急いては事を仕損じる」は同じ『諺』でありながら真っ向から対立している。一方のあることを敢えて無視しないと使えない。喩え話や諺そのものに価値はない。むしろ使わないほうがましであり例えや諺を多用する人の話は眉唾で聞かねばならぬ。言葉でうまく丸め込もうとする時、威勢をつけるために使われるというまでで、それはちょうどバタフライナイフをシュッ・シュッするようなものだから。
ということを、寝ぼけた頭が「書け」といっている。何かへのあてつけでも縦読みでもない。最近喩え話が多くなったnagajisへの警鐘だ。
脳から垂れ流しの文章を書くのは気が楽でいい。誰に当てたものでもなく気遣いする必要もないここに書くのは気が楽だ。内容など二の次でわけのわからないことを語感とリズムだけでてけてけ叩き打ちたくなる、無性に書きたくなることがある。その衝動に任せて書き連ねていると眠くなる。ある種の睡眠導入法かも知れぬ。書いたものに責任を持たずとも既出フレーズ慣用句の頻出を厭わずともいいのが楽だ。これくらい楽に原稿書いたりメールしたりしたいものだ。その結果どうなるかはさておきだ。
そして今年も長浜ボンバイエが始まった。滝に打たれた女性が「水が冷たかったので今年はいい年にしたい」と語ったというニュース原稿に反応したりもした。室生犀星とスロー再生の相似性に思いを巡らせ「論破ルーム」の恐ろしさを怖じる何も変わっちゃいない35回目の冬である。
>「論破ルーム」・・・・・・こ、こ、こえぇぇぇぇぇ((((>_<))))
良い子も悪い子もみな等しくみどりおねいさんに論破されていくのです・・・<br><br>そして次のカットではクマちゃん人形に置き換えられ・・・<br>一人・・・また一人と消えていく・・・