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旧道倶樂部録"

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2011-05-29 [長年日記]

[独言] 鋼材統制の背景とその後

安治川隧道の記事で戦時中の鋼材統制について書いたわけだが、参考のために何か体系的な本を読んだわけではなく、神戸大学図書館の新聞記事文庫から関連する記事を拾い読みして書いただけなので、自分でも稍々不安なところがあった。高校日本史じゃ近現代はすっ飛ばすしね。あとになって日本経済新聞社「日本産業百年史(上・下)」を手に入れ、鉄鋼生産の下りを読んでみたが、大きな誤認はなさそうな感じ。ただ「日本製鉄」の成立や鋼材不足の根本原因について理解し損なっているところがあるようなので、その辺りを自分のためにまとめ直してみる。

話は官営八幡製鐵所の設立あたりから始める必要がある。八幡製鐵所は日本で初めて銑鉄鋼鉄を一貫で製造できる製鉄所として設立された(銑鉄=鉄鉱石から取り出した鉄。高炉を用いる。炭素を多く含み鋼鉄の原材料や鋳鉄原料になる。鋼鉄=銑鉄を精錬して炭素の含有率を下げた鉄。平炉を利用)。建設は明治30年(1897)から始まって、34年にはとりあえず完成。しかしコークスの質が悪くて操業はうまくいかなかった。これは質の高いコークスの利用を前提としたドイツ式の設計であったことが原因だという。なお原料の鉄鉱石は清国の官営製鉄所に属していた大冶鉄山からの輸入が中心で、日本には大規模な鉄鉱山は皆無に等しい状況だった。豊富に利用できたのはせいぜい石炭くらいで、それで筑豊の炭田地帯に八幡製鐵所が設けられたことは皆さんも御存知だろう。

明治37年に日露戦争が勃発、鉄鋼需要の増大を期に抜本的な改善が加えられ、同年7月に正常操業に漕ぎ着けた。これによって国内需要の一部を国産鋼で賄えるようになり(黒字経営は43年から)、大正3年には総供給高に対する国内生産量の比は銑鉄で64%、鋼鉄で44%に上昇した。第一次大戦前には八幡製鐵所の生産量だけで国内生産量の7割前後(銑鉄)、8割前後(鋼鉄)を占めるまでになった。大戦期には民間の製鉄所でも近代化が進み、生産量が増加したことで八幡製鐵所のシェアが下がる場面もあった(47%、51%)が、民間製鉄所は砂鉄を原料とする平炉が乱立した結果であって、本質的には八幡製鐵所の優位に変わりはなかったようだ。

大戦景気とその反動の不景気の時代を経て、昭和4年には国産銑鉄の63%、粗鋼の58%、鋼材の46%を八幡製鐵所製が占めるようになっていた。国産鉄の国内受給率も徐々に増加して、鋼材に関しては昭和7年に初めて供給が需要を上回り海外輸出をも行なっている。しかし銑鉄については昭和15年に自給率80%に達したのがピークで、それ以外はずっと60〜70%のラインで推移した。銑鉄は慢性的に不足気味だったのだ。これは民間製鉄所の多くが平炉しか持たない小規模なものだったからで(昭和7年で平炉20に対し高炉4)、自前で銑鉄から作るより、銑鉄や鉄くずを輸入して、それを原料に鋼鉄を作るほうが安上がりだったし、国内需要もそれで充分賄えていたのだ。

銑鉄の輸入先としてはインドや満州があった。特に満州には明治44年設立の大倉組本渓湖煤鉄公司、大正7年設立の満鉄鞍山製鉄所があり安定的な銑鉄供給元になっていた。くず鉄はアメリカからの輸入が大半を占め、他にインドからの輸入も多かった。こうした安価な鉄を原料に鋼鉄を製造し、需要を上回る生産が可能になっていたのだ。

ただし、原材料を海外に依存しなければならない状況は依然として不可避なもので、それが海外と価格競争をするうえでネックになっていた。海外にもひけをとらない製鋼能力をもち、充分に近代化がなされていた銑鋼一貫操業の八幡製鐵所はともかくとして、それより1桁も小さな生産力しか持たず、くず鉄輸入に頼っていた中小製鉄所が林立している状況は、日本全体の鉱工業にとって不安定要素だった。競争原理だけに任せていては弱小製鉄所の共倒れになる危険性もある。そこで国内の鉄鋼生産を一本化し「官民製鉄業を調和」することが考えられ、それは大正5年(1916)頃から検討されている。だから戦争激化による鋼材統制の一環として突如日本製鉄が出現したのではなく、その素形は第一次大戦前から考えられていたことになる。

大戦後の反動不況の頃、大正10年には「臨時財政経済調査会」が設けられ、製鉄所の合同、経営委託といった案が政府に答申されている。大正13年12月には鉄鋼業の国際競争力を高めるため「鉄鋼調査会」が設けられ、渋沢栄一団琢磨(三井財閥)、木村久寿弥太(三菱財閥)といった面々によって議論され、同様の趣旨の答申があった。これらは直ちに実現しはしなかったものの、後の「日本製鉄」設立に結びつくものとなった。

昭和に入ると、金解禁と世界恐慌の波及で製鉄会社は不況の底に落とされた。自力更生が難しいと見た各社の間で官民合同によって資本を守ろうとする気運が高まり、銀行もこれを支持。そして官民合同論者であった高橋是清が昭和7年に蔵相に就任すると話は急速に進展し、それで昭和8年3月の「日本製鉄株式会社法」の設立を見、翌年1月には資本金3億4000万円の「日本製鉄」創立になるのだ。

ただし、この新会社は当初の構想とは大きく異なる性質のものになった。日鐵に参加したのは釜石、輸西、三菱、東洋製鉄の4高炉会社と、富士製鋼、九州製鋼、大阪製鐵の3平炉メーカーの7社だけ。平炉メーカーのほとんどは景気好転を理由に参加しなかった。これら不参加メーカーは一種の「アウトサイダー」となって、政府が推し進めた「日鐵中心主義」政策と対立していく。

といった具合で書いてたらだだ長くなった・・・要するにだね、戦前の製鋼能力は平炉中心だったけれども、昭和9〜11年頃に高炉建築で一貫製鉄への転換が図られ、戦時中にピークを迎えるくらいに増強された。しかし製鋼能力に対して銑鉄生産が追いつかなくて、それが鋼材不足を決定づけた、ということを書かなければならない。

昭和14年に使用が許可制になって沈埋管の築造に影響が出だすころは、鋼生産量はまだまだ伸びつつあって、銑鉄は昭和17年に、粗鋼は昭和18年に最大となっている。けれども、これは軍需向けの高規格鋼が増えた結果であって、一般鋼材は昭和13年くらいから下降線をたどったとか。インド銑の輸入は金解禁の頃から下がり始め、15年にアメリカくず鉄が輸出禁止になるわけだが、(昭和12年の「製鉄事業法高」によって民間資本の高炉の建設を政府が後押ししていたものだから)それが必ずしも直接的な影響とはならなかったらしい。むしろ高炉用の原料が不足し、かつ急ごしらえで民間が扱いに慣れていなかったために、大陸産の低品位鉄鉱石から良質の銑鉄を取り出すのに苦労したことがつまづきになった。慢性的な銑鉄不足+高炉技術の不足+くず鉄不足→とても鋼不足という流れだ。

もう少し早くから高炉が普及していればまた違った流れになっていたかも知れない。しかし八幡以外は絶対的な生産量が小さく、終戦直前には休止状態だったところばかりだったから空襲の対象から外され、無傷で残った施設も多かった(高炉は徹底的に破壊されたが平炉や圧延工場などは残った)。そうした製鉄所が戦後の復興期にいち早く再稼働し、石炭・製鋼への傾斜生産方式の基礎になって、その後の鉄鋼業の飛躍に繋がっていくのだから、何が幸いするかわかったものでない。これは歴史の不思議とか綾とかいうよりも、その時の最善策にとことん注力して難局を乗り切り、剰え好転へ持っていった先人の偉さに敬服すべきところなのかも知れぬ。そのへんの、今に直結する歴史をすっ飛ばして教えられたことは色々と不幸なんじゃないか。

戦時中の鋼材統制については再度学ぶ必要があると思う。終戦直前の辺りがちょっとあいまいだ。まとめた本があるみたいなので今度読んでみたい。

[独言] 足の具合

G.W.で随分冒険をしたせいかしばらく痛みがひどかった。帰ってきてから1週間ほど足に響いていた感じ。どうもすっきりとは治らんな・・・としょげていた。

足の甲を裏表に捻るような動きに弱い。特に外側へ回す時に、小指の付け根とくるぶしの間の辺りに痛みが走る。なので不整地で土踏まずでものを踏むような動き(特に意図せず踏んでしまったとき)に痛む。びっくりして崩折れるくらいに痛む。

そうやって無理して動かしたせいか、最近は少し良くなってきた。以前は足首の関節(外側)に何かが挟まっているような違和感があって、普通に歩いている時でもそこが痛むことがあったが、最近はそれも意識しなくなって、以前と同じスピードで歩けてる気がする。前回の役員会で家をギリギリの時間に出てしまい、梅地下でいつのまにか早歩きで歩いていた。「Hall in One」に乗って歩けるのはよくなってきた証拠だと思う。思いたい。

あとはつま先立ちできるようになれば。と思ったら第2の困難が発生中。まったくnagajisの体は使い物にならない。さっさとポイしてしまいたい。

[独言] ホットケーキもどきを食う

夜中に目が覚め、とある動画を見ていて、無性にホットケーキが食べたくなった。考えて見れば昨日買った卵がある。小麦粉もある。これで適当につくっちゃろうと思ったら、棚にお好み焼き粉が残っているのを発見した。同じ粉もんやろということでこれでホットケーキを作ってみることにした。さすがにはちみつはなかったので買ってきたが(ローソンにあるとは!)。もしかしたらホットケーキミックスも置いていたかも知れぬ。まあいい。

卵を多めに入れたら膨らむじゃろと思って2個いれたんだが、一枚目はぺったんこのモチモチしたクレープのようになった。2枚目、小麦粉を足してやや多めに生地を入れて焼いてみた。こっちは上手くいったようだ。山芋出汁入りで少々奇異な風味になったが不味くはなかった。

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]
_ おろろん (2011-05-29 22:05)

 本当に何が幸するかわかりません。戦前・戦中と質・量ともに不満足だった日本の高炉一貫製鉄が飛躍するその時期が技術革新による高炉・生産設備の大型化・自動化が進む時期と、それによる高品質製品の実用化に丁度重なった為、輸出部門の重要な一角を担うことが出来る産業に発展できたのですから。<br> 第2次世界大戦前に巨大化がある程度終わり、戦中に自国はおろか連合国の鉄需要を賄う事の出来たアメリカの高炉製鉄業が戦後の技術革新時に、うまく乗る事が出来ずに衰退してしまったのとは対照的ですね。

_ 高橋ま (2011-05-29 23:41)

ホットケーキを意図したものが膨らまないのは、ベーキングパウダー(熱すると二酸化炭素を出し、気泡ができる)が入っていないせいではないでしょうか。クレープだと思えば、膨らまなくてもよいかも。<br>お菓子作りは厳密な計量をうるさく言われますので、適量があるのでしょう、きっと。

_ nagajis (2011-05-30 01:43)

以前なら単に戦争で鉄が足りなくなったとしか考えてませんでした。根っこがどうなってるか考えるのは楽しいですよね。>おろろんさん<br><br>ベーキングパウダー、お好み焼き粉に入ってそうなのでおkと思いましたが甘かったようです>高橋まさん


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