nagajisの日不定記。
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眼鏡のアップデートを待つ間,ぶらぶらと歩き回った.たまたま鞄に偉人伝が入ったままになっていたことを思い出し,それをチャリ部に呉れてやろうと思い立ち,2駅歩いて部室まで行ってみることにしたのだった.
明道館.学生時代に一番長く居た場所.要するに部室長屋である.文化系クラブや古くからある体育会系部が居着いていて(チャリ部も一応体育会系だった),各部が好き勝手に使っていた,やや無法地帯的な場所.言い換えれば最も自由のあった場所である.卒業してからはめったに訪れることもなく,現役生と交流や面識があるわけでもない.昔を懐かしむおっさん風情でふらっと訪れるのが好きだった.
自分が現役だった頃はコンクリート打ちっぱなしの壁,および床天井の汚い建物だった.革マルゴシックで「造反有理」とか書かれてたっけな.入り口の軒下部に軽音の謎の倉庫とピアノがあって,その隣にチャリ部の自転車が詰め込まれてて,ひどく邪魔だった.明道館の中庭は,アメフトの防具,灰色の猫,そしてゴミと腐敗が常にあった.それが今やすっかり小奇麗になって,タイル貼りになっていさえする.違和感しかしない.
昔のチャリ部はBOX2.正面の階段の脇を入ったところ.鍵などなく,土日祝日年末年始関係なく入れていたのだが,自分らが卒業した頃からボヤ騒ぎや盗難事件が相次ぎ,セキュリティーがうるさくなったそうだ.新部室には鍵がかかっていて,それっきり.クリコンの日だというのにケーキ&鍋の用意をする姿も見られない(実は昨晩やってたのかも知れないが).
献本は取っ手にぶら下げてきた(この一冊は自費購入分ということにしておく).
変わらないのはこの銀杏くらいだろうか? 生協食堂との間に銀杏の大木が生えていて,秋口にはそこそこ綺麗だった.すっかり葉を落として寒々しい姿になっていたが,唯一当時と同じ姿をしている.銀杏の葉をモチーフにした図案が校章だ,といちよう説明しておく.
イ号館前の池は埋め立てられて小奇麗な建物が建っている.そのうえ公園風ひろばまで作られてある.一帯が学生の憩いの場になっているらしかった.こんなものはなかったぞ.せいぜい埋め立て後の更地くらいしか記憶にない.石橋配水池のほとりを歩けるテラスまであった.こんなおしゃれ臭いもの,似つかわしくないと思う.
かつてのロ号館前のメインストリート.ロ号館は建て替えられ,ロ大講以外現存していない.なおロ号館は文字通りロの字形になっていたがイ号館はイの字形でなかった.単にイロハで命名してた頃の残滓というだけだ.
このほかにも図書館が作り替えられすっかり様変わりしている.書庫は相変わらずだったように思う.自分は工学部図書館の旧館最上階が好きだった.
入学シーズンにはこの通りでクラオリ(クラブオリエンテーション)が行なわれる.各部寄り集まって一斉に勧誘滑動をする行事.入学した春,何も考えずに自転車部のブースへ直行したのが運の尽きだった.そういえばSさんが泳いでいた池はどうなったんだろう?
イ号館.たぶん現存最古の建物.桃色の塗装が品のなさを体現している(当時からそうだった).西門から入るとまっさきに見えるのがこの建物で,よく目立つことからシンボルタワー的な扱いをされることもある.しかしここで講義を受けた記憶がほとんどない.
西門を入った所の植え込み(大仰に「待兼山庭園」なんて名前がついてたな,そういえば)に,こんなものが建っていた.前身の浪高時代を懐かしんで建てられたものらしい.吐き気を堪えつつ大高全寮歌を謳歌していた我々世代からすると今時感・今更感しか感じられぬ.どの面下げて今頃か.
私の通学路であった西門の坂.自転車部OB会の会報のタイトルにもなっている.私がいた頃はまだアスファルトだった.合宿から返ってくる時,ポタ帰りの時,最後のこの坂を登るのが辛かったり嬉しかったりした.一番思い入れのある坂道だったが,それも変わってしまって,こんな人造石張りの小奇麗なものになっている.
なにより驚いた変化.7時〜20時の間は自転車以上通行禁止になってしまったようだ.まるで学校の所有地みたいじゃないか.そうなったのか.確かにこの坂,調子に乗って下ると危ないのだよな.人が多くて.石張りにしたりしたら余計に危ないだろうと思う.
阪大坂を外れ,石橋配水池の堰堤から見る眺め.この貯水池の堰堤も新しくなっていて,ともかく小奇麗な感じばかりがする.愛校精神が強い方ではなく,むしろ没交渉で通っていたことすら黒歴史だと思っているほどなのだが,変わった姿を見せつけられると本格的に「お前の来る場所じゃないんだよ」と言われているように思われて切なくなる.唯一の拠り所だった部も明道館も変わってしまって,殊更その感が強い.
ネームバリューというか拠るための大樹というか,そういうものとしてOUCCを考えたことはなく,そういうものでないからこそOUCCが好きだった.部の隅にいて主に傍観する係,時折突拍子もないことをやって石を積む係であることに喜びを感じた.Since1966をカウントアップするいち回生であることが誇らしかった.そういうものを感じる対象では,すでに無くなっていることを,改めて感じさせる.nagajisの居場所はいつだって無いのである.
堰堤の上をゆく道を進めば,写真の階段,待兼会館前を経て明道館に直行できる.授業をサボって部室に篭る学生の御用達の小道であり,通称「留年坂」という.自分も留年したがこの坂を登り過ぎたからではない.自転車だと西門入っていったほうが早い.
坂下の通り.全国一湿気た学園通りだと思っている(ちなみに正門前はすぐ外環なのでほんとに何もない).よく利用した2つの古本屋もお好み焼き屋もなくなっている.あるのは二升五合を掲げたいこい食堂(の建物.相変わらず営業してるのかしてないのかわからないボロさ),あまりいい思い出のないクレストウッド,向かいに別館ができたダイワサイクルくらい.
坂下交差点.自分が住んでいた下宿は正面の高架(√171)の方へ進む.左手前−右奥が北摂へ向かう√173.右へ曲がれば√176.この関係,慣れるまで少々かかった覚えがある.一つ北の井口堂交差点のところで三者が分かれるように,長いこと勘違いしていた.
√171の高架沿いに降りていくと,もう1つ,お世話になった古本屋がある.ここは専門書教科書の類が充実.あと時々歴史書の面白いのがあった.串田孫一の「峠」もここで買った覚えがある.かなり初期のこと.水曜日曜定休で,こうやって休みの日に来てしまい落胆するという愚を何度もやった.
近くに主将のI氏宅があったはずで,記憶を頼りに向かってみたが,到達することができなかった.建て替えられたのか,自分が記憶違いしているのか.
√171下の阪急の踏切.すぐ隣に石橋駅があり宝塚線と箕面線が分岐する.この踏切で長く待たされた時は決まって緑のプレートを掲げた準急箕面行きもしくはその逆がやってきた.箕面線は全くといっていいほど利用したことがない.その方面への用事は自転車で済ませていた.
チャリ部御用達の石橋温泉.通称「バシオン」.私は下宿近くの共栄温泉のほうへ行くことが多かった.
駅前通りの丁字路を過ぎ,天神橋を渡って川沿いの細道へ入っていくのがいつものコース.その道から振り返った光景.川の名前は今だに覚えていない.商店街の赤い橋の下を流れている川の末だ.
2002年に長旅に出た時,最初に撮ったのがこの風景だった.もう二度と見ることはないのだろうなと思いながら撮った覚えがある.しかし今,行こうと思えばいつでも行ける距離に暮らしていて,そして数年ぶりに同じ場所に立ってみている.その程度の思い入れである.
昭和43年架設の赤い橋のたもとで川沿い道を離れ,この小道へ入っていくと若干近かった.中央に見える小さな十字路を左へ曲がる.この角で何度ゲロを吐いたことか.追いコンでちゃんぽん酒をピッチャー一杯飲まされたうえ江田賞のトロフィー(とは名ばかりの操舵輪.マジモンの操舵輪で重い・嵩張る・抱えにくいの三重苦の物体)を抱えながら帰る時も吐いた.
天神荘.元は会社の寮だったという建物で,廊下を挟んで部屋が向かい合うという,まさにそれらしい作りの建物.最初は1階の端から2番目の部屋に住んでいた.共同トイレ,風呂なしの六畳+四畳半+申し訳程度のキッチンスペース.やがて2階に移った.部屋の改装が済んでないからということで部屋を移らされたのだ(その改装で風呂がついたが,2階の部屋は未実装で,その部屋に最後まで住んでいた).N氏が置いていったクソ重いドラフターを分解して一人で担ぎ上げたのを今でも覚えている.眼の前が真っ赤になるという比喩を初めて理解した.
大家さんはいま住んでいるところの大家さんでもある.学生時代の縁でいまのアパートに入れてもらったのだ.器用な人で建物の改修や補修なんかも自分でしてしまいはる.この看板も大家さんの手製だったはず.
天神荘前の通り.昔から自転車置き場には屋根がなかった.駐輪ポストもない.この通りに自転車を並べて停めるだけだ.スタンドのない旅行用の自転車には辛かった.
奥に見える茂みは民家の勝手口.イヌビワが植えてある.毎年5月〜6月頃にはいい薫りがしたものだが,イヌビワだし民家の植木だしで食べることはしなかった.そういえば明道館のそばにもイヌビワの木があったっけ.一つ試しに齧ってみたが香りばかりで旨くなかった.
この通りから一つ表に出たところが√173と√171を結ぶ府道で,高架になったその下に小さな公園がある.この公園もなんだかんだでよく足を運んだ.素振りとかしてたような.
フェンスの向こうに見えるオレンジ色の庇は「宮崎たばこ店」の跡.CAMELのある自販機があって便利だったのだが,自分が院のときだったかに廃業して無くなった.
府道を越えて駅方面とは反対方向に進めば,住宅街の真ん中にスーパーと少々の店が集まっていて,小さな商店街を形成している.何でこんなところにあるんだろうと思うような奥まったところ.この商店街が自分が最もよく利用したところだった.
スーパーの隣に共栄温泉.要するに銭湯.ここのコインランドリーは24時間営業(といっていいのか・・・鍵を閉めずにいるので勝手に入れるのだ)で,バイトが24時上がりデフォだった自分には大変有り難かった.
懐かしさのあまり,思わず入ってみると….当時と変わらぬ設備のいろいろ.200えんのこの洗濯機ばかり使っていた.1つ30円の洗剤はいまでもちゃんと機能しているようだ.
そして相変わらず置かれている聖教新聞.どこが契約を取っているのかわからないのだが,必ずその日のものが置かれていた.暇つぶしに眺めていたこと多数.傍から見るとシュールな4コマ漫画も健在.
日が暮れる頃,駅に戻った.ついでに東口へ足を伸ばしてみた.石橋駅は非高架駅なくせに西側の商店街と東口のとを行き来できる通路が1つしかない.それが王将前のアンダーパス.2回の時だったか,大雨で附近が水没したことがある.その時運悪くこの高架下に自転車を停めていて,えらい目に遭った.腰まで浸かって足で掬い上げて回収した.あと,ここで高度計つきのサイクルコンピューター定価8000えんをパクられて泣いた覚えがある.それ以来サイクルコンピューターの類を使っていない.
我が部御用達の飲み屋「すずめのお宿」の跡.引退してからも何度か一人で飲みに行った.人生で初めての行きつけの店だったのに,これもなくなって,面白みのない串カツ屋になってしまった.メニュー立てに挟まれていた「そのひぐらし取って−」「ハッ!」というイラストを今でも覚えている.ママさんは孫ができてよいばあちゃんをしていると風のうわさで聞いた.
もう一つの御用達店の跡.名前を思い出せなかったが,そうだ,「ふるちと」ならぬ「ふるさと」だ.日本酒党はこちらへゆくことが多かった.二次会・三次会とかも.先輩に連れられて行くとこわいことになる店だったので若干敷居が高い印象を持っていた.すずめより先に廃業し,ファーストキッチンになったあと今の店になったはず.嗚呼栄枯盛衰.
石橋駅東口.阪急沿線では最も雑多で不便な駅前.かろうじて車が入れるが,√176高架脇の細道を入って行かねばならず,箕面線踏切を渡らねばならず,うえに学生が絶えること無く行き来したり酔っ払って暴れたりゲロってたりして邪魔なこと限無なところを割り込んでいく必要がある.西口も駅前まで道路が通じてはいるが似たような賑わい.ここで輪行するのは恥ずかしかった.大阪駅とか都道府県庁所在地の駅では平気なのだが.
駅の作りはほとんど変わらないが,入り口に何やら店ができたりエレベーターが設置されたりしている.古レールの扱いも変わった.以前はまだ刻印を読むことができていたが,新たに重ね塗りされてしまい,一文字たりとも読めなくなった.阪急創業時代の古レールが並んでいた覚えがある.
以上,おしまい.
子ウィンドウで開いて補完したれって,そりゃXSSになるわな.面倒だが一つずつ手でコピペしてもらうしかねえ.
やななの制作費は1万円らしい。あれでもいちまんえんもかかるのか!
馬鹿の一つ覚えでWiki化しようとしているが若干躊躇っている.tdbやpdbと違ってスタートライン以前の話だしゴールテープも遠い.霞んで見えないくらい遠い.作っても自分がまったく手を加えないだろうことも明らかである.完全に他人任せである.やってもらうことはフォームにコピペして画像の文字を入力してもらうだけなんだが,その「だけ」が面倒だ.いちいち画像認証せんといかんのも(仕方ないとはいえ)面倒.先に土木関係から始めようか.それともその練習として第78,79項をやっておくか.とりあえず少し寝かす.