nagajisの日不定記。
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と書いてDQNと読む例の読めない名前、実は「諱」が先祖返りして発露したものではないかという仮説を立てている。
その昔、名前を識られるということは即ち呪詛対象にされ得るということであった。神に願掛けをする時はその神の名を唱えることで効果が増すものと信じられていた。神の御名を第一声に唱えるのは、私はあなたを知っているのだ、だから願いを叶えてくれ、という脅しに他ならなかったのだ。だから昔の人は「人に呼ばせる名前」=通名とは別に、本当の名前=諱を持っていた。
世の中が進み、社会が複雑になってくると、人の名を呼ばねばならない機会が格段に増えた。人が無闇に増えた結果、自他を明瞭に区別してもらい、あわよくば自分が一つ抜きん出て覚えられることを望むようにもなった。だから通名を連呼し、わざわざ名刺に刷って配るまでになって、自身あたかも通名=本名であるように錯覚し始めた。人に覚えてもらうためにわかりよい名前をつけることも多くなった(選挙立候補者が下の名前をひらがな書きにしたり等)。そうして諱なるものが存在したことさえ忘れられてしまった。
そして今日、DQNネームと称される「読めない名前」が増えている。敢えて読みにくい名前にしているとしか思えないような珍妙な読みをするものが多い。それが今までの通例通りでないため人の耳目を集めている。やがてはこれが普通になってしまうのだろう。ここではDQNネームの良し悪しを論ずるつもりはない(してもいない約束を勝手に破っているだけであるから)。そうではなく、何故「読めない名前」が流行るのかを考察する。
この、シニフィアンとシニフィエの乖離に準えるべき現象に対し、筆者は諱の精神に通じる何かを感じるのである。特徴的な名前にすることで人に覚えてもらうことを狙っただけでなく、しかしそれが発話できないという罠を仕掛けることで、声に出して呼ばれること即ち呪詛の対象になることを避けようとしているのではないかと思うのだ。そう狙っているわけではないかも知れないが、DNAに刻み込まれた諱精神が心の奥底で作用しているに違いないと思う。だから先祖返りだという表現がぴったりだと思うのだ。
んでそうなった原因は「千と千尋の神隠し」。あれが全部悪い。
そういえば、人の名前に「さん」をつけて呼ぶようになったのはいつ頃からだろう。昔は(諱があったから)呼び捨てにしていただろうが、もしくは「殿」をつけて呼んでたはずだが。「さん」って何のことなんだろう。「どん」は「との」の訛化だろうけど「さん」はわからない。方向を指す「さ」かも知れん。
の帰りに考え事をしながら下車し、考え事をしながら改札に向かって、切符を入れずに通り抜けてしまった。もちろんピコンピコン鳴ったうえドアに叩かれた。駅員さんの視線が痛かった。お前は自動改札を知らない十数年前のおれか。呆け云々以前の問題である。切符は降りる時に使うものだ。覚えとけnagajis。
デジカメで撮影した写真は、 印刷物にすると、どう頑張ってもデジタルだとバレてしまう。特に料理写真。うっすらスモークがかかったようになって、色が鮮やかでなくて、とても旨そうに見えない。画面で見る分には申し分ないのだが、印刷すると途端にまずそうに見える。それを無理栗補正したギットギトな画像も目につく。あれは一体なぜなんだろう。RGB →CMYK変換を失敗したわけでもないだろうに。
CanonのEOS-1Ds mkIIなんかはきれいに出ててさすがと思った記憶がある(自分が持ってたわけではない)。そのせいでCanonのほうがいい発色という先入観があるが、どのパンフレットも似たり寄ったりになってきた。みながみなNikonに流れたわけでもあるまい。
「さん」は「様」の変形かと・・・
あ、そういわれればそうですね(汗 すっかりヌケてましたははは。<br>しかし今度は「様」ってなんだろうという疑問が。(これは検索したら出てくるかな?)
「手紙の書き方」(だったかな?)という古い本の記憶によると、大昔は、相手に直に手紙を届けるのは失礼なこととされていて、お付の人に届けるものだったそうです。「さま」は、誰それの方へ、と漠然と方向を示す言葉だそうです。現代では、「よこざまに」とか、「さかさま」に名残があるとのことです。ちなみに、「殿」は御殿、「御中」は(中にいる)お付の人々という意味だそうです。駄文失礼しました。